母、永眠  | Ichihara家

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シングルマザーです。お腹の赤ちゃんの成長を書き綴ります。

6/2午前6:59永眠しました。
自分は、この親の子で良かった❗

母には、虐待されて、ご飯ももらえず、叩く、蹴る、引きずり回される。こんなことがあった、、幼少期。

ずっと、ずっと、許せなかった。
でも、自分が子供を産むたびに、母を許していく気持ちに少しずつなってきていて、この人がいなければ、私は産まれなくて、私の子供達もいない❗と思ったら、少しながら優しくできるのです。

でも、一番下の息子を出産する頃に肺ガンの末期だと発覚し、私は、管理入院していたため、聞くのが遅くなりました。胸水がたまって、他の病院に救急移送されるまで、事の重大さに気づいていませんでした。なぜなら、それまで精神病院に入院していた母は、退院準備できるほど心が穏やかでしたから、突然の移送、それも事後報告でした、、

私も産後で、夜泣き真っ最中の2ヶ月の息子を連れて八王子の病院にいきました。移送先から、精神病院に帰ってきます。とのこと。帰ってきた母は1回目の面会は眠りっぱなしでした。2回目の面会でようやく話せましたが、セキが少しでる、手も足も胴も拘束されていました。看護師に聞けば、転倒、転落の恐れがある!と可哀想でした。セキをしたくても、口に手をもっていくことができず、、苦しいから背中を丸めたくても、胴抑制のせいで仰向けのまま、、ベッドを起こすこともできず、、ただ私や孫達を会いたい!と待っているのです、、


帰ってから、沢山考えました。もういいのではないか、許してあげても、、神様、、と。

母は若い頃、人に良い事をしてこなかったから、こんな風にされてしまった!と思いました。そして、末期ガンならば、痛みも苦しみも総て取ってあげたい!と、、

緩和ケアのあるホスピスに転院をお願いしました。

そちらの病院は秋川のほうにあり、更に遠くなりました。2ヶ月の息子と行くのは4回の電車の乗り換えがあります。それでもそちらの病院にお願いしました。ホスピスは待ちがあるようでした。家族との面談後に入れるか?考える、、と言われました。母は精神の患者なので、ホスピスで受け入れ可能なのか?ということでした。残念ながら母は何日も抑制されていたせいもあり、食事も取らせてもらえなかった(精神病院だから?扱いがわからなかったのか?不明、、)せいで、暴れる元気は、ありませんでした。
それだけではなく、暴れる元気がないのに、抑制されていることを私は母を思うと辛い、、と、医師にお願いしました。どうか、抑制を外し窓のある明るい部屋で余生を送らせてもらえないですか、、と。
その医師は私と同じ小さいお子さんをお持ちの方でした。まだ2ヶ月の息子を抱っこして、泣いてお願いする私の願いを聞いてくださいました。
神様だと思いました。GW の頃から、いつどうなってもおかしくない状況の中、やっと見つかった病院でした。
転院日6/1
転院してすぐに呼吸が苦しく早くなり、血液検査の結果、数値もいまにも息をひきとるぐらいの数値だと言われました。肩をさすり、頭を撫でました。
楽にする薬をつかっても、15分もたず、、
夕方まで病院にいました。ですが、息子のデイサービスのお迎えがあり、帰らなくてはなりません。
母は薬が聞いている間だけ、少し話すことができて、頭を撫でたら、(親孝行だね!)と、本当は親孝行じゃありません。ずっと許せなくて、面倒みたくない!と思っていた時期もあったんてす。それに、母が精神の病気だから、最期までガンだということを言いませんでした。いつも笑って、誤魔化して、嘘ついて、、。(そろそろ帰るね😉)というと、(帰らないで)と、、(ごめんね、ひなとのお迎えがあるから)というと、(わかった、気をつけてね)と

その日胸騒ぎがしました。やっぱり、ヒナトを連れて今晩は赤ちゃんと3人で病院に泊まろうかなぁ、、でも、転院初日だし、明日にしよう!と、、家にいました。いつも(今度いつくる?)と母は聞いてきます。(遠いから明後日来るよ!)(わかった)と、、

でもその翌日、晴れた気持ちの良い朝に母は息をひきとりました。明るい陽の光を浴びて、涼しくしてもらい、ベッドを起こし気味にしてもらい、拘束もせず、山々を見ながら、家族の写真に囲まれて、、転院を心待ちにしていたのかも知れません。やっとホッとしたのかも知れません。
GW ぐらいから、ずっと待って、家族の面会も待って、転院する前の病院では、拘束されて窓のない部屋で、転院してから、解ったのですが、口腔ケアがされてなかったそうで、口の中に茸のような舌苔が沢山ありました。
本当にひどい精神病院でした。
私が後見人さんにお願いして、見つけてもらった病院でしたが、まさかそこまで酷いとは、、母は、死の前日に2度殺されかかった、、と、転院前の病院のことを言っていました。
許せないです!

もしかしたら、あの病院じゃなかったら、もう少し延命できたかも知れない、、と今は思います。
そして、母はどんな時にも、私の味方だった!と思い出しました。
(いつも家族のこと、江里のこと、子供達のこと祈ってるからね✨)と、、
生前、彼に会いました。彼氏だと知らずに、、
その人は息子の父親でした。
知らないはずの母が総て解っているかのように(江里が決めた答えなら、それでいい、私は貴女が幸せになれることなら賛成よ😉)(相手の方と結婚するならしてもいいのよ)(一人で産むでもいいし)(私はね、孫を沢山産んで家族を増やしてくれて本当に嬉しいし、喜んでるのよ✨)といつも、どんなことでも、味方でした。一人で産むこと、、何も言わず賛成してくれたよね、、
たった一人の味方だった、、なのに、、なのに、、私は、、昔のことをいつまでも許せなくて、、ごめんなさいママ。待たせてばかりでごめんなさいママ。旦那さんを見せてあげられなくてごめんなさいママ。幸せになれなくてごめんなさいママ。でもね、私は、子供の笑顔が幸せなの。それに、こんな可愛い子供を授けてくれた人にも感謝してるの。だから誰も怨んでないし、ささやかな幸せが一番!それ以上の幸せを望むと逆に傷つくのが解ったから、もう恋愛は辞めたの。でもね、ずーっと片想いして、ずーっと待ってるんだ、、一番下の子のパパは私が死んだら葬儀に来てくれるかなぁ、、こないだろうね、、あの頃の私は自分でも、ワガママだったし、なんであんなに束縛してたんだろう、、きっとそれほど、おかしくなるほど、好きだったのかもしれない。そんな恋愛ができたことも幸せな人生だよママ。私が死ぬ前に、もう一度、彼がドラマみたいに迎えにきてくれたら、、なんて、、
もう夢を見るのは、辞めるよ、、ママ。
私もきっとママみたいに一人で看護師さんに看取ってもらいながら死ぬんだと思う。
私もガンになりうるね、遺伝こわい、、
麻央さん、ご冥福をお祈りします。
母と重なる部分もあり、海老蔵さんの気持ちが解ります。母も最期まで、家族の心配や知り合いの心配でした。母は偉大です。