母の病気について/逃げられないと悟った幼少期【母とのこと⑥】 | 北川ちほ「彼に愛され続ける可愛いあなたになる方法♡」

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そんなお悩みを持つ女性に、「尽くさず頑張らずに愛される、特別可愛いあなたになる方法」をコンサルティングやセミナーを通してお伝えしています。




 

 

ずっと母親の顔色を伺って

生きてきた私が

 

自分の人生を生きるようになった過程を

書いています。



 

 →これまでの記事はこちらから


 

 



休職中にずっと好きだった絵を再開して

少しずつ自分を取り戻していっていた頃

 

母との間で予想外なことが起こりました

 


 



それは私にとって大きな転機になりましたが





まず先に、それまでの母娘関係が

どうだったのかを書いてみます

 






 

もちろん、いろんなことがあったので

書ききれはしませんし

 

あくまで「私目線」なので

事実ばかりではないことが前提です

 






 

※※※母の病気についてや

暴力的なこともあるので

苦手な方はスルーしてください。

 

 

 

 



 

********

 

 

 



 

私の母は、私が生まれる数年前に

 

多発血管炎性肉芽腫症(旧名ウェゲナー肉芽腫症)

 

という、日本で1500名ほどの難病にかかりました。

 

 

 

 



 

私もあまり詳しくはないですが

 

免疫異常により全身の血管が炎症し、

 

様々な臓器に影響が出る病気です。

 

 

 

 

 



今も完治する病気ではないようですが

 

 



比較的症状が落ち着く


「寛解」という状態を

 

目指せるようにはなっています。

 

 





ただ、母が発症した当時は

 

まだこの病気を理解している医師が少なく、




 

最初は違う病気と診断されたために

 

治療が遅れてしまったそうです。

 

 

 





 

 

そのため症状が重くなり

 

ステロイドによる副作用で骨が縮んだことで

 

外見も大きく変化し、

 

車椅子での生活となっていました。

 

 

 

 




 

だけど、私にとっては

 

生まれたときから


その姿の母しか知りません。

 

 




 

車椅子ではありましたが

 

毎日一緒に生活し、

 

時々旅行に行ったりもしていたので

 

 




 

お母さんは病気なんだと分かってはいたけれど

 

そこまで意識したことはなかったと思います。

 

 

 

 

 




 

ただ、母は私が小さい頃から

 

とにかく気が強く、厳しい人でした。

 

 

 

 

病気だからといって

 

弱々しそうにしてるような人ではなかったです。

 

 





私にも、父にも、


怒りをぶつけまくる人でした。

 

 

 

 

 

 



 

 

私がここ数年、

 

自分の心と向き合うようになったとき、

 

封印していた幼い頃の記憶が

 

たくさん蘇りました。

 

 





 

 

 

 

保育園の頃から、

 

何かと家の外の庭に出されて

 

大泣きしていた記憶があります。

 

 

 


 

 

だけど特にひどくなったのは、

 

小学校1年生の頃。

 

 

 



 

アパートを引っ越し、

 

新築の持ち家に引っ越した頃でした。

 

 


 


私はひとりっこで、

 

父は仕事で夜遅く帰宅するので

 

学校から帰ってからは母と二人きりです。

 

 



 

 

 

まず厳しかったのは食事のとき。



 

 

私は少食でしたが


ぜったいに食べきらないといけないので

 

毎日夕食に2時間かかっていて。

 

 



 

 

一度、どうしても食べきれなくて

 

こっそり捨てたことがありました。

 

 

 



 

しかし、母に見つかり、

 

母はゴミ箱から


私が捨てた食べ物を拾って





それを私に見せながら言いました。





 

「なんなのこれ?」

 

「なんで食べられないの!」


と。



 

そしてその捨てた食べ物を


無理やり口の中に入れられました。

 




ごめんなさいと謝り、


その後も2時間かけて食べる日々でした。





 

 

 

だけど小学校高学年の時に

 

祖母と行った京都旅行で初めて

 

楽しく食事ができたことがきっかけで、

 

人並みには食べられるようになり。



 

食事のことで怒られることはなくなりました。

 

 

 






 

 

 

門限については


大学生くらいまでずっと厳しかったです。

 

 

 

 

小学4年生くらいの時に

 

公衆電話から「ごめん間に合わない」とかけたら

 

母が無言で電話を切り、

 



 

急いで家に着くと

 

鍵のチェーンがかかっていて、

 

謝り倒して


やっと家に入れてもらったこともありました。

 

 

 

 

 




そしてそういうことがあった後は、

 

家の中でしばらく叩かれました。

 

 





腕を強く掴まれたまま、

 

泣いて謝っても許してもらえず。

 





 

机の上の物を全部落として


投げつけられることもありました。

 

 

 

 



 

 

こんなことが小学校低学年から


高学年になるまで続きましたが、



 

このことは誰にも


言ったことがありませんでした。

 



 



 

お母さんを嫌いになれなかったし、

 

言ったことがバレて

 

もっと酷い目にあうのが怖かったから。





そして普段は一緒に旅行なども行っていて


仲が良いときもあったから。





子どもの頃は、


これが普通じゃないことだとは


分からなかったんです。




 

 

 

 



 

だけど一度だけ、


「もう逃げよう」と思って

 

家出を試みたことがあります。

 

 

 



 

小学校高学年の時で


携帯は持っていなかったので

 

家の子機を持って飛び出し、

 

「子ども相談センター」のようなところに


電話をしました。

 

 

 





 

「助けてほしい。逃げたい」と言ったら

 

電話の向こうのおじさんが言いました。

 

 

 




















 

「お母さんはあなたを想ってるんですよ。

 

心配してるはずだから早く帰りなさい」と。

 

 

 





 


 

絶望しました。

 




ああ、私はもう

どこにも逃げられないんだ

 

 

私が悪い、間違ってるんだ

 

 

帰ってまた、

お母さんの言うことを聞くしかない

 

 

どんなに怒られても叩かれても

我慢するしかないんだ

 




 

と、小学生ながらに悟りました。

 

 

 

 







 

それからは、

 

叩かれても何も言わずじっと耐えていました。

 

 

 


 

 

 

 

そして、中学校に入ってからは


門限に絶対に間に合うよう


常に時間を気にしたり

 

勉強を頑張りいい成績をとることで

 

母の機嫌をとるようになったり

 

 



そのうちに

 

母もだんだんと暴力を振るわなくなりました。

 

 

 






 

だけど、


私の生きづらさはずっと続いていて。







 

 

 

好きな男の子の話をしようものなら、

 

相手の親に電話すると言い出したり、

 

高校生、大学生、社会人になっても

 

「どこにいるの?」と常に連絡が来たり。

 

 



 

こんな学校に行きなさい

 

こんなひとになりなさい

 

あの人に会ったらこう挨拶しなさい

 

 

 


 

 

私も私でだんだんそれが普通になっていたので、

 

なにをするにも


母の許可を得ようとするようになっていきました。

 








 

 

美容院に行くにも

 

「ここがいいかな?」とか

 

自分の人間関係についても

 

「この人のことどう思う?」と聞いたり

 


 

母が「この人いいね」と言った俳優を

 

私も好きだと言ったり。。

 

 

 

 




 

新卒で入社した会社も

 

母が「ここいいんじゃない」と言った会社でした。

 

 







 

端から見れば

 

仲のいい母娘に見えていたかもしれません。

 

 







私自身も、


強いお母さんを尊敬して


お母さんの喜ぶ顔が見たくて


いろいろ頑張っていたので




健気な娘をやっていたのかもしれないです。



 

 






 

だけどそんな私が

 

心屋に出会ったことで





 

やっと、やっと、


母との関係を変えるきっかけができたのです。

 

 

 






つづく