障害者施設での事件から思う障害者の存在意義と容疑者の心の闇 | アンチエイジング美人への道しるべ ~ふじこ道~

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笹倉美紀【セルフリフティングインストラクター】のブログ

アンチエイジング美容が大好きなセルフリフティングインストラクターの笹倉美紀こと、
ふじこのコダワリ美容あれこれ話。

先日から私の心を暗くしているのはあの事件。
相模原市の障害者施設での死傷事件。

犯人の植松聖容疑者
右だとか左だとか、、、
はたまた
非社会性パーソナリティ障害だったとか妄想性障害であったとか、、、
私は専門家じゃないしそんなのはちっとも分からない。


だけど、彼が病んでいたことだけは分かる。


なぜ、こんな残酷で自分勝手な考え方をするようになったのか?
いつから?
何がキッカケで?
親はどうしていた?
追い詰めていなかったか?
完璧を求めすぎてはいなかったか?
「ねばならない」で育てていなかったか?


そんなことばかり…
考え続けている。


彼が生まれた時
それはそれは喜びをもってこの世に迎え入れられたんだろうと思う。

「聖」と書いて「さとし」と読む。
両親の喜びと期待が込められている良い名前。
どれだけの想いで親はこの名前を命名したのだろう。


素晴らしい青年に成長するはずだった。



彼に対する愛情はいつから彼の求めるモノと違ってきたのだろうか。

犯行予告、動画、刺青、、、
そのどれもが彼の「助けて」と言う心の叫びに思える。

本当は生きるのが辛かったんじゃないんだろうか?


障害者への強い偏見、差別…。
彼にとって自分より弱い者は障害者しかいなかったのではないかとさえ思えてくる。



この世から「居なくなればいい」の中には自分も含まれていたのかもしれない。
重度の障害者の姿に、思うようにならない自分の姿を重ね合わせていたのかもしれない。






普通の人間なら
重度の障害者の姿を見ると
「可哀想に」
「生きてるのも辛いのでは?」
「ご家族もさぞ大変だろうに。家族だって可哀想。」
そんな風に思うのはごく自然な事。
私だって正直、思ってしまう。


彼も同じように感じたのはニュースで流れてくる彼の発した言葉で分かる。



ただ、だからと言って
「居なくてもよい」存在ではない。



私の父は心臓病を患い、胸を開く大手術を3度も行い、3年近く入院した後に最後はボロボロになって亡くなった。

器官も切開して喋れなくなり、寝たきりで何一つ自分ではできない状態だった。

それでもその病気と闘う姿で私たち家族の心を奮い立たせ、温かくもしてくれていた。

ずっと傍にいて看病していた母は
その頃のことを
「寝たきりでも何もできなくても、そこに居てくれる、生きててくれるだけで嬉しかった」

そう話していた。



父が亡くなった時
「これでもう痛い思いをしなくて済むからね…」
そう言って辛い闘病生活に終止符を打てたことに安堵した気持ちもあったけれど
もし、あの状態で生きながらえていたとしても
居なくてもよい存在だなんてこれっぽっちも思わなかった。


生きててほしかった。


家族とはそういうもの。



どれだけ重度の障害があろうと
ずっと施設で生活をしていようと
母親にとって、家族にとって
「そこに居る」
というだけで拠りどころになっている。

その存在だけで心を温めている。



職員として身近に障害者とそのご家族に接しながら、当たり前のそんなことが分からなかった容疑者こそ
心に暗い闇を持つ障害者だったのかもしれない。










セルフリフティングインストラクター
 &
リングピロー専門店サムシングブルー代表


北陸・富山のふじこ こと
笹倉 美紀




リングピロー専門店
【サムシングブルー】



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