処理手順の進化史 | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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今回は、論文の処理手順(方法論)がどのように進化してきたのかを辿ります。

 

ちなみに、論文の方法論には、

思考過程をパターン化したものと、

答案構造をパターン化したものがあります。

以下、いちいち指摘はしませんがご了承ください。

 

 

【方法論前史】

 

司法試験の歴史で、論文の処理手順の必要性が受験生の間に広く自覚されるようになったのは、せいぜいこの十数年くらいの話です。

 

それまでは、いわゆる「論証パターン」が幅を利かせていました。

実際の採点基準が論点中心だったかどうかはともかく、論文試験における受験生の関心は、もっぱら「論点を書けたかどうか」に矮小化されていたと想像します。

 

 

【科目ごとの書き方】

 

その中から、やがて少しずつ論文のが出現しはじめます。

 

その典型が、憲法の「人権パターン」です(違憲審査基準は、昔はLRA一辺倒でした)。

民法では、「物よこせ or 金払え」という生の主張から組み立てる発想がでてきました。

刑法はお馴染みの「Tb→Rw→S」です。

一行問題が頻発していた旧司時代、商訴では「原則-例外パターン」が重宝されていました。

 

どれも現在の受験生は皆さんご存知のものです。

 

もっとも、どれも一定のパターンにはなっていますが、科目ごとにバラバラで、一貫した答案作成パターンとして完成度が高かったのは、憲法と刑法くらいです。

 

この頃は、論文の書き方は、科目ごと・問題ごとに違うものだと考えられていました。

 

 

【問題提起→結論型】 【事実/論点仕分け型】

 

このバラバラの傾向が、次第に集約化の方向に転じます。

全科目に共通の型があることが、受験生に認識され始めたのです。

 

①事案の問題提起

    ↓

②論点の問題提起

    ↓

③論点の結論

    ↓

④事案の結論

 

このように、最初に問題提起が行われ、間に論点が挟まれ、最後にそれが事案に戻されて結論をみる、という型が提案されました。

 

問いに対する答えのように、①と④、②と③が対応します。

 

このように、事案処理の間に論点(法律論)が挟み込まれるのが論文答案だというものです。

(現在でもこの型は受験界の一定の支持を得ています)

 

伊藤塾やWセミナーがこの方法を主に推していました(現在も伊藤塾はこの型です)。

 

絶版ですが、『3時間でわかる論文の書き方』(早稲田経営出版)という本に、この「問題提起→結論型」が詳しく解説されています(Amazonで安く買えます)。

 

この方法論の最大の功績は、それまで科目ごとだと思われていた答案の型を1つに集約したことです。

更に、法律問題において、事実と法的問題を分けて論じる必要性(両者を混ぜることの危険性)を周知させた点も大きな功績でした。現在ではあまりにも当たり前すぎて逆に意識されることが少なくなりましたが、この頃の受験界では、この事実と法の峻別が盛んに強調されたようです。

 

しかしながら、正直に告白すると、私にはこの「問題提起→結論型」は全く使えませんでした。

答案の構造は言われてみばたしかにその通りなのですが、たとえば「事案の問題提起」と言われたところで、それでは何を言っているのか全然分かりません。知りたいのは、どのようにして事案から問題提起をしたらいいのかです。いくらこのパターンを凝視しても、「事案の問題提起っ!」といくら叫ばれても、具体的にどうすれば事案から問題提起ができるようになるのか、私には全く分かりませんでした。


もっとも、伝統芸能の継承のように、見よう見まねで何度も繰り返しこの型を刷り込んでいけば、こんな不親切な説明でも答案が書けるようになる人はいるようです。

 

また、この型では、条文の存在がどこにもでてこない点も致命的です。

この型からは、事案と論点の話しか読み取れず、条文をどこでどのように出すべきなのかが全く見えません。このブログでしつこく書いてきたように、司法試験の論文試験は条文を使いこなす試験です。その点で、条文をどう使うかに全く触れないこの方法論は、(そこがいかにも伊藤塾的な方法論ですが)方法論として極めて完成度の低いものだと言わざるを得ません。

 

更に、この型は、はじめから論点の存在を前提としています

そもそも「~の問題提起」という表現自体が、何らかの問題(=論点)の発生を前提としています。この型で考えると、法の原則的な処理のあり方が見えてきません。法律問題において、論点の発生はあくまで例外です。いくら司法試験で論点が出題されることが多いからといって、論点的思考を所与の前提とした型は、原則と例外を取り違えた思考パターンだと言われても仕方がないと思います。

 

 

【生の主張スタート型】

 

次に、その後の受験界を席巻する方法論が登場します。

 

この方法論は、全ての科目を一貫して生の主張を立てることからスタートさせるパターンです。

現在では受験生の間では常識とされているパターンです。もし知らない方がいたら、是非この機会に覚えておいてください。

 

私なりの整理の仕方をしてしまうと、生の主張スタート型とは、

 

①生の主張

   ↓

②法律上の主張(条文)

   ↓

③論点(解釈)

   ↓

④あてはめ

 

こんな感じです(人によって違う部分もあるかもしれませんがご容赦ください)。

 

この方法論の優れた点は、全ての法律問題が、(実際に答案に書くかどうかはともかく)思考の手順として、必ず生の主張からスタートし、次に、生の主張に適合する法律上の主張(=条文)が選び出され、それを前提に論点が論じられる・・・というプロセスを正しく指摘したことです。

 

それまで民法など特定の科目で用いられていた生の主張が、憲法や刑法など他の科目でも出発点になっていることを示した功績は大でした。

 

この方法論によって、答案の形だけでなく、思考の手順においても、法律問題に普遍的な型があることが周知されました。

 

ちなみに、事案分析の過程で、いきなり法律上の主張(②)を想起するのではなく、生の主張(①)から考え始めることが大事だとされる一番大きな理由は、生の主張(①)から考え始めずにいきなり法律上の主張(②)から考え始めてしまうと、法律上の主張が複数考えられる場合に、他の法律上の主張を想起し損ねてしまう虞があるからです。

 

この方法論の利点は、先ほどの何を書いたらいいか分からない「問題提起→結論型」のような曖昧なパターンと違い、事案分析の際に、①~④の個々の段階でそれぞれ何をするのかが明確で、処理過程を具体的にイメージしやすく、その意味で方法論としての実践性が高い点にあります。

 

「問題提起→結論型」と違い、条文の存在もきちんとでてきます(②)。

 

論点の存在も、特定の条文の主張の上で、その解釈問題として現れてくるものと位置付けられており、法的処理の原則論が踏まえられています。すなわち、①→②が法の原則的処理であり、③→④は論点という例外事態が発生したケースに過ぎないことが含意されています。

 

現在、このパターンは受験界の多数の支持を得ています。


【紛争構造型】

「生の主張スタート型」が定着して以降、受験界の処理手順の進化はストップしました。

実際、ここ数年、受験界の論文方法論に目立った変化は生じていません。

 

しかし、「生の主張スタート型」は、まだ方法論として完璧とはいえないものです。

 

「生の主張スタート型」は、旧司時代に生み出された方法論です。

旧司時代の論文答案は、いわば裁判官目線で作られた答案です。

つまり、裁判官の(紛争当事者を上から観察するような)俯瞰的・紛争調停的な視点に立って、単線のストーリーを描くように答案を書くことが求められたのが、旧司型答案の特徴でした。

 

これに対して、新司型の論文答案では、しばしば訴訟当事者目線に立った論述が求められます。

つまり、対立当事者双方の視点に立って、まずは原告・被告の2本(複線)のストーリーを描く

そしてその後に、それら2本のストーリーを、裁判官目線の単線のストーリーに回収していく

このような複線→単線へと進化していく答案を書くことが求められるのが、新司型答案の特徴です。

 

こうした新司型答案に相応しい方法論があります。

この「紛争構造型」こそが、全ての法律問題に共通の、普遍的処理手順の最終進化形だと思います。

                   

 

①当事者確定<原告>   同<被告>

 

   ↓

 

②生の主張     ⇔   同(反論)

 

   ↓

 

③法的主張     ⇔   同(反論)

 

   ↓

 

④あてはめ     ⇔   同(反論)

 

 

↑このように、「生の主張スタート型」を、当事者確定を軸に、左右に展開させたパターンです。

 

生の主張という、それだけでは“”が言っているのか分からないものから入る前に、まずは当該紛争の当事者が誰と誰なのか、それを確定させることからスタートします。

法的紛争は(多数当事者であっても)原則二当事者間の関係に引き直されますから、このように生の主張の主体を2つに分けることは、法的な紛争構造を表す図式として普遍的かつ有用な作業です。

 

原告・被告に分けられた当事者には、それぞれに生の主張があり、法的主張があり、それに対する反論があります。これらを漏らさず思考するには、「生の主張スタート型」ではスペースが足りません。

なぜなら、本当は生の主張だって2つあるからです。

というか、2つあるから紛争という名の法律問題が生じるのです。

 

こうして、対立する両当事者の主張を漏れなく炙り出すことによってはじめて、紛争の全体像が一覧的に見えてきます

 

 

路上ライブを国が規制した、という事案をこのパターンで図解してみます。

 

 

①<原告>私人         <被告>国

 

     ↓

 

②路上ライブの自由   ⇔  迷惑なことはやめなさい

 

     ↓

 

③表現の自由(21Ⅰ)  ⇔  公共の福祉(13後段)

 

     ↓

 

④21Ⅰの文言にあたる  ⇔  解釈(最小限の制約⇒審査基準)⇒あてはめ

 

 

シンプルに書くとこんな感じになります。

 

旧司型の単線のストーリーで答案を書いていると気づきにくいですが、「紛争構造型」で考えると、毎度お馴染みの13条の公共の福祉論が、形式的には国の側から提出される主張だと分かります。

たしかに、訴訟を提起している当事者(原告)にとっては、13条がどうとかそんなことは本当はどうでもいいのです。彼(彼女)が主張したいのは、とにかくライブがしたいということ。そして、その規制が21・Ⅰに反して違憲だということだけです。

 

「紛争構造型」は、テニスに喩えると、まずはコートを二分し、その後に2人のプレーヤーが主張・反論のラリーを繰り広げて勝敗を決する、というイメージです。

 

「紛争構造型」に則して考えると、いわゆる人権パターンも、何も他の科目と比較して特別なことをしているわけではないことが分かってきます。人権パターンもまた、紛争構造(二当事者の対立関係)の左右の主張のラリーを順に追って記載しているだけです。

 

この型に自覚的になると、(もう少し具体化すれば)最近流行りの三段階審査論なんかも、この紛争構造の具体的な辿り方の一例に過ぎないことが分かってきます。

 

人権パターンも三段階審査論も、「紛争構造型」というコートで繰り広げられる二当事者間のラリーの軌跡をそれぞれの仕方で説明している方法にすぎません。全ては紛争構造型の中に包摂されます。

 

このように、全科目・全分野において紛争構造を自覚しながら学習を進めることには、答案の書き方に留まらず、法律学習全般においても、想像を超える効用があります。

 

いくつか例を挙げてみます。

 

ここから先は当たり前すぎる話も多いので、中級以上の方にはつまらない部分もあるかと思います。

紛争構造の基本を初学者にも分かるようにきちんと説明したいので、その点はどうかご勘弁ください。

 

【例①】

この方法を用いると、憲法などにみられる、当事者目線の主張を書けという出題形式にフィットします

こういった問題では、多くの受験生が、私人or国どちらの側を書く場合にも、先ほど述べたような裁判官目線の(まるで紛争を解決した後のような)単線的・紛争調停的な答案を書いてしまいがちです。
しかし、上位の合格答案は、あくまでも当事者の主張は当事者の主張として、その露骨な主張を端的に提示する傾向があります。そのほうが争点が明確になりますし、最終的な落としどころ=裁判官目線による結論も見えやすくなるはずです。

 

紛争構造型は、こうした当事者の主張を明示的にあぶり出すのに適合的なパターンです。

また、論文指導でよく「反対利益への配慮が必要だ」と言われますが、紛争構造型で考えれば、別段反対利益に「配慮」などしなくても、自然に全ての反対利益を漏らさず思考することができます

 

こういった図式で普段から思考するクセをつけると、答案を書く場合に限らず、たとえば基本書を読んだり、入門講座を受けている場合でも、対立構造によって紛争を処理する思考が自然に身につきます。

法の本質は対立構造であることが、自然と意識されるようになってきます。

 

以下の②③④はその例です。

【例②】

憲法の人権では、原告はいつも私人で、被告は原則的に国だと分かってきます。

じゃあ統治って何の話なんだというと、統治は国(国家機関)vs国(国家機関)の紛争の話だと分かってきます。多くの受験生には、人権と統治は全然別の話であり、処理パターンも異なると思われているわけですが、「紛争構造型」を使うと、どちらも同じ方法で処理できることが分かります。

 

昔、旧司で政党の問題が出題されたとき、長い司法試験の歴史の中でも珍しいことが起こりました。

合格者の半分がその問題を人権の問題として人権パターンで処理し、半分は統治の問題として処理したのです(スタンダード100でもこの問題だけ答案が2通付いています)。当時の合格者はなぜこのようなことになるのかよく分からないまま、なんとなくそれぞれの「合格答案」を書いたようです。

 

なぜ2通りの解答が出てしまったのでしょうか。実は、紛争構造型で考えるとすぐに分かります。

ポイントは、①の当事者確定です。皆さん入門講座で習ったように、政党には、私的団体という側面と、実質的に国家機関の一部に位置付けられる公的な側面があります。つまり、この問題の処理において、政党を私的団体に引き寄せて考えた場合は、当該紛争は人権の問題(私vs国)に見えます。対して、政党を国家機関に引き寄せて考えた場合は、当該紛争は統治の問題(国vs国)に見えるわけです。

このように、「紛争構造型」で思考するクセをつけると、単なる入門的な知識でさえ誤魔化しのないクリアな説明が可能になってくるのです。

 

【例③】

刑法では、原告は常に検察官だと分かってきます。

さらに、(私は原告の③法的主張をメイン条文と呼んでいるのですが)刑法のメイン条文は全て各論の条文であることも分かってきます。

総論には、メイン条文の構成要件該当性を否定したり、違法性や責任を阻却したりといった被告人側からの対抗的役割しか与えられていません。総論がメイン条文という主役に絡むことができるのは、せいぜいメイン条文の修正(未遂・共犯)が必要なときくらいです。

 

このように、刑法において、総論は常に脇役にしかなれないことが分かります。

 

念のため補足しておきます。

総論(Tb→Rw→S という処理体系)は、全ての各論の条文に内在されている、いわば隠れた条文ということができます。総論体系は、各論の各規定の背後にある隠れた要件なのです。

その意味では総論も主役の一部を形成することがあるとはいえます。しかし、効果の点に着目すれば、やはり主役は各論であり、総論は補助的な役割を果たすにすぎないと言わざるをえません。

 

【例④】
民法94条2項の類推適用というお馴染みの論点があります。

「AB間には通謀も虚偽の意思表示もない以上、94条2項を直接適用することはできない。しかし、94条2項の趣旨は権利外観法理である。そこで、・・・」みたいな初学者でも知っている例の論証です。

 

こういった伊藤塾的な論証的発想(一体“”の台詞か分からないまま抽象的に論じる発想)で理解することに慣れてしまっている人には気づきにくいことですが、この「直接適用できない」というのは、そもそも一体“誰”のセリフなのでしょうか

 

裁判官目線の単線的ストーリーの形で答案や論証を作成することに慣れている人には、これはある種の抽象的原則論を論証の枕詞に掲げたものと思われるかもしれません。しかし、お気づきのように、これはあくまで被告側のセリフです。「94条2項を直接適用したい」と原告側が主張した場合に限って意味が生じる、被告側からの反論です(もちろん、実際の訴訟でこういったやり取りが行われることはほぼあり得ませんが、形式的手順として原告・被告に主張を割り振るとこうなる、ということです)。

 

ところが、初学者の中には、まるで全ての台詞が原告側から発せられたもののように考える受験生も多いはずです。裁判官的な予定調和的・紛争調停的発想、学者的な非当事者的発想、論証的な一本調子の物語的発想・・・こういった現実の紛争を忘れた発想の弊害がここには表れています。

 

「紛争構造型」を使えば、二当事者間の対立構造という法の本質を置き去りにしたまま漠然とした理解をすることがなくなると思います。

 

予備校やロースクールで、「まずは原則論の指摘から入るのが大事だ」とか「論証フレームとして~という順番で組み立てると全体の流れが良くなるよ」みたいな指導を受けることが多々あるかと思います。

こういう悪い意味での法学的な理解の仕方は全くもっておすすめできかねます。

 

このような抽象的指導を真に受けると、法の本質を見誤りかねないからです。

 

法の本質は対立構造(利益対立・紛争)です。

多くの条文が「Aは、Bの場合は、Cになる」という風に、Bという要素によって利益調整ができるよう作られています。たとえば民法478条は「(A)債権の準占有者に対してした弁済は、(B)弁済者が善意無過失のときに限り、(C)その効力を有する」と書かれています。このように条文は、必然的な制度論として「AはCになる」と言い切るのではなく、その間に「B」を挟み込むことで、原告・被告間の利益の割り振りをすることが多いのです。利益を割り振るということは、すなわち、条文の中にあえて紛争(利益調整)の余地を残すということです。このように、単なる制度的な取り決めではなく、何かしらの紛争を予定して作られているのが条文の特徴です。

 

いえ、条文が紛争を予定して作られたというより、むしろ、個々の紛争が先にあって、それらの経験から、先人たちがそれらの紛争(利益調整)を抽象化・類型化する形で条文を作り上げていったというほうが正確でしょう。

 

このように条文とは、徹頭徹尾、原告・被告間の紛争(利益調整)の形が表現された、二当事者間の紛争処理のための道具です。

条文だけではなく、具体的な法律問題の本質もやはり紛争(利益対立)です。たとえば、履行遅滞があろうとプライバシー侵害があろうと、そのような条文に該当する事実がいくらあったところで、当事者が対立していなければ、つまり相手がそれを問題にしなければ、基本的に法律問題は発生しません。

A君がBさんから借りたお金を返さなかろうが、A君がBさんのプライバシーを暴こうが、Bさんがそれを問題にしなければ法律問題(訴訟)にはならないのです。

 

つまり、法律問題は、それが法律問題である限り、必ず、二当事者間の紛争(対立関係)なのです。

 

ですから、上に挙げたような「原則論が云々~」とか「フレームがどう~」とかいう、間の抜けた抽象論を無邪気に有難がってはいけません。そうではなくて、その論証ならその論証の紛争構造が何なのかを常に突き止めようとする姿勢こそが大事です。そうでなければ、真の意味で法を理解したことにはならないからです。

 

シケタイや基本書や○○先生のお話を理解することは、法を理解することとは多くの場合違います。

法を理解・修得することは、条文を理解する場合でも、法律問題を処理する場合でも、紛争構造を理解・処理することに他なりません。この点を忘れないようにしてください。


以上です。

 

「紛争構造型」の重要性はお分かりいただけたでしょうか。

 

このように、日頃からありとあらゆる法律問題を「紛争構造型」で処理するクセをつけておくと、法律の内容の理解&論文問題の処理、いずれもが、極めて明確で自覚的なものになっていきます

 

慣れないうちは少し大変ですが、この「紛争構造型」を常に意識しながら1~2年も勉強を続ければ、その効果は他の受験生を圧倒する形で、いずれはっきりと表れてくることになるだろうと思います。

★紛争構造型を修得するには、 こちらの講座 がおすすめです。

現時点で、この「紛争構造型」が、論文の処理手順として最善の方法論です。

私自身は、これ以上の進化はもはや望めないくらい完成度の高い方法論だと思っています。

 

なぜなら、これまで述べてきたように、この方法論には法の本質が体現されているからです。

 

論文の処理だけでなく、単なるインプットにおいても、「紛争構造型」を使って勉強することが、やはり最善の方法だと思います。この方法論に則して法を学べば、法を理解するということが、本当は何を理解することなのかが明確に定まるからです。「紛争構造型」で勉強していけば、テキストの記述や論証の流れや答案のフレーズといった、曖昧な理解という名の幽霊に絡め捕られることがなくなると思います。
 


答案の書き方について  へつづく

 

 

 

 

 

 

 

【補足】

 

これから書くことは、私からの最重要メッセージです。

ここに書かれたことを真に理解された方は、他の記事は読まなくて結構です。

 

例④の話に戻って、少し話を膨らませてみます。

 

この「直接適用できない」という言葉を答案に書かなければならないのは、「まずは原則論の指摘から入るのが大事だよ」などという、そんな不真面目な理由では断じてありません

 

「直接適用できない」という言葉を書かなければならないのは、強制執行権を有する国家という暴力装置を敵にまわすか、それとも味方につけることができるかという、まさにのっぴきならないギリギリの状況に置かれた紛争当事者の絶対に負けられない叫び声だからです。

 

簡単にいえば、そこでその言葉を叫ばなければ勝負に負けるからです。

「原則論がどう~」とか「論証フレームがどう~」とか、そんなマヌケな理由ではありません。

問題を解くこと(=紛争を解決すること)を第一に考える姿勢さえあれば、こんなことは誰でも容易に理解できる事柄なのですが、受験界では「基本書を読んで本物の基礎力をつけましょう」なんていう不真面目極まりない物言いが幅をきかせているために、このシンプルな事柄がなかなか理解されません。

 

理解されないばかりか、まさにその一番大切な紛争解決の訓練をしている受験生の勉強を「付け焼刃」呼ばわりする人までいるようです。しかし、本来すべき紛争解決の訓練をなおざりにして、知識や理解や基礎力といった曖昧な道具によって、紛争(=司法試験の問題)をその場しのぎで乗り切ろうと考えている基本書派・インプット派の人々の勉強法のほうこそ、本来「付け焼刃」と呼ばれるべきものです。

私が彼らを不真面目だと思うのは、そして彼らの勉強こそ「付け焼刃」だと思うのは、何よりも彼らが、本当にしなければならない仕事から逃げているからです。

司法試験受験生の仕事は、司法試験の問題を解くことです。解けるように頑張ることです。

法律家の仕事は、紛争を解決することです。解決できるようにどこまでも頑張ることです。

どちらも紛争解決です。紛争解決こそが、法曹および法曹予備軍に共通の仕事なのです。

それなのに、「紛争解決よりも本を読め」だなんて、一体どれだけ逃げれば気が済むのですか

カウンセリングの訓練から逃げて、心理学のテキストばかり読んできた人見知りのカウンセラーに、自分の悩みを相談したくなる人がいるでしょうか。紛争解決の訓練をなおざりにして、法律のテキストばかり読んできました(キリッ)とか言ってる弁護士に、紛争解決を委ねたい人がいるでしょうか。

問題が解けるようになりたいなら、問題を解くことから逃げてはいけません

紛争を解決したいなら、紛争を解決することから逃げてはいけません

人の悩みを解決したいなら、人の悩みに向き合うことから逃げてはいけません

真面目に考えれば、誰もがそういう結論にならざるをえないはずです。

そうせずに、「まずは基本書だ」なんて台詞を安易に吐く人は、思考回路そのものが不真面目です。

 

ちゃんと考えてみてください。紛争を解決したことのない人に、紛争に真剣に取り組んだことのない人に、どうして「基本書読みが紛争解決能力の養成に最適の手段である」と分かるのでしょうか

 

その人は、いったい(←ほんとに何!)を手掛かりに、そのような解を導いたのでしょうか。

言うまでもなく、導けるはずがありません。あなたが超能力者でもない限り、現実の紛争に立ち向かうプロセスを省略したまま、それでいてどうしたら紛争解決に必要な能力が身につくのか、その手段だけは都合よく分かってしまうなんて、そんな調子のいい話は原理的にあるはずがないのです。

 

「紛争地帯に赴くことなく紛争請負人になれますよ」なんて都合のいい話は、原理的にないのです。

紛争地帯という現場(問題)で仕事をせずに、現場から遠く離れた会議室(基本書)で読書に耽りながら紛争請負人の資格を得ようとする受験生たちこそ、真の「付け焼刃」受験生と呼ばれるべきです。

 

また、「司法試験に受かりたいなら基本書を読め」と、まだ紛争に立ち向かったこともない受験生に助言するローの教授や合格者たちも、他人に助言をするという観点に限っていえば、(仮にその人がそれで合格したのだとしても)アドバイザーとしての資格を100%持ち合わせていないと言わざるを得ません。

こんな「詐欺師」の語る、無責任な伝聞情報に惑わされる
のはやめにしましょう。

 

紛争という名のドブ板を自力で這いずり回る労力をスキップして、他人からキレイな答えだけを教えてもらおうなんて、それはいくらなんでも虫がよすぎます

こんな詐欺話に心を動かされたなら、あなたもまた相当に不真面目です。それを自覚してください。

ドブ板を這いずり回る労力を惜しむ不真面目な人間が、司法試験などやってはいけません。

あるいは、極端な例をだしたほうが分かりやすいかもしれません。

 

たとえば、私があなたに「1週間後に仕事をしてもらうから準備しといてね」と依頼したとしましょう。

さて、そう依頼されたあなたは、これから1週間、いったいをすべきなのでしょうか。

誤魔化さずに、きちんと真面目に考えてみてください。

まさか、基本書を読むんでしょうか (笑

揺るぎない基礎力をつけるために (笑

・・・ここは笑うところではありませんでした。

 

あなたにとっての司法試験は、この「仕事」と同じくらい、本当は訳の分からないものなのです

 

あなたがそれを訳が分かっていると愚かにも勘違いしてしまっているとしたら、それは怪しげな新興宗教の信者のように、「○○教祖様」(←あなたの好きな教授・講師・先輩合格者の名前を入れてください)の言うことは間違いなく真実に決まっていると、思考停止状態で信じているからに過ぎません。

このケースでは、「仕事」っていうだけじゃ何をしたらいいか分からない、が唯一の正解です。

ここで何かをし始めてしまう人は、典型的なダメ受験生です。

さらにダメ押しで、もう一つだけたとえ話を挙げておきます。

 

もし、あなたが子どもから「クリケットが上手になる方法をおしえて」と聞かれたらどう答えるでしょうか。

言うまでもなく、ここで「たしかクリケットって野球みたいなのじゃなかったっけ」とか適当に考えて、バッティングセンターに子どもを連れて行くとしたら、あなたはバカ親認定です。あるいは、「まずは揺るぎない基礎体力を付けるために・・」とか言って、子どもにジム通いをさせるなら、あなたはアホ親確定です。

 

当然ですが、クリケットがどんなスポーツなのかを徹底的に調べてみなければ、そして、クリケットそのものをあなた自身が経験してみなければ、さらに、子ども自身にも経験させてみなければ、正しい助言などできるはずがありません。このアホ親たちは、そんな簡単なことにさえ気づいていないのです。

・・・もうこの辺で十分でしょうか。

 

このように、「何」をするのかが分からない状態で、「何か」をし始める人間は愚かです

同様に、司法試験を十分に知ることなく、いきなり基本書を読み始める受験生も愚かです。

仮に、クリケットと野球がもの凄く似ていて、「私は野球の練習をすることでクリケットが上手くなった」と称する(←多くの場合ただの勘違い)人間が現れたとしても、それが他ならぬあなたにとってまでそうであるとは限りません。

 

野球とクリケットが似ていたというある人にとっての実感が、野球をすることでクリケットが上手くなったというある人にとっての結果論が、他ならぬあなたにまで妥当するかは、保証の限りではないのです。

 

そんなことは誰にも分かりません。

 

なぜなら、そのある人は、あなたではないからです。

それが分かるのはあなただけです。

 

この宇宙に唯一無二の存在である「あなた」が、「クリケットをする」ことでしか、その答えを見つけることはできません。その過程を別の誰かに預けてしまうことはできないのです。

ここで、「クリケットをせずに野球をせよ」と助言する浅はかな人間が、典型的なダメ合格者です。

(他人任せでやってきた人間は、他人に対してもまた、他人任せな助言しかすることができません)


そして、このようなダメ合格者の妄言を真に受けるダメ人間こそが、典型的なダメ受験生なのです。

(ダメ受験生の一部は、他人任せなダメ合格者になり、次なるダメ受験生を再生産していきます)

ちなみに、究極のダメ受験生とは、(私がここまで親切に言ってあげているのに)それでもなお、この記事をプリントアウトして、あるいはスマホを示して、あるいはどこぞの掲示板に書き込んだりして、「ここに書いてあることってどう思いますか?」とか、結局やっぱり誰か(他人)に聞いてしまう人です。安心してくださいあなたのような人は永遠に受かりません
 
ダメ受験生とは、このように何も考えず、すべてを他人任せにする人です。

このようなタイプの人は、すぐに詐欺に引っかかりますし、新興宗教の格好の餌食にもなります。

ひょっとしてあなたは、今までこういうタイプの人たちを、どこかで馬鹿にしていたのではないですか。

 

しかし、紛争地帯で独り戦う労力を惜しんで、他人の語る伝聞情報に一喜一憂し、他人から提供されたバイブル(基本書)に縋り付いているとすれば、あなたも新興宗教のバカ信者と何ら変わりありません。

もし、あなたが、詐欺師を信じるのではなく、ただ成功を望むなら、その方法はいたって簡単です。


つべこべ言わずに、あなた自身が紛争地帯に突入すればいい のです。

現場で1~2年も揉まれれば、あなたの答えは完全に見つかります。それで死ぬこともありません。

何よりそうすればあなたは100%合格できます。こんな都合が良くて気楽な戦いはそうはありません。

 

それでもそうしないのは、きっと、自分自身の目で現場を見ること、自分自身の頭を使って考えることが、面倒くさくて仕方がないのでしょう。

私が彼らを(そしてあなたを)不真面目だというのはそういう理由です。