司法試験情報局(LAW-WAVE)

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司法試験・予備試験・ロースクール入試の情報サイトです。司法試験関係の情報がメインですが、広く勉強方法(方法論)一般についても書いています。※ブログは完全に終了しました。コメントなどは受け付けておりません。ご了承ください。

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★このブログは、2011年7月から2012年12月まで本体部分が書かれ、その後、約11年にわたり断続的に加筆・修正を行ってきましたが、2023年12月をもって完全に終了しました。

 

(2024年1月1日)

 

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ブログのおすすめエントリーを、50個選んで貼り付けておきます。

 

・勉強法関係

・司法試験・ロースクール関係

・予備校関係

・その他

 

以上の4つのカテゴリーに分類しました。

タイトルの文字を大きくしているエントリーは、おすすめのものです。

ドキドキ をつけたエントリーは、特におすすめのものです。

 

記事の多くは、黒字の本文と、青字の補足部分に分かれています。

他にも、ピンク字の補足部分【補足】や【追記】として内容を付加した部分等があります。

こういった本文以外の補足部分は、最初は無視していただいて構いません



 

勉強法関係

 

目的意識の拡散

試験勉強における目的意識の重要性と、手を広げることの危険性について書きました。

 

「集約型」の勉強法と「拡散型」の勉強法

「集約型」と「拡散型」という概念を用いて、上の記事を図式的に整理し直しました。

【追記】で司法試験=宗教説を唱えるとともに、脱洗脳のための一つの方法を提案しています。

 

理想の勉強の順序と「基本」の重要性

勉強には学ぶ順序があること。そして、あたりまえの「基本」の重要性を指摘しました。

【補足】で、「基本」が当たり前すぎて差がつかないという勘違いに釘を刺しておきました。

 

肢別本

「肢別本なんか潰しても全然足りないよ」なんて嘯く人は、まず肢別本を潰していません。

 

ドキドキ「基本書か予備校本か」という愚問

司法試験の問題が解けるようになりたいなら、司法試験の問題を解かなければなりません。

基本書を読んでも、基本書が読めるようになるだけです。当ブログの勉強法の核心です。

【補足】に、センスの良い受験生とセンスの悪い受験生の発想の違いを書いておきました。

 

ドキドキ基本書を読んでも論文が書けるようにはならない

基本書を読んでも、論文が書けるようにはなりません。

その論理を、子ども(あるいはロースクールの教授)にも分かるように明快に説明しました。

【補足】で「問いに答える」という試験の本質と、論証や答案の長さとの関係を説明しました。

 

ドキドキ「新司法試験はあてはめ勝負」は本当か

論文試験の合-否を分けているのは、あてはめ部分ではなく、法律論の出来不出来です。

また、司法試験のような相対評価の試験において、合格ラインを意識することは必須です。

 

論文で判例学習はどこまで必要か

判例など知らなくても、合格答案は書けます。

事前に知っていることで墓穴を掘る(つまり知らないほうがいい)場合だってあります。

【補足】に、攻めの勉強法のリスクについて書いておきました。NEW

 

短答で判例学習はどこまで必要か

短答においても、判例集の重要性は低いです。短答でも、合格ラインの意識は必須です。

なお、事前に知識を習得することが正当といえるための3要件を挙げています。

民法の基本書を分野別に揃えること ~あるいは「必要性」と「許容性」について~

その勉強が正当といえるかどうかについて、必要性・許容性の観点から判断基準を示しました。

また、司法試験の「司法」にあたる「法」および「法解釈」のイメージを図で表現しました。

 

えんしゅう本

「えんしゅう本じゃ足りない」と言うのは、実際にえんしゅう本を潰してからにしてください。

 

ドキドキ「言い換え」の連鎖

法律学あるいは法律問題の処理は、徹頭徹尾、条文の言い換えです。

事実、言い分、条文、規範、・・・全てがお互いを言い換えっこしているだけです。

【補足】に、「三段論法という勘違い」を付け加えました。

 

ドキドキ論点を起点とする勉強方法の功罪 

2018年の新エントリーです。論点・規範中心学習のメリット&デメリットを述べています。

条文を自然な日本語として素直に解釈すること(言語感覚を磨くこと)の重要性を書きました。

また、2つ上のエントリーで書いたイメージ図を、より具体化・類型化して載せています。

 

実質的需要と形式的需要

司法試験の合否は「基本」で決まります。背伸びをした「応用」は真の需要ではありません。

 

ドキドキ学校の勉強と試験勉強

根源的に試験に強いタイプの受験生は、試験に強いだけでなく、学校の成績も良いものです。

 

ドキドキ試験勉強における「理解」とは

「理解」とは、その人が何をしたいかという「目的」との関係で定義されるものです。

問題を解く前に知識の理解に走る愚を指摘しています。

 

短文問題・中文問題・長文問題

司法試験の問題を、問題文の長さ別に分けて、それぞれの意義を考えてみました。

 

新司型問題と旧司型問題の相違点

上の記事の続き。新司型問題の本質は旧司型(中文)問題に他ならないことを論証しています。

 

呉明植

受験界の論文指導のレベルは極めて低いです。ほとんどが感覚に頼った指導をしています。

 

新司法試験・論文過去問集

地図を持たずに歩き出せば間違いなく遭難します。目的地に到達したいなら地図は必須です。

 

ドキドキ法学のテキストは「加工食品」にすぎない

法学テキストは、条文という本物を分かりにくく加工した偽物(=加工食品)にすぎません。

基本書も予備校本も予備校講義も、所詮は偽物の解説であることを自覚してください。

 

ドキドキ桜蔭の女の子

名付けて「スピードぐるぐる勉強法」。手を広げずに早く回す。一種の効率的な記憶法です。

司法試験受験生以外の方からのアクセスがものすごく多い記事でした。


ドキドキ再現答案 vs. 出題趣旨

抽象的なひとつの真実は、具体的な個々の事実よりもはるかに重要です。

再現答案には前者が示されています。出題趣旨には後者しか書かれていません。

【雑感】に、特定の合格者にアドバイザーの資格があるかどうかの基準を示しています。

失敗の意義

何かに成功するには正しく失敗することが必要です。手を広げると正しく失敗できません。

 

記憶法について

名付けて「絞り込み→暗記法」。シンプルな記憶法なので、誰でも簡単に実践できます。

ドキドキ【追記】で、答案を読んで覚える勉強法がなぜダメなのかを論じています。

 

ドキドキ処理手順の進化史

論文の方法論(処理手順)の歴史を簡単にまとめてみました。

【補足】に書いたことは、私からの最重要メッセージです。是非これだけは読んでください。

 

ドキドキ答案の書き方について

具体的な答案の書き方について、2つのパターンを提案しています。

「あてはめ一貫型」と「紛争構造そのまま型」です。

中村充

10年後には、論文指導にはこの程度の精緻な方法論が求められるようになっているはずです。

 

「潰す」とは?

「潰す」という概念に終わりはありません。「潰せた」と思ったところがあなたの限界です。

ドキドキ与えられた条件を極限まで切り詰めてみること

本当に必要な勉強が何か(不要な勉強が何か)を知るための思考実験です。

【補足】に、得点効率を最大化する勉強法の一例を、肢別本潰しを例にとって解説しました。

ドキドキ右足をヒョイと上げる競技

頭の中が些末な情報で混乱してきたら、いったん、この単純なレベルまで戻ってください。

ブログで再三強調した当たり前の論理がいかに重要であるかを【補足】で再確認しています。

 

ドキドキ十年後の受験生へ

試験という目的のある勉強は、目的意識が全てです。

最後にダメ押しで、目的意識を喚起しておきます。


【リンク】
司法試験のあるきかた
2017年の本試験に上位合格された“えるにえ”さんの方法論ブログです。

このブログの方法論に共感していただいた方には、とても参考になる内容だと思います。




司法試験・ロースクール関係

 

ロースクール進学のリスク

ロースクールに進学することは、社会人だけでなく、新卒者にとっても危険な行為です。

「司法試験に入ってきてはいけない人」について【小さな追記】、その<境界線>について【小さな追記の追記】をしました。

 

ロースクール制度の正当性についての異見

ロースクール制度に正当性を見出せるとしたら何が言えるか。私なりの意見(異見)です。

ロー組と予備試験組を競合させることは、ローの正当性を揺るがすことになるでしょう。

 

既修のススメ①  既修のススメ②  未修、ダメ、ゼッタイ

ロースクールに行くなら、絶対に既修を目指さなければいけません。

未修に行って、わざわざ自分から不利益を背負い込む必要はありません。

 

現代文&小論文が苦手な人へ

ロー入試小論文対策として書いた記事ですが、現代文・小論文対策全般の話でもあります。

当ブログが勧める「繰り返し→潰す」方法は、現代文&小論文対策にも有効な勉強法です。

 

司法試験に受からないということ

司法試験が近い方は、今はこの記事は読まないでください。

初めて読む方は、試験が終わってから(落ちてからor受かってから)ゆっくり読んでください。

 

司法試験に受からない可能性が高い人

受からない可能性が高いタイプを列挙しました。該当項目がいくつもある人は要注意です。



 

予備校関係

 

ドキドキ司法試験予備校講師ランキング

講師・予備校の寸評も記載しています。講座受講の参考にどうぞ。

入門講座(講師)はどこ(誰)にすべきか?

上のエントリーの前身となった記事です。ちょっと伊藤塾講師を褒めすぎました。

反省して、司法試験の真の怖さについて、追記をしました。


基礎マスターと商訴集中講義 ~入門講座再考~

予備校の入門講座は回数が多すぎます。本当はもっと少ない回数で同じことができます。

 

入門テキスト肥大化の歴史

分厚いテキストには実践性がありません。コンパクト型テキストの再興を望みます。


 

 

その他

 

ブログの趣旨説明

ブログの内容・目的について説明しています。

 

「経験」と「発言権」は有因か無因か

正直にいうと、内容より属性ばかりに目が行く日本人気質が私は大嫌いです。

高橋宏志『重点講義民事訴訟法』

たくさんの本を書評しましたが、結局一番よく書けたのはこれかなと思います。

 

適性試験失敗談(あるいは地頭否定論)

やったことはやった分だけできるようになります。やってないことはできるようになりません。

これは全ての人間に共通の真実です。地頭なんてものは存在しません。

宇都出雅巳『合格る技術』

知識型試験の勉強法として最もおすすめの本です。

宇都出先生にはいろいろとお世話になりました。

お前はいったい何者なんだという疑問にお答えして…

自分の恥ずかしい過去も書いておかないとフェアじゃないと思ったので・・・。

あと、「勉強法オタクは受かりにくい」という俗説に反論しておきました。

木田元『闇屋になりそこねた哲学者』

人間は変わらない生き物です。

人が変わろうとすることには意味がないし、変えようとすることにも意味がないです。

ただ、意味がないと言っておくことには、なぜか意味があるような気がします。


勉強法本 ~名語録~

最後にこっそり(私の心の奥底にある)本音を書いておきます。

一番下の中谷彰宏の本は、ブログの趣旨からは完全に逸脱しています。

ここに書かれている目的のない勉強とは、勉強することそれ自体が目的だということです。

人は、生きるために勉強するのではありません。勉強するために生きているのです。

 

 

 

 

 

<番外編>

 

雑感①

雑感②

雑感③

 

2022年から2023年にかけて、最後に自由に色んなことを書いたものです。

内容は雑多ですが、主なところでは、私の(試験にかんする)個人的な思い出話。

それから学校教育制度や試験制度の時代的性格について、私なりの見解を述べています。

最後は試験の終焉?まで論を進めたので、このブログの役割は本当にここで終わりです。

 

 

 

 

 

 

ブログを始めてから1年半、途中中断した時期を除けば、実働期間は1年くらいでしたが、実質的な更新は今日で最後です。

なお、このブログ自体は、今後も(Amebaが置いてくれる間は)消さずに残しておきます。

これから先も、新しい教材が次々と出版されていくと思います。

長い目で見れば、試験傾向はもちろん、制度自体も変わっていくことになるでしょう。

ブログで書いた内容の多くは、十年も経てばそれなりに古くなっているだろうと思います。

 

そこで、十年後にこのブログを読む受験生に対して、いくつかメッセージを残しておきたいと思います。

 

 

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まず、このブログの核心部分は、十年後の受験界でも十分に通用するはずです。

 

勉強法一般について語った部分や、法について抽象的に語った部分については、十年後も完全に変わらない形で通用すると思います。

 

特に、勉強法の核心は、100年経っても完全に正しいと確信しています。

 

その他の教材情報・講師情報についても、表面的な情報は古くなると思いますが、教材や講師を評価する中で、結局は勉強法を語っていることが多いので、こういった部分も活用してもらえたら嬉しいです。


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重要なことは、けっして多くありません。

 

試験に合格しなければならない以上、そして、試験勉強をしなければならない以上、何よりもその時々の傾向に合った(←これ大事)試験問題を解くことを重視しなければなりません。

 

常に、目的に定位して考える

これさえできていれば間違えることはありません。

 

個々の教材・講座・答練etc…、時には勉強法さえも、すべてそのための手段にすぎません。

手段にすぎないものに、あまり拘りすぎないことが肝要です。

今も、そして十年後も、教材なんて、何を使ったっていいのです。

あるいは、手段なんて、何でもいいのです。

 

・予備校本メインでも大丈夫か、基本書メインでいくべきか

・予備校本はどれを使うべきか、あるいは使わなくてもいいのか

・基本書はどれを使うべきか、あるいは使わなくてもいいのか

・演習書はどれを使うべきか、あるいは使わなくてもいいのか

・判例集はどれを使うべきか、あるいは使わなくてもいいのか

・短答六法はどれを使うべきか、あるいは使わなくてもいいのか

・サブノートは使うべきか、あるいは使わなくてもいいのか

・自分でノートを作るべきか、あるいは作るべきでないのか

・どの予備校に行くべきか、あるいは行く必要はないのか

・どの入門講座をとるべきか、あるいはとる必要はないのか

・答練はどこを受ければいいか、あるいは受ける必要はないのか

・オプション講座は受けるべきか、あるいは受ける必要はないのか

・過去問集はどれがいいか

・問題集はどれがいいか

・予備校問題中心でも大丈夫なんだろうか

・旧司の問題までやったほうがいいのだろうか

・ブログなんかやってる場合だろうか

・飲み会なんか行ってる場合だろうか

・1日10時間勉強するべきか、数時間でも足りるのか   etc…

↑こういう、一言でいえば 「 ど ~ で も い い こ と 」 に、過度に拘ってはいけません。

こんなもの、全部好きなようにしてください。その程度の問題だということを自覚してください。

どっちを選んでもいいし、どれを選んでもいいです。いかなる意味でも悩むような話ではないです。

 

もし悩んだら、「ど・れ・に・し・よ・う・か・な」で適当に決めてください。

ひとつだけ確実に言えることがあるとすれば、

絶対に、過去問はやってください。 そして、あとは好きにしてください
 

私から言えることは↑これだけです。

 

本当の意味でしっかりと過去問に取り組んでいれば、あなたがやるべきことは自ずから見えてきます。

いえ、それが見えてくるくらいに、本試験(過去問)それ自体に向き合わなければなりません

 

過去問以外に、すべての受験生に共通して必要なものなど何一つありません。

山に登るときに絶対にしなければならないのは、山の頂を見ることだけです。

その上で、どのルートで登るか、どういう装備で登るかは、どこまでもあなたの自由です。

多少回り道をしようが、貧しい装備で挑もうが、頂さえきちんと見ていれば、必ず頂に到達します。

 

その一方で、頂を見ることを忘れて、自分が歩いているルートの優越性を無用に誇示し始めたり、自分の使っている装備が全ての人間に必須のものだなどと要らぬ強弁をし始めたりした場合は、その受験生は危ないと思ったほうがいいです。

 

なぜなら、そのとき、その受験生の目は、もはや頂を見ていないからです。

自分の歩いている道や、道の歩き方や、履いている靴や、無我夢中で歩いているときの充実感や、偶然行きがかりで拾ったにすぎない諸々の装備品などに過度な愛着を持ってしまうと、このようにいとも簡単に目的から目が逸れていってしまいます。

 

このとき、彼 or 彼女の視線(関心)は、自分の足元や、歩くことの気持ちよさに向けられています。

つまりは、自分しか見ていません。目的を見ずに、自分を見てしまっているのです。

これは単なる自己愛であり、執着です。

目的志向を歪ませる一番の犯人は、このような自己愛や執着です。

皆さんは、こういう些末なものに執着することのないよう、くれぐれも用心してください。

手段の選定に悩んだり、手段に拘りをもつとき、あなたは目的を見ていません。

 

あなたのやるべきことは、目的を見ることです。

そして、目的を見ながら歩くことです。

 

自分を見たり、自分の持ち物を見せびらかしたり、歩いている自分に酔っぱらうことではありません。

 

どうかその点を忘れないようにしてください。


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最後にひとつ、今まで書いたことがなかった視点を示して終わりにします。

 

このブログでは、繰り返し繰り返し、条文の重要性を強調してきました。

まるで、条文を重視することが、司法試験における目的そのものであるかのように語ってきました。

 

しかし、条文を重視することは、司法試験学習の「目的そのもの」ではありません

 

もし、法律を学ぶこと自体が目的であれば、条文(=法律)は目的そのものと言えるかもしれません。

しかし、司法試験において、条文は、あくまでも試験問題を解くための道具(手段)にすぎません。

 

条文重視は、試験合格という目的に定位した場合の結果的産物にすぎません。

さらに言えば、条文重視は、試験合格に必要な程度で必要になることにすぎません。

 

この点を履き違えて、まるで条文を知るために条文を学んでいるような受験生は多いです。

問題を解くこととは関係ない次元で、条文解説のための条文解説をしている講師もいます。

 

しかし、受験生の本来の目的は、試験問題(≒過去問)を解くことであり、解けるようになることです。

条文は、試験問題を解くという目的に必要な程度で必要になるだけの、単なる手段にすぎません。

必要以上に条文に詳しくなったところで、そんなことには何の意味もないのです。


このように、条文を過剰に重視すること(条文に執着しすぎること)もまた、目的を見失う第一歩です。

以前(※「言い換え」の連鎖 参照)、司法試験で真に重要なのは条文と過去問の2つだけ、と書いたことがありますが、実は、両者は同価値ではありません。

 

本当の意味で目的といえるのは、過去問だけなのです。

 

さらにダメ押しをしておきます。

 

司法試験が合格ラインをめぐる相対評価の試験である以上、過去問を過剰に重視することもまた、目的を見失った行為であるといわざるを得ません。

受験生の真の目的は、過去問にパーフェクトに答えることではなく、合格することです。

 

過去問は、真の目的である合格に必要な程度で必要になるだけの、単なる手段にすぎません。

そのことを忘れて、過去問に十全に答えることそれ自体を目的化するのは、過去問を神(=目的)の座に祭り上げる(固定する)一種の思考停止に他なりません。

このような思考停止の罠は、過去問学習においてさえ存在するということを忘れないでください。

条文を目的に据えるなら、基本書は条文を理解するための手段に降格します。

過去問を目的に据えるなら、条文は過去問を解くための手段に降格します。

合格を目的に据えるなら、過去問は合格するための手段に降格します。

 

このように、目的-手段の関係は常に流動的です。

 

視点を変えれば、過去問も一瞬で、手段にすぎないものに降格します。

つまりは、過去問の座も常に安泰ではないということです。

 

そのような思考を安住させることができるような場所は、実はどこにもありません

思考の動きが止まったところが、あなたの限界です。

 

どうかそのことを忘れないでください。
 

最後に究極のダメ押しをしておきます。

 

真の目的である「合格」もまた、視点を変えれば手段に降格するのは言うまでもありません。

合格のさらに上に、究極の目的があれば、あなたにとっての合格は手段にすぎないものになります。

この「目的(=合格)の手段化」ができれば、あなたは最強の受験生になることができるでしょう。

 

なぜなら、人は、手段にすぎないものには執着しないからです。

執着がなければ、誰でも、状況を冷静かつ客観的に、正しく見ることができます。

また、執着がなければ、誰でも、目的に則した最善の方法をとることができます。

そうなれば、大抵のことは呆気ないほど簡単にクリアしてしまえるものです。

 

最強の受験生とは、目的とする試験を、単なる通過点(手段)としか見ない人のことです。

言いかえると、「過去問」「合格」といった具体的なレベルで思考を止めない人のことなのです。

 

~あなたにとって、「究極の目的」とは何ですか?~

 

 

 

 

以上です。

 

このように、あくまでも厳格に、目的そのものを意識してください

手段にすぎないものにアイデンティティを預けてしまわないように。

手段にすぎないものを目的化してしまうことのないように。

そうやって、目的から目を逸らしてしまうことのないように。

自分の目的が“”なのか。いったい“”ができるようになりたいのか。

そのためには“”をしなければならないのか。

 

この「何」を、強く強く意識してください。

 

本当に大事なことは、次の2つしかありません。

 

①目的から目を逸らさないこと

②目的を欲し続けること


あなたが、正しい方法をとることができていて(①)、

本当に司法試験に合格したいと望んでいるなら(②)、

あなたの目的は必ず達成されます。

正しい方法(①)はすべてこのブログの中に書きました。

このブログを平気で読むことができるほど素直な人なら、実践はかんたんでしょう。

 

あとは、あなたが本当にそれを望んでいるのかどうか(②)、です。

 

あなたが本当に合格を望んでいるなら、司法試験なんてかんたんです。


 

 

 

 

 

 

※この雑感①②③は、2022年3月以降に書かれたものです。

ブログの(最終的な)終了にあたって、最後に広い視点から言いたいことをテキトーに書き残しておこうと思います。

 

 

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「法的思考力」とは何か?

 

●昔、芦部先生がその定義を書いたことがあります(法学セミナーか法学教室か…)。

正確に覚えてませんが(検索しても出てこない)、↓こんな感じの定義でした。

法的思考力=相対立する利益に目配りしつつ論旨を展開する能力のこと

 

●2つ下線を引きましたが、重要なのは前者です(後者はただの論理展開の話なので)。

この相対立する利益に目配りという部分こそ、私が法の本質と考えるものです。

 

●なぜかというと、法の本質は紛争であり(紛争があるから法が必要になる。逆かも?)、そしてその紛争(=対立)を解決するのが法だからです。

 

●「解決」とは、治めるということです。

戦争なら、相手を全員消し去って「解決」というのもアリかもしれません。

しかし、法はそうではない。負けた側にも社会に居続けてもらわなければなりません。

そこで必要になるのは、相手方(特に負けた側、付け加えるならギャラリー)の納得です。

勝つ側・負ける側の双方(両当事者)を、同じだけ大事にするのが法(的処理)の姿です。

 

●私がこの定義をこそ法の本質と考えるのは、何より、条文がこの形をしているからです。

どの条文でもいいのでよく読んでみてください。ほとんどの条文がこの形をしています。

もちろん、条文の具体的顕現としての紛争もこの形です(紛争のほうはすべてこの形です)。

 

●ブログを始める何年か前にはこのことに気づいていましたが、はっきり書きませんでした。

なぜかというと、「それを答案にどう書けばいいのか」がよく分からなかったからです。

適当なことならいくらでも言えますが、想像するにこれは、一流の法律家のみがざっと読んでさっと分かる、そういう類の「何ものか」であって、具体的な答案の書き方として「こう書いてください」と提示できるものではないのだと思います。

 

 

 

 

地頭論再考

 

Q.本当に地頭が凄い人っているんじゃないの?

A.そりゃ間違いなくいる。

世の中には、闘う前から負けを悟らざるを得ないような、脳細胞から違う人がいる。

ただ、司法試験がどうとかいう場面では、そんな人は無視して構わないくらいの数しかおらず、一見「天才!」と思ってしまうような人も、よく見れば相応のことをしてきた人ばかりです。

ブログ本編で基本的に地頭の話をしなかった(認めなかった)のは、実質的にその必要がないと考えていたからです。

 

 

 

 

中村さんの思い出 ~その一~

 

●中村さんが(旧司の)論文試験に落ちたとき、一緒にいました。

合格祝(予定)は「励ましの会」に変更され、どこかの居酒屋でしばし食事をし、地下鉄で帰りました。

途中、横に座っていた中村さんが、「おかしいなぁ~、あんまり悔しくないなぁ~」と2-3回くらい言ったのを覚えています。

 

●数日後、ゼミ(※勉強を一切しない勉強会)に中村さん(=N)が現れました。

私「調子はどうですか?」

N「なんか、あれからしばらくして、すっごい悔しくなってきて・・・」

私「そうなんですか」

N「1日20時間くらい勉強してます」(うっすら笑っている)

私「ん?・・・20・・・睡眠は・・・」

N「1日2時間くらいしか寝てないですね」(うっすら笑っている)

私「(たしかに目が据わっている・・)」

 

●つづき

私「ゼミなんて来てていいんですか?(他に論文落ちた人は誰も来てないのに・・・)」

N「勉強法の相談に乗ってもらおうと思って」

その後、一緒に書店回りをしながら何冊か本を買って、ゼミの教室に戻りました。総論的な勉強法から具体的な答案の書き方に至るまで、すべてを見直すとのこと。それから数ヵ月、なぜか私も一緒に考えていくことになりました(中村さんは、それからも、この「勉強を一切しない勉強会」に、毎週来ていました)。

 

●「開成から東大行くような人がこんなに勉強したら、受かるに決まってんじゃん」

そう言いたくなる人もいるでしょう。

「方法論とか言うんだったら、もっとエレガントに受かってくれよ」

そう言いたくなる人もいるのではないでしょうか(かく言う私がそうでした)。

 

●そうじゃないのです。

こういう人だから、開成東大弁護士なのです。

優秀な人は、やるときはやるのです。

やるときはやるから、優秀なのです。

そんな当たり前のことを、しかし目の前でありありと見せられたことは、私にとって貴重な体験となりました。

 

●ちなみに、こういうことを書くと、中村さんが方法小手先要領テクニックを(本音ではor事実上は)軽視ないし否定してしまっているように思う人が出てくるかもしれません。

 

●もちろんそれは大きな誤解です。

方法や小手先や要領やテクニックは、勝負に不可欠です。

方法なしに、努力などほとんど意味を成しません。

 

 

 

 

日本○○の監督と積み上げ型

 

●いま(これを書いている2022年3月現在)話題の日本○○の監督が、

「優勝は狙わない」

「地味な練習を積み重ねることが一番大事」

等々の、戦前の無能な指揮官のようなクズみたいな発言をしています。

 

●彼が言うには、「まずは目の前のやるべきことを積み重ねていって、その延長線上に優勝があればいい」のだそうです。

 

「積み重ねる」って、いったい「どっち」にだよ!

 

●こういう「地道に積み上げていきましょう」みたいな、5歳児でも言えるような「指導」しかできないコーチや講師があまりにも多くてげんなりします。

 

●彼らには頭を使って戦略を考えるという習慣が(人生を通して)全くないため、彼らの唱える「戦略」は常に体育会系的な根性論一択になります(ちなみに、弁護士だって人生で1秒も頭を使ったことがない人はたくさんいます)。

 

●仮に「方法」の問題が示唆されたとしても、彼らは方法と努力をゼロサムの関係で捉えることしかできないため、結局は常に「努力」のほうが選び取られることになります。

方法は頭を使うので、人生で頭を使ったことがない人には、その存在意義が理解できません。

そのため、彼らの目の前に方法努力を並置してみせても、結局彼らは努力のほうしか選び取ることができないのです。

 

「方法なの? それとも努力なの?」 「方法じゃなくて、努力だよね」

自分の頭で考えることができない受験生・合格者・講師たちは、昔から↑こんなことばかり言ってきました。

 

●私の答えはかんたんです。

方法の限りを尽くし、努力の限りを尽くすのです。

これしか正解はありません。あたりまえじゃないですか。

 

 

 

 

積み上げ型学習

 

●この、目的の前に何かを積み上げることからスタートする「積み上げ型学習」こそが教育・学習の本意である、とするこの誤った教育思想は、一体いつから私たちの社会の常識になったのでしょうか。

 

●人類が文明を築いて以降しばらくの間は、「積み上げ型」などという、学習者にひたすら奴隷的苦役を強いるだけの変な(変ですよ!)「方法」は存在しなかったはずです。

 

できるようになりたい当の行為(目的)を定めることなく、まずは「積み上げ」ることから始める。言ってるだけでかなり無理があります。

 

●何のために積み上げるのか分からないまま、積み上げる。

どこにどう積み上げるのか分からないまま、積み上げる。

まったく不合理極まりない。

 

●こんな不合理な学習法が、自然に出来上がってきたものとは考えにくいです。

歴史のどこかの段階で、誰かが人工的に「発明」したものに違いありません。

 

 

 

実践型学習

 

●「積み上げ型学習」の反対は、言うまでもなく「実践型学習」です。

歴史のある段階まで、人類はこちら(実践型)の方法しか持ち合わせていなかったはずです。

 

「実践型」とは、目的とする当の行為と同じことをすることです。

かつては、大工の息子も漁師の息子も、実際にそれぞれの仕事を手伝いながら大工・漁師になっていきました。弁護士のような職業ですら、「弁護士見習い」のような形で、実際にプロの横に付いて見よう見まねで学習していくのが普通でした(古代ローマでは後の学校のようなものが出現したこともあったようですが)。

 

●かつては世界中が身分制社会でしたから、何かを教育(学習)するとしたら、「実践型学習」で十分でした。「実践型」こそが、最も効果的な、ただ一つの学習法だったのです。

 

●特に理由がなければ、現在でも教育(学習)は「実践型」で十分です。

「実践型」が最も効果的な学習法であることは、昔も今も、何ら変わっていません

(↑ここがあまりにも理解されていないところです)

 

 

 

英語学習

 

●たとえば、「英語が話せるようになりたい」とします。

お金はいくらでもある。時間も十分にある。つまりは、英語に人生を全振りしてよい状態だとします。

 

●ただし、たとえば「英語ができるようにならなければ殺される」といった厳しい条件がついているとします。このとき、皆さんならどうするでしょうか?

 

●99.99%の方が留学を選ぶはずです。

アメリカの学校に通い、アメリカ人の家にホームステイして2~3年も生活すれば、100%の人が英語を話せるようになります(※驚くべきことに例外は存在しません)

どんなに英語が苦手な人でも、どんなに偏差値が低い人でも、100%話せるようになります。

 

●「そんなの当たり前だろー」と言いたいでしょうか。

もちろん当たり前です。これが「実践型学習」の力です。

目的とする当の行為をしていれば、誰でもその行為ができるようになるのです。

 

●とはいえ実際には、お金がなかったり、時間がなかったり、勇気がなかったりして、そこまで踏み込めない人が大半です。それは仕方ありません。

私たちの人生には、そのようなボトルネックが常に存在します。最も有効な手段が何か分かっていても、その手段が様々な理由で実行不可能ということは多々あります。

 

●ここで重要なのは、実行が可能か不可能かの話ではなく、「最も効果的な学習法が何なのか」を私たちは(本当は)一人残らず最初から全部知っているということです。

 

英語も司法試験も同じです。

「実践型学習」が最も効果的な学習法であることは、今も昔も同じです。

本当は、全員がそのことを知っているのです。

 

●このことは、強調してもし過ぎることはない、というくらいの人間の真実です。

全ての人間が「最も効果的な学習法が何なのか」を、言われるまでもなく知っています。

しかし、ほとんどの人が、まるで何も知らないかのように振舞っています。なぜでしょうか?

それは、人間が基本的に自分に(こそ)ウソをつく生き物だからです。

自分の一番弱い部分、聞きたくない部分、認めたくない部分をこそ誤魔化す生き物だからです。

 

 

 

 

 

積み上げ型学習の起源

 

●ところが、現代ではなぜか「積み上げ型学習」が常識的で真っ当な学習法だとされています。なぜこんなことになっているのか。

 

●実は、この「積み上げ型」の教育思想が広く社会の全体に普及したのは、長くみてもせいぜいこの100年のことです。私たちの「常識」は、つい最近塗り替えられたものなのです。

 

●現代教育の常識となった「積み上げ型学習」の思想は、17世紀に唱えられました。

コメニウス(1592~1670)が最初の人です(←教育学部の人には有名)。

私の見立てでは、良くも悪くも↑この人からすべてが始まっています。

 

●「近代教育の父」コメニウスのスローガンは↓こうです。

「全ての人に、全てのことを」

ようするに、身分を問わず全ての人間が、世界の全ての事柄を学ぶ。

これが教育の理想なんだ、ということです。

 

●分析的に書けば、

①教育の対象⇒全ての

②教育の内容⇒全ての内容

となります。わざわざ分けて書く意義はあります。

 

●これが教育の近代を開いたという歴史的な意義もありますが、それより重要なのは、近代教育思想に照らせば、この①「人」と②「内容」は(分けて書いといて何ですが)実は全く同じことを言っていることになるからです。

そして、この思想こそが現代人の「積み上げ型学習」という「洗脳」を生みだしたという側面も無視できません。

 

●まず、①(=全ての人)から。

①「全ての人」が教育の対象になるということは、貴族や僧侶だけでなく、軍人も農民も、男も女も、富める者も貧しき者も、ようするに全国民がそこに含まれる、ということです。

 

●ここから何が帰結するか。

「全ての人」が対象ということは、学校や教師が、その教育を「誰」に対して行うのか全く分からないことを意味します。教育の名宛人、つまりは「誰」が、全く分からないのです。

そして、その「誰」が分からないまま、それでも教育が行われるのです。

 

●それまでの時代なら、弁護士になるなら弁護士になるための、司祭になるなら司祭になるための、(あえて似たのを挙げておくと)修道士になるなら修道士になるための教育(というよりは訓練・修行)があって、目の前にやってきた人にそれを宛てがえば十分だったはずです。

なにせ、目の前にいるのは、「修道士になることが決まっている人間」なのです。

それ以外の人間が目の前に座っているなんてことはあり得ないのですから。

 

●目の前に座っているのが、「修道士になることが決まっている人間」から、①「全ての人」に変わると、教育(教える内容)はどのように変わるでしょうか。

 

●その人は何者なのか、その人は大人になったら何になるのか。

目の前に座っているのは、そういう具体的属性を何ひとつ持たない「人」(抽象的一般人)なのですから、具体的な教育プログラムなど「ない」ということに(まずは)なります。

 

●しかし、それでは困る。それでも何かを「教育」しなければなりません。

その場合、どうするか。

 

何でもかんでも教えるしかありません。

だって、目の前にいるのが「誰」なのか。

これから先、「誰」が来るのか。

彼らは「何」になろうとしているのか。

こういったことが何ひとつ分からないのですから。

 

●ようするに、ここで人は平等になったわけです。すばらしい。

しかし、それは同時に、目の前に座っている生徒たちに「何を教えればいいのか分からない」という大きな困難を生むことにもなります。

 

①人(全ての人)のことを書いているうちに、いつの間にか②内容(何でもかんでも)の話に踏み込んでしまいました。

先ほど、①と②が「全く同じことを言っている」と書いたのはそういうことです。

 

●近代以降、少しずつ身分制度が壊れ、平等化が進む中で、人は「なりたいものになれる」ようになっていきます。なりたいものにはなれなくても、将来自分が何になるのか分からない存在になっていきます。

 

●農民の子が軍人になるかもしれないし、漁師の子が科学者になるかもしれない。

だとすると、ある生徒に教えるべき「内容」は、「全てのこと」にならざるを得ません。

(→「ざるを得ない」というところがポイントです)

 

●だって、何になるのか分からないということは、すなわち、何にでもなる可能性があるということなのですから。何にでもなる可能性がある人に教える「教育」があるとすれば、それは森羅万象・一切合切となる他はありません。

 

●コメニウスの作った「教科書」をみてみると、それが現代の教科書ととてもよく似ていることに気づきます。一言でいうと、何でもかんでも書いてあるのです。

 

「何でも書いてある」とは、裏を返せば、

・教師がそれを使って「誰」に教えるのか、その教科書からは何も推測できない

・生徒がそれを学んで「何」になるのか、その教科書からは何も推測できない

ということです。

 

●このことに驚かなければなりません(どうか真剣に驚いてください)。

実際にはほとんどの人が驚かないか、せいぜい「あぁこの頃から教育は平等に向かっていったんだなぁ」みたいな(陳腐な)感想しか思いつきません(ちなみに私の不勉強のせいだとは思いますが、ここに書いた内容を正面から主題化した教育学者すら私は知りません)。

しかし、現代の教科書と変わらない姿がそこにあるからといって、これが当たり前だと思ってはいけません。

ここで驚いてはじめて、コメニウスを祖とする近代教育思想(理想)の意義とその限界(弊害)が分かるからです。

 

●たとえば、ここに「全ての人を愛している人」がいるとします。

しかし、愛がその定義上、排他的な性格をもつものである以上、その人は全ての人を愛しているのと同時に、実際には誰も愛していないと言うこともできます。

 

「全てのことに関心がある人」なんかでも同じです。

ありとあらゆるものに「関心がある」なんて、そんなのはほとんど語義矛盾でしかありません。

 

●他に分かりやすい例を挙げるなら、「私」という概念もそうです。

「私」とは、言うまでもなく「この私」のことを指し示していますが、実は同時に、誰のことも指し示していません。この二重性がなければ、「私」という概念は成立も存続もできません。

 

●ここで書いているのは、(教育に限らない)この世界の真理の話です。

「全て」というニュアンスをもった概念は、多くの場合その意味が二重性を持ちます。

 

「誰に対しても役に立つ教育」とは、実際、誰の役にも立たない教育です。

嫌味を言っているのでも、無理な逆説を駆使しているのでもありません。

(そう思ってしまう人は、人生であまりに頭を使ってこなかった己を恥じるべきです)

世界は(あるいは言語は)、不可避的にそういう構造をしているのです。

 

●したがって気に入らなければ、↓こう言い換えても構いません。

誰の役にも立たない教育だからこそ、全ての人の役に立つ

これもまた真理です。

 

●「私」という概念に中身(内容・性質etc…の具体的属性)が一切ないからこそ、全ての人が自分のことを「私」と呼ぶことができるのと同じです。

 

●なるほど。グダグダ書いてきたようだけれど、ようするに「役に立つ」って認めるんだね。

⇒そうです。そうでないと、世界は平等になりません。近代教育には明らかに「意義」があるのです。

 

●問題は、この近代教育(=全ての人に全てのことを教える教育)が、ある種の「断念」のもとに作られた、致命的欠陥を有した制度であることを、現代人が忘却してしまっている点です。

 

●近代教育は、平等に「全ての人」を対象に行われなければならなくなりました。

その結果、教育の平等が実現しました(←ここまではいい)。

しかしその結果、近代教育は論理必然的に、誰の役にも立たないもの(=何の効果のないもの)になり果ててしまった(ならざるを得なくなった)のです。

 

●まとめます。

近代~現代に至る教育システムには、「誰」のために、あるいは「何」のためにが、完全に欠落しています。それは、「全ての人」を教育の対象として包摂するためです。

中身を「ゼロ」にしなければ、「全ての人」を包摂することはできません

 

●譬えていえば、全人類が一人の例外もなく平等に口に入れられる「食べ物」があるとしたら、それは一切の成分を欠いた水や空気くらいしかない、みたいなものです。

 

●現代の教育制度は、成分(=教科書)から食べ方(=学習方法)まで、その内容を「ゼロ」にすることで教育の平等を実現しました。

 

●この「食べ方」を、別名「積み上げ型学習」と呼びます。

 

 

 

積み上げ型学習の目的

 

●つまりは、教育の平等を実現しなければならないというメタレベルの「目的」があったから、「教科書」という誰のためでもない教材が出現し、「積み上げ型」という何の効果もない学習法が世に広まることになったのです。

 

「教科書」「積み上げ型」も、このメタレベルの目的(教育の平等)の実現に奉仕する限りで意味を持ち、効果を発揮するものです。

(しつこいですが、「意味を持ち、効果を発揮する」とは、何の意味もなく、何の効果もないということと完全に同義です)

 

●メタレベル(国家・社会レベル)の観点から教育を考えるなら、こうするしかありません。

何者でもない、何になろうとしているかも分からない匿名(透明)の存在に授けることのできる「教育」なんて、せいぜいこんなものしかないからです。

 

 

 

目的のある勉強

 

●しかし、その匿名の存在がひとたび明確な目的を持ったなら、そのような存在にとってこんな教育は(今度こそ本当に)何の意味も効果もありません

 

何かの目的を持った瞬間、その人にとっての学習は、中世以前に戻らなければなりません

中世以前の学習とは、その教育を必要とする人が、必要とする内容を、必要とする仕方で学ぶことです。ようするに、目的とする当の行いを、見よう見まねですることです。

 

●「あぁ、これでようやく、本来(=中世)の教育・学習に戻れる

「さようなら、コメニウス」「よく考えたらお前、必要なかったよな」

…本来はすぐに↑こうなるべきなのですが、事はそう簡単にはいきません。

 

すぐに中世に戻れる人がいます。

東大をはじめとする一流大生の中に、そういう人たちが少なからず存在します。

実は彼らは、(驚くべきことに)近代教育にそのままでは順応できなかった人たちです。

順応できなかったにもかかわらず彼らが高学歴なのは、一言でいえば、勉強を目的化することが上手だったからです(たとえば、合格を目的化するとか、試験をゲーム化するとか…です)。

彼らは近代教育思想に最初から「洗脳」されていないので、その役割が終わると、自然にそこから離れていくことができます。

 

途中で気づいて中世に戻る人もいます。

このブログを読んで感心してくれた人がそうですし、なにより私自身がそうでした。

このタイプの人は、若いときから近代教育の「嘘」に漠然と気づきながらも、それがどのような「嘘」であるのかを自力で解明することはできず、長く苦しんできた人が多い気がします。

 

 

 

目的のない勉強

 

●もっとも実際には、ほとんどの学習者(受験生)が中世には戻れません

多くの東大卒も、多くの早大卒も、多くの弁護士も、多くの予備校講師も、近代式の平等教育で施された(洗脳された)内容量ゼロのプランを、終生愚直に守ろうとします。

 

●そうなる理由はもちろん、彼らが本質的に○○だからでしょう。

要は、人生で一秒も頭を使って考えたことがないからです。

ただただ、システムに従って生きてきただけだからです。

 

●本当は↑これで全部済ませたいのですが、もう少し踏み込むと、一流大出の人は、

目的のない勉強を、目的のないまま実行(勉強)する

というほとんど奴隷的な苦役を、そうとは知らず(あるいはそうと知りつつ)実行することで、利益(プライド・称賛・学歴・資格・地位・収入etc)を得てきた人たちだからです。

そうやって、自らのアイデンティティを確立してきた人たちだからです。

 

●彼らが、やたらに

「基礎から積み上げる」とか、

「愚直に」とか、

「揺るぎない基礎力を」とか、

「確実な知識を」とか、

こういった目的のはっきりしないモヤっとしたポエムのような助言ばかり口にするのは、(もちろん彼らに明確な目的意識がないことが一番の原因ですが)彼らが子どもの頃から、何だかよく分からないものを、よく分からない状態のまま受け入れる、という行動に長けていたからです。

 

●さらに言えば、このような奴隷的忍耐を示すことで、周りの大人たち(親や教師たち)から「えらいねー」と褒められてきたからです。

こうして一流大出の弁護士も、学校から社会に出た瞬間に一瞬で「○○」になるのです。

 

●先ほど世界の二重性の話をしましたが、何かの利益を得るということは、同時に(必然的に)何かを失うということです。誰もこの法則から逃れることはできません。

 

●近代教育システムに順応すれば、それに見合った不利益はきちんと生じます。

近代教育システムへの順応が進めば進むほど、その不利益は、深く、強固に、その人を内側から硬化させていきます。これは世界の真理(法則)ですから、一流大を出たくらいではこの法則の例外になることはできないのです。

 

●悲しいのは、そんな利益など得ていない(どころか不利益まで被っている)人たちまでもが、近代教育思想に「洗脳」されていることです。まるで、(本当の話かどうか知りませんが)足に繋がれた鎖を引きちぎれないゾウのようです。近代教育システムに順応できなかった人たちまでもが、「積み上げ型学習の外には出られない」と思い込まされているのです。

 

●該当者の皆さん、よく聞いてください。

投資で資金を溶かす人たちのことを、株の世界ではよく「市場の養分」と言いますが、皆さんは本当に東大や早慶出の弁護士たちの(彼らのアイデンティティを補強するための)「養分」になっていないでしょうか。

 

●自分が彼らの「養分」になっていないか。

まずは、司法試験をはじめようとするとき、よく考えてください。

そして、司法試験の勉強をしているときも、彼らが最も得意とする「目的のない勉強」に引きずりこまれていないか、よく考えてください。

 

目的のない勉強(=積み上げ型学習)なんて、できないほうが自然なのです。

自然の本性に適った学習法は、実践型学習だけです。

 

●上で書いたように、アメリカに留学すれば、誰でも100%話せるようになります

このことの意味を、もう一度よく考えてください。

中世人のやり方(実践型)で勉強すれば、その人にとって最大の効果が得られます。

わざわざ、日本で文法書を開いて「積み上げ」ていく必要はないのです。

そのやり方で「私はできた」と言っている人の自慢話に、お付き合いする必要はないのです。

 

 

 

 

ここまでのまとめ

 

●一連の「tweet」を読んで、「近代教育に何の効果もないなんて大袈裟だ。私の場合、小学校のときに習ったことが今こんな風に役に立ってるぞ。そのとき役に立たないと思っても、将来何の役に立つか分からないじゃないか」と言いたくなった方へ。

そういう言い方自体がすでに、近代教育の無効性を示しています。

「将来」「分からない」という言い方がすでに、今このときには、現に何の役にも立っていないことの自白になってしまっています。

 

「教育(勉強)ってそうじゃないよね。今のことばかり考えるんじゃなくて、将来を考えるのが教育だよ」と言いたくなったでしょうか。

その言い方がすでに、今このときには本当にやりたいこと(やるべきこと)なんかないはずだという良くも悪くも近代人的な(偏った)考え方を前提にしてしまっています。

 

●こういった、人生の本番は常に未来にあり、現在はそのための準備にすぎない、という発想(現在より未来を重視する発想)は、近代以降、強力に私たちの心に植え付けられました。

私たちは、「未来」とか「将来」と聞くだけで、理屈抜きになんだか良い気分になるはずです(翻って、「過去」と聞くだけで、なんだか重苦しい気分になるはずです)。

これは現代人に植え付けられた典型的なバイアスの一つです(中世以前の人間にとって「過去」はもっと輝かしいものだった)。

 

●(私を含む)多くの人間が、学校・試験制度に愛着のようなものを感じていますが(ex.まだ学生でいたいというモラトリアム的欲求や、学生時代は良かったなぁというノスタルジー等が典型)、その正体は(あえて名付ければ)学校・試験制度が持つ「プロセス的性質」への執着なのではないかと私は思っています。

 

●学校制度の中にいるとは、すなわち、自分が何らかのプロセスの中にいるということです。

この中にいる間は、誰しもが自分の未来(将来)に無限の可能性を認めることができます。

無限の(選択)可能性を与えられているという実感は、私たちに究極の自由の感覚(≒全能感)を齎します。

(生まれる前から大工になることが決まっていた中世の若者には、この感覚は絶対に理解できないでしょう)

多くの現代人が、程度の差はあれ、この甘美な感覚の奴隷になっている、と私は感じます。

 

●社会人になってからも(たとえば「キャリアアップ」のような言い方が典型ですが)、現在ではなくその「先」にこそ人生の真のステージ(目的)が待っているかのような仕事観・人生観を持つ人たちがたくさんいます。

そうやって人生の「目的」を先へ先へと順延させ続けること自体が、彼らの人生の活力になっているようです。

私には彼らの心情がよく理解できます。ようするに、あれは学校・試験制度(=プロセス)の延長戦なのです。

 

●誤解のないように言っておくと、私は、現在を何かの準備と捉えること、人生の目的を未来にスライドさせていこうとする思考の一切が「ダメ」だと言っているわけではありません。

先ほども書いたように、そもそも近代社会というものが、私たちにそういうバイアスを持たせるよう「設計」されているのですから、そのような思考から完全に逃れることはできません。

 

●私が言いたいことはひとつだけで、要は、

目的のある勉強をするときに、そのバイアスを持ち込むな

ということです。

 

●別の言い方をすると、目的のある勉強は、近代教育システムにおける「勉強」とはまるで違う勉強であることを自覚してください、ということです。

 

目的のない勉強=現代の教育システム=将来のための「勉強」=何の効果もない内容ゼロの「勉強」を強いられ、それに従順にしたがうことに慣れてしまった(ばかりかそのフィールドで高いパフォーマンスをあげてきてしまった)人間は、今このときの勉強を常に「準備」とみなします(そういうクセが染みついてしまっています)。

 

●彼らが入門講座好きなのも、基本書好きなのも、なんだか分からない「基礎力」的なものが好きなのも、「地頭」的なものが好きなのも、いつもいつも何かを「積み上げ」たがるのも、それらがすべて目的とする「何か」の前段階(準備)だからです。

つまりは、近代教育システムの構造そのものだからです。

 

 

 

 

法学は学問か

 

●話は変わって、もの凄く炎上しそうなことを書きますが、法学の能力って他の学問分野と比べるとかなり変わってますよね。何が変わってるって、大学卒業時(22歳時、あるいは18歳時)の能力的序列が、将来にわたって(数十年後にも)ほとんど変わらないところが、です。

 

●知らない方もいるかもしれませんが、日本を代表する法学者の多くが、実は大学院に行っていません(この時点で相当に変!)。かなり東大に偏った現象ですが、とにかく東京大学法学部の学生で、指導教官から推薦された学生は、大学院に進まずそのまま助教(助手)になるという謎の慣習が法学(特に東大法学部)の世界にはあります。

そして、驚くべきことに、そのときなされた「評価」は、ほとんど外れることがないのです。

 

●思いつくままに挙げていくと、憲法の芦部・宍戸先生、民法の内田・大村先生、刑法の西田・前田・山口先生、商法の神田・田中先生etc…このへんでやめておきますが、学部時代に指導教官から「一本釣り」された学生の多くは、まるでエスカレーターを昇るようにそのまま法学界の重鎮になっていきます。

彼らはみな東大法学部卒であり、学部を卒業後、大学院に進むことなく助手(助教)採用されるのも同じ。こんな判断が、22歳で行われているというのは、もっと多くの人が驚いていい事実です。

 

●ちなみに、「学力」(※後述)ではなく、力技(努力と根性)で「一本釣り」を勝ち取った(ようにしか私には見えない)先生も一部にはおられます(さすがに名前は言えません)。

このタイプの学者は(たいへん失礼ながら)真の第一人者と比べると、そもそも日本語のレベルから違っていて、こういうとき「学力」ってすごいな(というか怖いな)と素直に思います。

 

●どうやら法学の世界では、22歳の段階で、その才能が「○○法学会」を代表する存在になるのかどうかが分かってしまうらしいのです。

これは解釈法学に限った話ではなく、法哲学の井上達夫さんや大屋雄裕さんなんかもそう(学部卒→即助手採用)ですから、法学全般に妥当する「法則」のようです。

 

●まあでも、これはあくまで「法学」の才能の話で司法試験は別…と書こうと思ったのですが、本音の本音をいえば「必ずしもそうとも言えないかな~」というのが本音です。

なぜなら、上に挙げた先生方は、在学中に司法試験を受験して、トップレベルの成績で合格している方がほとんどだからです。あくまでもトップレベルの人に限った話ではありますが、法学の圧倒的な実力⇒司法試験の圧倒的実力でもある、ということです。

 

●「でも、それは色んな学問分野の研究者に東大出が多いという事実や、もっと抽象的に東大出には優秀な人間が多いという一般論で説明できる話なんじゃないの?」と思うでしょうか。

私はそうは思いません。はっきり法学は異常だと感じます。

 

●ロシア・ウクライナ戦争が始まって以降、数多くの国際政治学者がTVや雑誌に登場していますが、皆さんは彼らの学歴を調べてみたことがあるでしょうか。

私は政治学科から大学をスタートした人間で、それからも趣味的に色んな学問分野に興味を持ってきた人間なので、法学を除くほとんどの学問分野で、ある特定のAならAという学生(←なんと学生!)が、将来その学問分野を代表する学者になるのかどうか、そんなことが22歳の段階で判断できてしまうなんてことは通常はあり得ないということをよく知っています。

 

●特に政治学にかんしては元々の所属学科だったということもあって、酷いとき(?)は200人くらいの学者の名前と研究テーマを覚えていました(試験好きでもあったので、もちろん学歴の情報もセットで把握していました)。

 

政治学者の学歴は、法学者のそれとは比べものにならないくらい「低い」んですよ。

馬鹿にして言ってるのではありません。逆です。

政治学を志す学生にとって、まだ「子ども」にすぎない18歳時点で(たまたま)所属することになった大学やそこでの成績がその人の未来を拘束する、なんてことはありません。

18や22で決まることなど何もないし、18や22で諦める必要なんてないのです。

 

●これはとても正当なこと(学問は勉強とは違うんだから当たり前)だと私には感じられます。

普通は、学者に限らずどんな職業だって、18や22で決まることなどほとんどありません。

当然、法学を除く学問分野においては、あるAさんならAさんが「○○学の第一人者」になれる可能性は、もっとだいぶ後まで残るのです。

 

●特定の学問分野を代表する文字通りその世界の「第一人者」になるのに、東大・京大を出ている必要はありません。これは法学以外の分野では全く普通のことです。

 

●政治学を例にとれば、(早慶や旧帝大どころか)MARCHレベルの大学を卒業した人が特定の分野の第一人者になっている例も(けっして稀ではなく、いくらでも)確認できます。

いわゆる「底辺大学」出身者で東大教授をしている人もいます(こんなのは法学ではまず絶対にあり得ないことです)。

政治学が特殊なのではなく、その程度には逆転が生じるのがむしろ普通です。

 

●ところが、法学ではそのような逆転はほぼ生じません。

第一人者になるには、前提として東大(か京大)を出ていることは必須で、それ以外の人間にはほとんどチャンスがない、と言ってしまっても大きな嘘にはならないでしょう。

 

●このように、法学という「学問」は、他の学問とは決定的に異質な存在なのです。

法学では、学校・試験制度→大学→研究者と続いていく過程で、その「能力」にほぼ逆転が生じません。

 

●そうなる理由は、学校・試験制度でその能力が試され終わっているからである。これが私の解釈です。

 

 

 

学力論 ~法学に向いている人、いない人~

 

●繰り返しますが、法学の世界では、能力の逆転はほぼ生じません。

要するにそれは、法学の能力が学力と(ほぼ)同一だからでしょう。

 

●ちなみに、私は「学力」=学校・試験制度における能力と定義しています。

つまり、学校教育制度の中で6歳から18歳(or22歳)までの間に測られてきた頭脳的能力全般のことを指して「学力」と言っています。

 

●これも先ほどと同じ話になりますが、この「法学力=学力」という私の主張を司法試験に全面適用してよいかには議論(疑問?)の余地があるでしょう。

しかし、少なくとも司法試験の合格には法学の習得が必須であることは間違いないのですから、司法試験が法学と全く無関係だと強弁することはできません。

 

●つまりは、司法試験が「学力」と全く無関係だと強弁することはできない、というのが現在の私の偽らざる本音です。

 

●なので、とりあえず3年くらいやってみて「私、向いてないな」と思ったら、素直に撤退したほうがいい。学力(法学力も)は、非常に早い段階でその有無を判定できるものだからです。

 

●もちろん、↑こんなのは余計なお節介なのですが、たとえば↓こんな人をみるとき、私の中の「あなた向いてないよセンサー」が強く反応してしまいます。

 

●絶対に見つかることはないと思うので書いてしまいますが、私の知人に、10年近く行政書士試験にチャレンジし続けている人がいます(もう1年以上会っていないので、もう10年経っちゃったかもしれない)。

どう考えても10年かかる試験ではありません。彼は明らかに「向いていない」のです。

私のほうも10年以上前に勉強した記憶を拾い集めながら彼の「勉強」の進行具合を聞いてみたりするのですが、○○塾に100万円以上「献金」してきたとはとても思えないレベルです。

 

●何度も入門講座を受講してきた(はずな)のに、ほとんど何も入っていません。

「あ、また過去問解いてる」

「先週と同じとこやってる」

一向にできるようになる気配がありません。

やる気だけはある(ように見える)のですが、なぜか実際にやっているようには見えません。

同じ場所で延々と足踏みをし続けている(何も進んでいない)ようにしか見えないからです。

これでは仮に合格できたとしても、行政書士の実務を滞りなくこなせるとは思えません。

 

●ちなみに、彼の「献金額」は○○塾に100万以上と書きましたが、○○塾に出会う前にすでに何百万も搾り取られています(合計でいくら「献金」したのかは不明です)。

 

●…ようするに私は、この世には搾取の構造があるということを言いたいのです。

搾取にも(お金の搾取や、やりがい搾取など)いろいろな種類がありますが、ここで私が問題にしたいのは、学校・試験制度に纏わる搾取です。

 

●世の中で、学校・試験制度に向いている人(=「学力」がある人)はごく僅かです。

それ以外の人は、向いている人を喜ばせるための「養分」になることしかできません。

あるいは、学校(ロースクール)・塾・予備校の「安定財源」になることしかできません。

 

●あなたは、学校・試験制度という土俵で勝たなければならないと思い込んでいませんか。

あなたは、本当に学校・試験制度に「向いている」人ですか。

学校・試験制度に「向いている」人を、ただ喜ばせるためだけの存在になってはいませんか。

心当たりがある方は、一度立ち止まってよく考えてください。

 

●この世界(社会)の「勝負」は、学校・試験制度だけではありません。

むしろ現実には、学校・試験制度における勝負など、世の中全体の「勝負」のごく一部でしかありません。

にもかかわらず、多くの人が学校・試験制度に纏わる「勝負」に高い価値を置いていますが、それは、学校・試験制度が全員参加型の制度だったからにすぎません。

 

●就活生の人気企業が、誰もが知る有名企業に偏りがちになるのと同じです。

よく考えない人が思いつきで始めるビジネスが、決まって飲食店になるのと同じです。

パニック時に、皆がひとつの扉に殺到するのと同じです。

 

●単に、6歳から18歳(22歳)までのあいだ、全員がそこで競争させられていたから、その競争の仕方に馴れてしまっただけの話です。

 

●ようするに、皆が知っている場所には、皆が殺到する

ただそれだけの話なのです。

 

●結論。

学校・試験制度は、学校・試験制度で勝てる人(=学力のある人)のためにある制度です

勝てない人(=学力のない人)のためにある制度ではありません

このことを肝に銘じてください。

学校・試験制度に、人生を危険に晒すほどの価値はありません。

 

●自戒の念を込めて言いますが、「東大・京大生にだって負けない」「逆転できる」とあなたが本気で思っているのであれば、なにも無理に試験で勝ちにいかなくてもいいはずです。

 

東大をはじめとする学力の猛者たちが最も得意とするフィールド(=試験)で勝負をしようとしている時点で、あなたはすでに彼らの「養分」にされている可能性があります。

 

大事なことなので3回言います。

真に優秀な人間は、自分が向かない分野で勝つことに拘ったりしません

真に優秀な人間は、自分が向かない分野で勝つことに拘ったりしません

真に優秀な人間は、自分が向かない分野で勝つことに拘ったりしません

 

 

 

 

(雑感① おわり)

 

 

⇒雑感②へ

 

 

 

 

 

 

※この雑感②は、2022年に書かれたものです

 

 

受験指導

 

●この10年くらいの間に2人の子どもに受験指導をしました。

「指導」といっても大したものではなく、ようするにこのブログに書いてある方法論をそのまま実行するように言っただけです。つまりは過去問主義です。

その中で見えてくるものがあったので少しその話を書きます。

 

●ちなみに、受験というのは(最初は)中学受験です。個々の教科を教えるようなことはあまりしていません(せいぜい国語くらい)。基本的には他人(塾講師・家庭教師)任せです。

といっても、他人任せであるがゆえに多少の問題は発生しました。

中学受験というのは、SAPIXならSAPIXの方針が完全に徹底されていて、その方針から外れたことは時間的にほとんどできません(まあ私の頃もそうでしたがよりそんな感じでした)。

家庭教師のほうも同じで、中学受験の勉強方法は、資格試験や大学受験よりもはるかにマニュアル化が徹底されていることを知りました。

 

●しかし、最も合理的な方法論=過去問主義であることは明らかなので(苦笑)、過去問主義を心置きなく実行するため、仕方なく6年生からはSAPIXをやめて家庭教師一本(週3くらい)にするという「暴挙」に出ました。

 

●すでに過去問主義が最良の勉強法であるとの確信を抱いてはいました。わざわざブログを始めたのはそれを伝えるためでしたし、自分もそうしましたし、もし誰かにアドバイスをするなら、それ以外に選択肢はないと思っていました。

しかし、いざ全責任をもって引き受けるとなると、私のようなちゃらんぽらんな人間でも、多少以上の躊躇を感じたことを告白せざるを得ません。

 

●でもとにかく信じた道を行くしかないと思って、その道を進み(進ませ)ました。

やることは簡単で、6年生の初めから赤本(+科目によっては基本問題集)をひたすらぐるぐるです。自習でぐるぐる。家庭教師を横に付けてぐるぐる

 

●そういえば、「小学生は記憶力がいい」とか誰が言ったのか。そんなことは全くありませんでした。3日前にやった問題でも、子どもはすぐに忘れます。だから過去問の答えを覚えてしまって意味がなくなる、といった心配は全く無用でした。何度も間違えて、何度もやり直しました。

 

過去問主義への転回

そこそこ順調に運んだように書いてしまいましたが、実は最初の段階で躓きがありました。

そもそもこのような(塾をやめるという)大きな賭けにでることになった理由は、5年生の段階で当初の第一志望であったA校の合格が絶望的に思えたからでした。

このまま授業→模試を繰り返しても到底届く「距離」ではない。そこで、一か八か過去問主義でやってみるか、ということになったわけです。

 

過去問主義の限界

結論からいうと、この試みは失敗に終わりました。ひょっとすれば私の指導力が足りていなかったのかもしれませんが、まず彼はその中学の過去問を「読む」ことができなかったのです。横に家庭教師を付けて解説させてもダメでした。特に算数が難しかったです。答えを棒暗記することはできても、数字を入れ替えるだけで(実質的に)同じ問題が解けなくなってしまいます。

 

●どこかのエントリーで「日本語のできないイラン人に過去問主義が採用できるか」という思考実験をしたことがありますが、まさにその状態でした。

過去問(問題と解答)が読めなければ、過去問主義は実行できません

6年生の夏ごろに、第一志望をB校に変更することになりました。

 

●B校の過去問は(家庭教師の説明付きであれば)もちろん正解はできませんが、解くこと&読むこと(説明を理解すること)はできました

私も「これなら何とかいけるかも」と思い、そのまま進むことにしました。

 

●私のブログを読まれてきた方には、「まあ、それなら行けるんじゃないの?」と思っていただけるかもしれませんが、実際にはかなりハラハラドキドキの1年間でした。

10回ほど受けた模試のうち、「合格可能性40%」を取れたのは1度だけ。残りは全部20%(0%とは言わないんですよね)だったので。

まあ、普通ならここで「志望校変更」となるところです。

 

●春。皆さんご想像の通り、晴れてB校に合格しました。

最後は家庭教師の先生も、「模試の成績はダメだけど、なんか受かる気がします」と言うようになっていました。当り前です。その学校の(過去の)入試問題がすらすら解けるんですから。

 

●これが過去問主義の力です。

過去に出題された問題がすらすら解ければ、本番の問題も解けます

これ以上に当たり前の理屈はありません。

 

●ちなみに入試の成績も真ん中よりは上だったようです。

特に驚いたのは、社会理科の成績でした。いずれも知識問題が多く、さすがに過去5年内に出た問題がもう一度出る確率は非常に低い教科です。それなのに、ふたを開けてみるとこの2教科もかなり得点できていたようでした。

言語化することのできない過去問の不思議の一端を見た気がしました。

 

 

 

「試験委員」の思い出

 

●そういえば、私は中学生のとき、(学級委員や風紀委員などのいわゆる委員会で)「試験委員」というのをやったことがあります。授業開始前の10分間のHRの時間に成績には入らない小テストが行われていたのですが、その問題を配ったりする仕事です。

問題は基本的に先生が作成していました。ところがある日、私が呼び出され(たぶん面倒くさくなったんでしょう)「○○←私、明日からお前が問題作れ」みたいな話になってしまいました。

条件は一つで、「教科書に書いてある内容をそのまま、あるいは、教科書に書いてある内容から正解を導ける問題を作ること」でした。

同学年の生徒全員が私の作った問題を解くわけですから、私も気合を入れて、色んな工夫を加えながら問題を作ったのを覚えています。

その結果出来上がったのは、皆さんご想像の通り、いたずらに難しい問題になるわけです。気合を入れて、工夫を凝らしたりすると、ほとんどの場合、受験者のレベルを度外視した碌でもない問題が出来上がるのは世の常です。

新司法試験の初期(サンプル・プレ・第一回あたり)はその身近な実例でしょう。

 

●何の話をしたいのかというと、試験問題というのは、その向こう側に生身の人間がいるということです。当り前じゃないかと思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか。皆さん、試験というと何だか客観的で無機質な「制度」のようなものが向こう側からやってくるように考えていないでしょうか。

 

●知識問題ばかりの教科ですら、過去問を完璧にしていると必要以上に得点できてしまうという「謎」としか言いようのない先ほどの現象は、やはり繰り返し過去問を解く中で、出題者の思考パターンやクセといった表面的に認知できる以上の潜在的な「情報」が入ったからだとしか解釈できません。

 

 

 

受験指導ふたたび

 

●中学受験に話を戻します。

もうひとりも、兄と同じB校を第一志望にすることになりました。勉強方法はもちろん過去問ぐるぐるです。

彼女は兄貴よりも多少出来がよく、模試の成績は「合格可能性50%」が2~3回、たしか一度は60%を叩き出すという優秀さでした(といっても半分以上は40%以下でしたが)。

すでに上の子の経験があるのでもうこれだけで100%受かった気になってしまいますが、通常はこの成績でようやく「受かるか受からないか五分五分」といったところかと思います。

 

●春。もちろん結果は合格でした。これが過去問主義の力です。

過去に出題された問題がすらすら解ければ、本番の問題も解けます(しつこい)。

 

●どうやら(ぐるぐるし過ぎて)入試の順位が一桁台だったようで、保護者が初年度からよく分からない「なんとか委員」のようなものをやらされる羽目になってしまいました。親がその委員をやってると子どもが一桁合格であることがバレてしまうので、しばらくの間「○○ちゃんってすっごい出来る子なんだよね」みたいな事実誤認が蔓延ることになりました。

 

●もちろん一桁合格は過去問主義というドーピングのなせる業でしたから、入学以降、彼女の成績はどんどん下降していき、「出来る子」という称賛(誤解)は次第に「出来ない子」という陰口(正解)に置き換わっていきました。

しかしまあ、これもまた過去問主義の力なのです。

 

●その後、大学受験か近づいてきて、「中学受験のリベンジ」をしようかという話にもなったのですが、結局二人とも(付属校なので)そのまま内部推薦で大学に進学する予定です。

 

●こうして、私の試験に対する切迫した関心はとりあえず活動休止を迎えました。

試験からは多くのことを学びました。何より、私は試験という制度が大好きでした。

 

 

 

 

過去問主義の(とりあえずの)総括

 

過去問主義は万能ではありません

過去問の問題と答えが読めない場合、過去問主義は実行できません。その場合は、諦めるか、(もし時間があるなら)私の嫌いな(かどうかはどうでもいい)「積み上げ型学習」から始めるしかなさそうです。

ようするに、「弁護士になりたい」というイラン人には、とりあえず日本語のマスターから始めてもらうしかない、というのが(あくまでもとりあえずの)私の考えです。

 

●ちなみに、「もっと上手な指導者ならもっと上手にできたんじゃない?」という台詞は言ってはならない、というのが私の比較的強めの主張です(もちろん言ってはならないだけで、そういう指導者が存在するならそれはそれで素晴らしいことです)。

なぜかというと、方法論とは、そういう個々の指導者の「上手いor下手」とは独立した客観的な武器(マニュアル)として、いつでも誰でも使える形で世界に置かれていなければ本質的に用をなさないからです。

 

●もっとも、このことを司法試験で積み上げ型を採用する言い訳にしてはいけません。

司法試験の問題と解答を読めないなんて人はほとんどいません。もし現時点で読めないという人がいるなら、その人は「向いていない」人です。それでもやりたいというならやってもいいですが、私はおすすめしません。

 

過去問主義の意義

過去問主義は万能ではありません。

いくら教えても過去問が読めるようにならない子どもを御三家に入れることはできないし、いい歳して満足に漢字も読めないロースクール生(←実際にローにいた)を弁護士にすることも(少なくともそのままでは)できません。

 

●しかし、

過去問主義が、その人のその試験に対する得点力を最大化する

のは(最低限)確かなようです。この点だけは保証できます。

 

●過去問主義で受からない人が、その他の方法なら受かるなんてことは(その人が過去問主義とよほど相性が悪いのでなければ)ほとんどあり得ないでしょう。

過去問主義が、あなたを合格の一番近くまで運んでくれることは間違いありません。

 

 

 

 

「伸びる時期」と成功体験

 

●私は、積み上げ型学習の「急がば回れ」的発想には基本的に反対です。

ですが、それとは少し異なる↓以下の2つの一般論には意味があると思っています。

 

●一つは、人にはそれぞれ「伸びる時期」があるということです。

特に子どもなどは、1年前には何もできなかった(言ってる意味すら理解できなかった)ことが、たった1年待つだけで難なくできるようになってしまうことがよくあります。成人以降でも(広い意味でいえば)こういった現象は中年期くらいまでは普通にみられます。

たとえ今できなくても、時機を待つことでできるようになることは結構あるのです。

 

●もう一つは、成功体験です。

たとえば私は、「司法試験合格のために、まずはそれより易しい行政書士試験にチャレンジすることが一見回り道のようで近道だ」みたいな考え方には(さんざん述べてきたように)大反対です。

積み上げるのではなく、目的そのものに向き合うことが、正しい考え方であることはブログに書いてきた通りです。

 

●しかし一方で、

①司法試験など夢のまた夢であるような「能力」(←他に表現しようがない)の人

②そもそも何かに合格したり、不合格になったりといった経験すらしたことがない人

③普通に司法試験に合格するような人の「普通」がどういうものか想像すらできない人

etc…が、突然一念発起して人生の一発逆転を賭けて司法試験に参入(突入)してくることには大いに違和感があります。こういうタイプの人はほとんどが受かりません(多くの人は受験まで到達することもない)。

 

●そういう類の人に「目的とするものと同じことをしなさい」と言っても、そもそも彼らは「目的とするもの」を「する」ということが、一体どういうことをすることなのかが実のところ何も分かっていないので、彼らが彼らの頭の中だけで勝手に想像した(自分にとって都合のよい)「する」をするだけになるのです。

 

●(高校時代の思い出)

高1のときだったでしょうか。ある地元の大して有名でもない予備校の夏期講習にうっかり参加してしまったときの話です。私は平凡な公立高校の生徒でしたが、もちろん「平凡」とはいっても学区内ではそれなりの(東大に入る奴もまあ一応はいるよねくらいの)高校ではありました。

その予備校の夏期講習には、学区でも真ん中以下の高校の生徒が多数来ていました(ちなみに私の時代の「真ん中以下の公立高校」というのは、その高校の生徒の大半が大学に行かない・行けないことを意味していました)。

 

●授業開始前、その、高校受験の偏差値45くらいの学校に通っている生徒3人(A・B・C)が↓こんなことを話しているのが聞こえてきました。

A「早稲田とか慶応とかってさ、俺たちでも頑張れば行けるのかな」

B「俺たちじゃ無理だろー。ああいうとこ行くのは○校の奴らとかだろ」

C「でもさ、浪人とかして、そいつらより長く勉強すれば行けんじゃないの?」

A「そうだよ。○校の奴らより1年とか2年長く勉強すればいいだけだよ」

B「えぇー、俺は慶応入れるんだったら、1・2年遅れても全然いいけどな」

C「そうだよ。浪人して行けばいいんだよ」

 

●その後、3人は、「浪人」という当時ではむしろそうしなければ早慶なんて行けないのが当然だと思われていた「方法」について、まるで今まで誰も思いつかなかった斬新なアイデアをゼロから創造したかの如く興奮しながら、

「じゃあ俺は早稲田に行く!」「俺は慶応かな。だってなんかカッコいいじゃん」

みたいな話で盛り上がっていました(←これ、ほんとの話ですからね)。

 

そもそも、「浪人」という既存のワードを使って「創造」(妄想)をしている時点で、自分たちの会話の矛盾に気づいてもよさそうなものですが…。

 

●なぜこういうことになるか。

それは、彼らが人生で何もやったことがないからです。

試験で合格とか不合格とかそんなレベルで「やる」必要はありません。中間テスト程度でもいいのです。たった1週間でもいいから、何かを真剣にやったという経験が、その結果、成功or不成功に至ったという経験が、人生で一度もないことが、彼らの「素っ頓狂発言」の原因です。

こんな具合だと、何を考えてもすべてが妄想にしかなりません

 

●このABCによく似た司法試験受験希望者を(Twitterなどで)稀に見かけます。こういう方には、是非とも(たとえば)行政書士試験あたりから始めてみることをおすすめしたいです。

ここで大事なのは、行政書士試験(合格)は、けっして司法試験の「前段階」「準備段階」ではない、ということです。そういう風に「積み上げ型」のプロセスとして位置づけてはダメです。

そうではなくて、行政書士試験それ自体を目的とするのです。そうやって行政書士試験そのものに向き合い、その目的を完全に達成するべく努力するのです。

 

●その結果得られるのは、司法試験に向けた法学的な準備ではありません。

ここで得られるのは、何かを目的に据えて、その目的に向かって努力をした結果、その目的を達成することができたという成功体験です。

言いかえると、何かを妄想ではなく現実に(←ここ大事)やってみたという経験です。

 

●司法試験にあっさり受かるような類の人は、人生で(細かくみれば)こういった体験を何十回と繰り返してきています。どこかで書きましたが、こういう類の人は、たとえば運転免許証試験さえ目的達成のためのタスクと見做したりします。

彼らが「強い」のは当たり前です。彼らは司法試験だけに強いのではなく、ありとあらゆる試験的なものに強いです。それは、このような(大量の失敗を含む)成功体験の蓄積ゆえなのです。

 

 

 

 

どうでもいい話

 

●雑感①で書いた日本○○が、私の予想(期待?)通りの成績でペナントレースを終えたことは素直に嬉しかったです。個人的には2022年の救いのひとつでした。

ふざけたことを言って(やって)いる人や組織が、正当にふざけた結果を得ることに、私たちは(公正という意味での)正義(ある種の真っ当さ)の感覚を覚えますが、現実にはなかなかそうならないことも多いので。

 

●日本○○というと思い出すのは、このチーム、昔は本拠地が東京だったんです。

かつて巨人ファンだった私は、幼い頃、両親に連れられて生まれてはじめてプロ野球(巨人戦)を観に行きました。もう相手チームがどこだったかも覚えていません。

ただひとつ覚えているのは、客席番号の下何桁かが何番とかだと「当たり」みたいな宝くじ的な企画があって、それに当選したことです。球場に当たり番号が表示されたときは、飛び上がるように喜びました。

 

「ジャイアンツグッズが貰える」 そう思いますよね、普通。子どもでなくったって。

ところが、試合終了後、所定の受け取り場所に行って出てきたのは、「ハム」でした。

ハムです。人生であれ以上にデカいのを見たことがないレベルのハムです。もちろん縛られてるやつです。憧れのジャイアンツの試合に初めて来て、いきなり「当たり」が出て、それで貰ったのがハムです。

「なんでハムなんだ!」 親に抗議しました。親は「本拠地がどうこう…」とか言っていましたが、子どもの私にはよく理解できませんでした。

 

「巨人戦で当たりが出て、ハムが出てきた」というこのエピソードは、今でも忘れられない子ども時代のちょっとしたトラウマとして記憶されています。

 

●日本○○の監督の話に戻りますが、日本に限らず世間の人々は、往々にして外形的パフォーマンス(今の言葉でいえばブランディング)ばかりに気を取られて、その人の本質(内容)を見ようとしません。

この監督には、本当に独自な(創造的な)ものなど一切ありません。その目を引く外見や言動からいったん目を離して、彼の言っている内容それ自体をよく聞けば、彼の思想(なんてものがあればですが)や言動が、戦前の修身から戦後の道徳教育に代表される、日本の近代教育の最大公約数によって作られていることが分かります。

 

●一言でいえば、積み上げ式の精神論(戦前)と、中身のない個性礼賛(戦後)です。

真に個性のある人間は、特に個性的になろうと色々いじくらなくたって、自ずと個性的になってしまいます。この「なってしまう」ことこそが個性の本質であって、外形をいじくりまくって個性を「演出」することは何も個性的なことではない。私には、彼のあの奇抜な外形は、彼自身の凡庸な中身(積み上げ式精神論)を覆い隠すためのコーティングにしか見えません。

 

●さっき、「かつて巨人ファンだった」と書いたのは、もちろん今は違うからです。

長嶋さんという(私は現役時代を知らないし、正直どうでもいい)かつての大スターが、かつては大スターだったという理由だけで、指揮官としての無能さを一切問われず監督に居座り続けたことに耐え切れなくなり、気がついたときには大好きだった巨人が大嫌いになっていました。

 

●私は試合をしっかりと見ていたので、たとえば彼がある若手選手を、他の監督なら絶対にやらないような非情な方法で制裁(ようするに公開処刑あるいは見殺しに)し、再起不能にしたことなどをよく覚えています。

 

●このときは解説の(ジャイアンツ関係者の)堀内氏も、さすがに「こんなことをしたら、この選手は二度と立ち上がれなくなりますよ」と(抑制的ながらも)怒りをあらわにしていました。

でも、「ミスタージャイアンツ」は、何をしても許されるのです。

私には堀内氏の言葉(怒り・警鐘)は痛いほど伝わりましたが、普段からジャイアンツファンを名乗っていた人たちは、その時どう感じていたのでしょうか。是非聞いてみたいところです。

私が想像するに、きっとこういうとき、彼らは「聞いていない」のです。自分にとって都合の悪い話は、上手に(卑劣に)スルーしているのです。

政治に限らず、党派性は常に人を盲目にします

 

●私は、彼のネームバリューや個性的とされるキャラクターに興味はありませんでした(もっとも、さすがに長嶋氏には「個性的」と言わざるを得ないキャラクターは存在したと思います)。

私は、そういう外形ではなく、あくまでも指揮官としての采配(内容)を見ていました。

彼が言われるほどには人間的に魅力に富んだ人物ではなく、指揮官としても無能であることは、試合をしっかり見ていさえすれば自明でしたが、ほとんどのジャイアンツファンにはその現象すら認識できていなかったと思います。

 

●以上、雑談でした。

私が「党派性」から離れて内容しか見なくなったきっかけのひとつです。

 

 

 

 

ロースクール制度の不当性

 

「党派性」で思い出したので、最後にもう一度だけ、ロースクール制度が如何に不当なものかをきちんと確認しておきたいと思います。

 

●ロースクール制度が正当といえるためには、何らかの一般的に通用するメリットが言えなければなりません。

 

「私にとっては良かったんです乙女のトキメキ

↑こんな台詞をいくら言ってもダメです。こんな一般化できない個人的意見をどれだけ集めたところで、そんなのはまさに「それってあなたの感想ですよね」にしかなりません。

 

●「私にとっては良かったです」なんて、親から裏口入学のお金を出してもらった学生が、

「裏口入学という制度を悪く言う人がいるけど、私にとっては良かったもんねー」

と言うのと構造的には何も変わりません。単にローは合法なだけマシというだけです。

 

●いくつか検討してみましょう。

ロースクールが出来たことで、よりお金がかからなくなったか ⇒×

ロースクールが出来たことで、より時間がかからなくなったか ⇒×

ロースクールが出来たことで、より多くの人に門戸が開かれたか ⇒×

ロースクールが出来たことで、撤退を自己決定できるようになったか ⇒×

日本のような(歪な)ロースクールが他の先進国に存在するか ⇒×

 

●公平にも探してみましょう。

ロースクールが出来たことで、大学は得をしたか ⇒

ロースクールが出来たことで、大学(教授)が好き勝手できるようになったか ⇒

ロースクールが出来たことで、貧乏人を排除することができたか ⇒

ロースクールが出来たことで、金持ちを有利にすることができたか ⇒

ロースクールが出来たことで、撤退を強制できるようになったか ⇒

 

●一番最後のだけが、私がかろうじて「ロースクールの意義」をみとめるところです。

いささかパターナリスティックな発想ではありますが、たしかに司法試験も法曹の職も、人生を賭けてまで手に入れに行くものではない(そのように考えてはいけない)と思うので、個人ではなかなか決断することができない撤退を強制できる制度が存在すること自体は必ずしも悪いことではない、と考えることは(一応は)できると思います。

 

●なお、

「ロースクール制度の意義(教育内容)が検討されてないじゃないか」

「それ以前までの制度(旧司)の弊害が検討されてないじゃないか」

と文句を言いたくなった方は、(そんなに長くないので)↓これを読んでください。

(一番下の、【人間の党派性と誤魔化しの一考察】 のところだけで結構です)

 

●読むのが面倒な方のために以下要約すると、

(様々な不公平性の塊である)ロースクール制度が、それでも正当と言えるためには、

①その制度がなければ、十分な適格性を備えた法曹を養成するのは難しい

ということが(あくまでも「あなたの感想」ではなく一般論として)言えなければなりません。

 

●そして、それが言えた場合、論理必然的な帰結として、

②その制度ができる前の制度(旧司)は、①を欠くため、ダメな制度であった

ということが(少なくとも傾向的には)言えるはずです(←言えなければおかしい)。

実際、①と②は本当によく聞かれる台詞です。

 

●ところが、ですよ。その①②から(またまた)論理必然的に導かれざるを得ないはずの、

③したがって、旧司で合格した法曹の多くは、法曹の適格性を欠いたダメな法曹である

という台詞は、「ふざけるのもいい加減にしろ」と言いたくなるくらい全然言われていません。

 

●もっと簡単にいえば、旧司組の先輩法律家たちに向かって、正面切って

あなたがた旧司組は、法曹の適格性を欠いた人が多いですね

と言い放った人を私は知りません。

 

●…もちろん、↑これがどれほど意地の悪い指摘であるかは私も承知しています。

他ならぬ皆さんこそが、本当はそんなこと1ミリも思っていない、ということを私もよく知っているからです。

 

●まあ、ようするに一言でいいますが、皆さん、自分が強く関わったものを、自分が強く関わったという理由だけで、無闇に擁護しすぎなんですよ

ほんと、体制順応すぎて気味が悪いです。

 

●今回はロースクールの話ですが、人生の大事な場面で↑こういう態度に傾いていく人間は、実際は「今回」に限らず、人生の様々な場面でこういった「阿り」を繰り返します。

日本の弁護士さんには広義の「野党精神」を持った方が多いですが、しかし性根が↑こんなんだから、力の大きいものが寄ってくるとすぐそれに取り込まれるんです(別に弁護士に限らず日本人はみんなそうなんで安心してください)。

出羽守は私も嫌いです。しかしここは断言してもいいですが、たとえばアメリカで同様の制度改悪が行われたとしたら、学生から、弁護士から、そして大学教授からだって、もっとはるかに大きな声が上がったはずです。日本人みたいに唯々諾々と黙って従いはしなかったはずです。

 

●もちろん、声を上げたところで現実(制度)は変わらないでしょう。それが普通です。

社会には完全にイノセントな制度なんて滅多にありません。ほとんどの制度が、矛盾を孕んだ、特定の人や組織の利益のために(も)ある、多分に不当なものです。それは仕方がない。

 

●それは仕方がないですが、しかし、そんなものに「自分が強く関わった」という理由だけで、いちいちいちいち「私には良かったです!」「良かったんですっ!」「先生!」なんて阿っていたら、それはもうほとんど「地上の楽園」と変わらないじゃないですか。

 

●矛盾があるのは普通のことだし、不当な制度から利益を得ることがあるのも仕方ありません。この俗世界を生きる以上、誰もが何らかの利権の内側にいて、そこから何らかの利益を享受している。そういうものから完全に自由になることはできません。

しかし、それに「おかしい」とツッコむことができなければ、現実は永遠に止揚されません。

 

●問題なのは、おかしな制度がある(出来る)ことではないのです。

(そんなものは、100mも歩けば3つくらいは見つけることができるでしょう)

 

●問題なのは、どこからどう見てもおかしい制度を、(あなたが)正しく「おかしい」と、社会正義を実現すべき弁護士になってまで、つまりは、ロースクールの拘束から解放されてまで(←ここが一番大事)言えないことです。

 

●言っておきますが、これは普通の意味で洗脳ですからね。

 

 

 

 

試験が好きだった理由

 

●なぜ私が試験が好きだったのか。

どこかで書こうと思っていましたが、やっぱりこの流れで書くのが一番いいかなと思います。

 

●理由は単純です。

日本の(諸々の)試験ほど、客観的で公正な制度はないからです。

外国人からみても、日本の試験制度ほど平等なシステムはない(少ない)ようです。

 

●私は必ずしも試験が得意な人間ではありませんでした。いえ、必ずしも・・・ではなく、ほとんど人生を通して、私はむしろはっきりと試験に弱いほうの人間だったと思います。

 

●しかし、私にとっては、人生を通して客観的な試験(入学試験や予備校の模試など)よりもずっとずっと不得意(苦手)であり続けたものがありました。

それは、学校教育制度内における教師からの評価です。

 

●もう少し具体的にいえば、学校の通知表の成績・・・はまだマシとして、散々だったのは教師からの(主観的)評価です。小中高の12年間を通して(極めて稀な例外を除いて)私は教師たちから一貫して嫌われていました。

 

●もちろん、思い返せば私にも大いに問題はありました。

まず、このブログで何度も書いてきた通り、私は生来の(正真正銘の)怠け者でしたから、小学校から高校まで、授業を「聞いた」という記憶がほとんどありません。当てられたらその場でアドリブで答えるだけで、授業中はずっと脳内映画(?)を鑑賞しているか、教科書などにひたすらマンガを書いているかでした。

中間・期末テスト前の3日間くらいを除いては、家で勉強をした記憶もほぼありません(ただそんなのは一般的な日本人としてはごく普通だと思うんですけどね)。

割と細かい性格でしたし、倫理的に不真面目だったわけではないので、遅刻や欠席や忘れ物や素行不良などはほとんどなかったのですが、こと勉強に限っていえば、学校生活全般を通じてほぼ何もしていません。

 

●不真面目というよりも、より正確にいえば「生命力」を欠いた人間でした(まあ今に至るまでずっとそうですが)。子ども(青少年)に特有の生命力がないので、学校生活においても、教師が好きそうな(大人の目に分かりやすくそれとして映るような)「生徒らしさ」のようなものがカケラもなく、そのことが更に教師の不興を買う原因になったと思います。

 

●私にも、たとえばロースクール制度なんかに阿ってみせる能力(=忖度力)があればよかったのですが、不幸にも私にはそんな風に都合よく自分を騙すことができるようなハイスペックな「能力」は備わっていませんでした。

 

●中3のとき、通っていた中学にあった「説教部屋」と呼ばれる問題児が生活指導を受ける場所(⇒いつもはただの茶室)に、(元)担任から呼び出しをされたことがあります。

過去、この説教部屋に呼ばれたことがあるのは、バイク(←ここでアウトだろ)で事故った子、万引き、シンナー、売○(援助○際という言葉はまだなかった)、走行中の電車に爆竹を投げ入れた子(←このあと少年院に行った)、夜の校舎窓ガラス壊して回った15歳(笑)etc…多彩な顔触れの生徒たちでしたが、いずれもいわゆる「問題児」たちです。私のような素行に(全く何も)問題のない生徒が呼ばれるのは異例でした。

 

●説教部屋からクラスに戻ると、学校の番長(←当時はこんなのがまだいた)から、

「○○(←私の名前)、お前、いったい何やったんだ」

と直々に訪問…というか弔問…というか尋問(?)を受ける名誉に与りました。

 

●説教部屋で何度も何度も繰り返し言われた台詞は↓これ(だけ)です。

「○○(←私の名前)、お前、もうちょっとどうにかならないのか」

 

●「もうちょっと?」「どうにか?」・・・???

サンドウィッチマンじゃないですが、私には「ちょっと何言ってるか分かりません」でした。

学校の評価が悪かったといっても、成績は400人中30番くらいでしたし、(業者や自治体が行う)より客観的な試験だと10番くらいでしたから、私自身の素行の問題のなさを併せて考えると、私が特に狙い撃ちされる理由など、どこにもないとしか考えられませんでした。

 

●もっとも、この(元)担任の先生に対しては、(ただただ私に対する不快感を露にするだけの教師が多かった中で)私に対する教師一般の不満を何とか言語化しようと努力してくれたという点では感謝をしています(ただ、もうちょっと実社会の観点から具体的に言ってほしかったな)。

 

●ちなみに、この「説教部屋」のエピソードを後に中村さんにしたのですが、意外にも中村さんには「すっごい分かる」と言われてしまいました。

私には私自身の人生全体(つまりは学校にいないときの私)が教師に見えているはずがない(見えてたら超能力じゃん)と思っていたのですが、家庭教師等々の経験が豊富な中村さんが言うには、「目の前にいる生徒が、目の前にいないときに何をしているか or していないか、そういうことを含めて教師には見えている」のだそうです。

私も大人(?)になり、まあたしかにそういうものなのかな、と今や思えるようになりました。

 

●思い出話を書いていたら話が壮大に逸れました。

ようするに、学校教育時代を通して私が教師に嫌われ続けた理由は、極度にやる気がなく、実際ほとんどやっていないにもかかわらず、しかしまあまあ成績上位な生徒だったからです。

教師にとって、こういう生徒ほど気に入らない存在はいません。

 

学校という社会では、求められるのはプロセスであって、結果ではない

↑これが、私が学校教育で学んだほとんど唯一の知識です。

 

●試験の話に戻りますが、やる気のない人間が試験に強いはずがありません

なので、別に私は、試験に強かったから試験が好きになったのではありません。

そうではなくて、試験の客観的側面、つまりは試験の点が高かろうと低かろうと、ただ結果だけを評価してくれるという試験のもつ風通しのよさ(透明性・公平性)が、(教師の主観的評価によってずっと辛い思いをしてきた)私には救いだったわけです。

それが私が試験が好きだった理由です。

 

 

 

 

中村さんの思い出 ~その二~

 

●論文不合格をきっかけに覚醒し、驚異の1日20時間勉強を開始した中村さん。

ちょうど秋から冬にかけての3ヶ月くらいの間、(勉強会ではにこやかな顔をしていたものの)やってること自体を冷静にみればそれはほとんど狂気の沙汰と言ってもよく、この間の中村さんの集中力には尋常でないものがあったと思います。

 

●私は特に具体面で付き合えることはないので、たしか一緒に答練の問題を書いたりしていました。私の答案スタイルは「極限まで短く書く」というもので、このブログと正反対…。

対する中村さんは(急激な実力の向上もあってか)もの凄い早さで全ページを埋めてしまうことが多かったように記憶しています。

 

●この時期は特に民訴・刑訴を中心にやっていました。

いちおう2人の答案スタイルの違いが鮮明だったので、比較対象にはなったかな…と思いたいところですが、まあ正直そんなに役に立てたとは思っていません。

 

●あるとき、ふと中村さんが自分の(盛りだくさんな)答案を評して、「なんか僕、ベテ化してきてるような気がする」と(反省気味に)呟いたのを印象深く覚えています。

答案を長く書いて「反省」する人がいる、という事実に軽くショックを受けました。

 

●ともあれ、この時期ほぼ文字通り「狂気」の如く徹底的に訴訟法を詰めたことが、中村さんのプロセス重視の方法論(4段階アルゴリズム)を生みだしたのではないか、と私は勝手に思っています。

 

●年明け。

中村さんの怒涛の勉強三昧に終止符が打たれる時がやってきます。

冬の寒い気候で、中村さんが風邪を引いてしまったと記憶しています。

たしか勉強会もお休みしたような。いずれにしても年末年始でしたし、ここでふわっと一息ついたことで、これまでの溜まりに溜まった疲れが一挙に放出されたのだと思います(というか放出されなかったらヤバかったと思います)。

 

●年明け最初の勉強会…の昼食の席(@今はなきシェーキーズ高田馬場店)

中村さん(N)は3ヶ月前とは打って変わって力なさげ(目も虚ろ)でした。

私「風邪は大丈夫ですか?」

N「あぁ、風邪はもう治りました。今日は相談があって…」

私「なんですか」

N「えっと、僕、司法試験やめようと思って

私「・・・(うわー、いきなりぶっこんでくるなぁ)」

 

●ランチは突如緊迫の場に

私「(こういうときはいきなり結論めいたことは言わないことにして…)」

 「やめてどうするんですか?(ここはとりあえず質問が無難だろう)」

N「働きたいです。大学受験の講師とか。ぼく天職だと思うんですよ」

私「そうですよね。でもなんで司法試験の講師じゃダメなんですか?」

N「今すぐに講師やりたいんですよ」

私「(それ、理由になってるか?)」

 「でも、せっかくこんなに勉強してきて、今やめたらもったいなくないですか?」

N「正直、いま法律を見るのも、考えることさえ嫌なんです」(辛そうな顔)

私「勉強なんかしなくていいじゃないですか(←よし、ここは私の得意分野)」

N「・・・・・」

私「いったん勉強から離れて、もし続けたいと思ったら戻ってくればいいし、戻りたくなければそのときは駿台でも河合でも行けばいいじゃないですか」

 

●…という感じで「今日この場では結論は出さないでいったん保留する」という自殺志願者への対応マニュアルみたいな返しを知らぬうちにしていました。

 

●結局、ほどなくして中村さんは受験勉強に復帰し、とりあえず事態は落ち着きました。

その後は、20時間とかそんな破滅的な勉強はしなくなったようです。

 

 

 

 

自由意志か決定論か

 

●このブログには、

人間の自由意志を尊重し、人は方法と努力によって目的を達することができるとする面と

決定論的人間観を強調し、人はなるようにしかならないと主張する2つの面がありました。

最近の流行は圧倒的に②なのですが、私がどちらかといえば①のほうを多く語ってきたのは、「②でファイナルアンサー」と簡単に言い切れてしまう人に対して、どうしても言っておきたいことがあったからです。

 

●それは、「中村さんの思い出~その二~」の続きで言うなら、こんな言い方になります。

「自分を根底から否定するほど勉強方法を見直して、1日20時間努力して、それでも受からないっていうなら、そのときは、人はなるようにしかならない(②)って認めてやるよ」

 

●逆にいうと、「あなたがそこまでやっていないのであれば、あなたがこの勝負を降りる際に、私には最初から受かる能力がなかった(②)なんて口が裂けても言ってほしくない」

ということです。

 

●やめてもいいんですよ。嫌になったらいつでもやめればいい。私はそう思っています。

でも、それは単にあなたが司法試験に愛想を尽かしたから(あるいは結局のところ本気で受かる気がなかったから)なのであって、あなたに「能力」がなかったからではない

このことだけはきちんと確認しておきたいです。

 

●私なんか、自分がローで1日5~6時間、2~3年も勉強すれば絶対受かってたよな…と今でも(揺るぎなく)思ってますからね(思うのはどこまでも自由クローバー

 

●…私のことはいいんでした。

要は、今回の思い出話を読んで、優秀とされる人がなぜ優秀であるのかを、最後にもう一度だけ真剣に考えていただきたかったわけです。

そのことを少しでもお伝えることができたなら、これほど嬉しいことはありません。

 

 

 

 

中村さんの思い出 ~その三~

 

●中村さんが修習生のときの話

修習生になっても、中村さんは時間をみつけては勉強会に顔を出していました。

ある日、私は伊藤塾の論文マスターの解答例をレジュメ化するという「勉強」をしていました。

具体的にいうと、解答例を(もっとシンプルに&解答例の構造・流れがよく分かる形で)自分の言葉に置き換えながらルーズリーフ1枚にまとめ直していたのです。

 

●ようするに、

・問題を読んで→答案構成をして→答案を書く、という通常の作業ではなく、

解答例を→答案構成のような形に書き直していた、のです。

つまりは、解答例(の主要部分・枠組み)を理解・記憶するような勉強法です。

 

●このやり方で1科目あたり数十問を理解&記憶して、自力で答案を書く足掛かりにしよう。

私はそう考えていました(ロー入試ならこれで十分いけると思いますが)。

私は知識がないことが不安(コンプレックス)だったので、このやり方で手っ取り早く全科目の論文知識を覚えてしまおうと考えていたのです。

 

●横にいた中村さん(N)が突然怒り始めました。

N「何をやってるんですか!」

私「あ、いや、答案が書けるようになるには最低限知識が必要だと思って」

 「それに、知識を仕入れるのも答案それ自体を使ったほうがいいでしょ(過去問主義!?)」

N「NOAさん…何もかも間違ってます。根本から間違ってます」(頭を抱えている)

 「解答例は、答案(構成)を書いた後に読むんですよ。先に読んでどうすんですかっ」

私「でも、私には答案なんて書けないですよ」

N「ほんとですか?」

私「ほんとですよ」

 

●中村さんは「ふぅ~」とため息をついた後、カバンの中から過去問を取り出しました。

N「じゃあ、この問題を読んで、解いてください」

私「(解けない…っつてんだろ)」「あーいやー」

N「思考過程を口で言っていってもらえばいいですから」

私「え~と。まず、この問題の論点は・・・○○って論点なかったでしたっけ?」

N「そうじゃないんですよ!論点なんてどうでもいいんですよ!」(このとき怒りMAX)

私「でも、論点知らなかったら、合格答案は書けないじゃないですか」

N「へぇ~そうですかねー」(今度は笑っている)

 

●私が「解かされていた」のは刑法の過去問でした。

N「NOAさんが検察官なら、甲をどうしたいですか?」

私「そうですね。死刑…じゃなくて殺人罪(199)にしたいかな」

N「じゃ199条が成立するか検討していきましょう。刑法の解き方の手順は知ってますよね」

私「論点は知らないけどそれなら分かります。実行行為、結果、因果関係…とかですよね」

N「それでは、その手順で事案を検討していってください」

 

●数分後、処理手順に従って一つ一つ事案を検討していくが、最後につまづく。

私「いろいろ考えましたが、やっぱりこのケース、因果関係認めるの難しくないですか?」

N「あぁ、いいですね。その場合どうなります?」

 

●本当はもうちょっと詳細なプロセスを説明したいところですが、(路線変更して)今度は殺人未遂罪に繋がるルートを(答案表現っぽく)中村さんに口頭で伝える。

N「はい。合格です

私「は?」(なに言ってんだ?)

N「本試験でも未遂ルートの合格答案はいっぱいありましたから、これで合格答案です

私「いやいやいやいや。これで合格なんだったら、知識ゼロで受かっちゃうじゃないですか」

N「そうですよ?(得意げな顔)。特に論文は、知識ゼロでも合格答案書ける人はいますよ」

私「いやいやいやいや。それじゃ何のためにみんな論証集とか…

N「だからそういうことじゃないんですよ。既遂とか未遂とか、規範とか論証とか、そういうのは派生的なことに過ぎないんです。今回やったように処理手順を1コも飛ばさずに丁寧に事案と突き合わせて検討していって、その過程を結論まできちんと一本の筋として表現できれば、それで合格なんです。そこが難しいだけなんで、逆に簡単な人には簡単なはずなんですよ」

 

●このとき検討した問題が、司法試験の論文試験の中でも最も知識を必要としない(と今や私も思っている)刑法の問題であったという点を割り引いても、↑このエピソードはどうしても皆さんにお伝えしておきたかったです。

できれば、実際の講義やガイダンスなどで、皆さんご自身で実感していただきたいです。

 

●このとき私が受けた衝撃は、この短い回想ではなかなか伝わらないかもしれません。

しかし、この日を境に、私も(中村さんと同様に)司法試験の本質が知識ではないことを完全に理解するに至りました。

 

●同時に、過去問の真の重要性(過去問という教材の本質)を完全に理解したのも、間違いなくこの日だったと思います。

 

 

 

(雑感② おわり)

 

 

⇒雑感③へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※この雑感③は、2023年末に書かれたものです。

 

 

すでに起こった未来

 

●P.ドラッカーに『すでに起こった未来』という本があります。

現在の中に、すでに現れている未来がある、という話です。ようするに、多くの人が気づいていないだけで、すでに現在になってしまっている「未来」がある、ということです。

現在をよく観察すると、多くの人に見えていない「未来」が、すでにその姿を現しているということが確かにあります。

 

●しかしその一方で、すでに現在になってしまっている「未来」を正しく捉えることができない人々が(もちろん私を含めて)大量に存在することもまた確かです。

 

 

 

現在の「実感」と現実の価値との乖離

 

●たとえば、東京大学の価値について考えてみましょう。

「東大」と聞いたときに感じる世間一般の実感体感的価値)は、私の親の代からほとんど変化していません。しかし、これは本当はとてもおかしいことです。

 

●私が高校生の頃に読んだ本の中に↓こんな一節がありました(再現は適当です)。

「もし君が将来ノーベル賞を受賞するような研究者になりたいのであれば、東大か京大に行くしか選択肢はない。それ以外の大学へ行けばノーベル賞の可能性はない」

 

●↑これは、今も現役で活動する著名な評論家が(20世紀の終わり頃に)書いたものですが、今から振り返ると実にふざけた文章であったとしか言いようがありません。

よくもまあこんな学生の未来の可能性を先回りして摘むような「嘘」を断定的に書いたよなぁ…と今となってはそんな気分です。

 

●しかし、当時(90年代)の私はこの本を読んで、「それはその通りだろうな」と思っていました。だって、当時の日本で現実にノーベル賞を受賞していた人たちは、たしかに全員が東大・京大の出身者だったわけですから。その時からすぐあとに(2000年以降)東大・京大が全体の少数派になる時代が来るなんて、当時の私には想像もできませんでした。

 

●しかし、ここからが大事な話ですが、潜在的な次元では、もうこのときすでにノーベル賞級の研究が、他大学出身者によって(早ければ1960年代、70→80年代と進むにつれてより)大量に行われていたということです。

かつて東大が実際に手にしていた絶対的と言ってもいい地位は、遅くとも1980年代にはすでに(分かる人には明白な形で)終わっていたのです。

 

●そして、さらに大事な話をするならば、実は、上記の事実はちょっと調べれば誰にでも分かることだったということです。少なくとも80年代には(真剣に調べれば)文系のド素人でも分かったはずです。

 

●思想家とか評論家とかを名乗っている人たちが、こういう「ちょっと調べれば誰にでも分かること」を、ちょっと調べてみることさえせずに、ただ彼の中にある実感」だけで書いていたんだなぁということを後に知り、私の(特に文系の)知識人に対する信頼が一段低下しました。

 

●何を言いたいのかというと、「東大王」とか「東大式○○」とか、「ドラゴン桜」とかを含めてもいいですが、現在のメディアが煽り立て、一般人が「実感」している東大信仰は、当の昔に賞味期限が切れたものだということです。彼らは(どんなに控えめに言っても)数十年前の人々の「実感」に基づいて現在の東大を評価しています。

 

●つまり、彼らが「実感」している東大など、もう既にこの世のどこにもないのです。

彼らは半世紀以上前の東大(あるいは戦前の東京帝国大学)に存在していた価値を現在の東大にそのまま当てはめ、それを「現在の東大の価値はこんなに高い」と信じているだけなのです。

 

●東大云々はただの例です。

こういった現在の「実感」現実の価値との乖離は、世界の至るところに見られます。

 

●なんとなく思うのですが、人の不幸の(一つの)原因は、この「乖離」(が正しく認識できないこと)にあるような気がしています。

 

●人の認識(=実感)が現実に追いつくのには、ふつう長い年月を要します。

言いかえると、人間の認識(=実感)は、常に現実に遅れをとるということです。

 

●反対に、この人間の認識の「遅れ」「乖離」にいち早く気づき、対処することができた人たちが成功者になるんだなぁ…と今はそんな気がしています。

 

●ドラッカーの話に戻れば、したがって私たちが知らなければならないのは、これから世界がどう変わるかではありません。そんな予言者みたいな真似ができる必要はないわけです。

必要なのは、すでに(いま現在)世界がどう変わっているか、を正しく知ることです。

これなら誰にでもできる可能性があります。

 

 

 

ロースクール構想と「すでに起こった未来」

 

●むかし、ロースクールが出来たばかりときの話です。

ちなみに、それ以前まで唱えられていた「ロースクール構想」では、ローに進んだ学生の7~8割が司法試験に合格するという、夢のような「計画」が発表されていました。

ところが、蓋を開ければ当初の予想を超えてロースクールが乱立。最初の既修者・未修者が入学した時点で、7~8割など嘘でしかないことがはっきりしていました(より正確にいえば、最初のロー入試が行われている段階ですでにそのことは明らかでした)。

 

ロースクール生の7~8割が合格するなんてことがあり得ないということは、

①各ロースクールの募集要項を読み、定員数を確認する(識字)能力があって、

②そこに記載されている人数を足し合わせる(足し算)能力があって、

③司法試験の合格者数をその足し合わせた数で割る(割り算)能力さえあれば、

誰にでもすぐに結論が出せることでした(もちろん私はすぐにやってみました)。

 

●「それなのに、それなのにですよ」(←城塚翡翠風に)、入学した当初ならまだしも、なんと入学から3年もの月日が経った司法試験の直前になって、(特に未修者を中心とする)皆さんの先輩方が、いきなり↓こう騒ぎ出したのです。

「7~8割が受かるんじゃなかったのか!」

「これじゃ話がちがう!」

「だまされた!!!」

 

●…私たち旧司経験者は、みな言葉を失いました。

「お前たち、なんで、足して、割ってないんだ…?」

 

ロースクール生の7~8割が合格するなんてことがあり得ないことは、誰の目にも明らかな、簡単すぎるくらい簡単な、「すでに起こった未来」でした。

しかし、これほど簡単な「すでに起こった未来」さえ、人は正しく認識できない(ことがある)のです。おそらくは「当事者としての恐怖」が、彼らの視界を遮ったのでしょう。

 

 

 

ヨーロッパの未来

 

●少し壮大な話をすると、西ヨーロッパは、今世紀の終わりを待たずにイスラムに取って代わられるはずです。つまり、今世紀中に(西)ヨーロッパはイスラム圏になるということです。

これは「そういう蓋然性が高い」とかそういう話ではなく、見えている人にはすでに明白すぎる形で見えているはずの「すでに起こった未来」のひとつです。

 

●マスメディアも国際政治学者も、不気味なほど皆さんその話をしませんが、

①西ヨーロッパのイスラム系移民+国民(←ここ大事)の割合と、彼らの出生率

ヨーロッパ系白人(キリスト教徒・無神論者)の割合と、彼らの出生率

以上の※推定値を元に(※こういうのはもう公式には調べてはいけないことになっている)

③あとは小学生でもできる計算(掛け算の繰り返し)をすれば、

数十年後の西欧でムスリムが「最大宗派」になっていることは、もうほとんど確定した事実だと分かります(ヨーロッパが今さら移民排除に乗り出したりしないかは若干気懸りですが)。

 

●その後(ムスリムが「最大宗派」になった後)「ヨーロッパ型のリベラルデモクラシーが継承されるか」という政治的に興味深い論点がありますが、とりあえずそれは脇に置きます。

驚くのは、この「事実」はすでにほとんど確定したものであるにもかかわらず、誰もそのことに触れようともしないことです。ひょっとして当事者には(当事者だからこそ)現実が見えていないのかもしれません。

 

 

 

生成AIと弁護士の未来

 

●実は、このブログは2023年の初頭には終了する予定でいました。ところが、2023年の1月にchatGPTの存在を知ってしまい、内容を大幅に変更しなければならなくなってしまいました。

(本当は「成功論」や「東京論」などを長々と書いていたのですが、全部消しました)

最後は短くAI論で終わりたいと思っています。

 

●私は基本的に「流行には後れて乗る」タイプの人間なので、パソコンが登場したときも、インターネットが普及し始めたときも、周りの人が言っていた「これから世界が変わる」的な感想にはついていけませんでした。そんな私でも、chatGPTの登場には衝撃を受けました

 

●これまで、テクノロジーの進歩によって「これからの時代は、人間にしかできない仕事が重要になる」みたいな掛け声が盛んでしたが(私もその主張自体には賛成ですが)、その「人間にしかできない仕事」とされるものが、想像と大きく異なるものになるだろうということをchatGPTによって教えられたと思っています。

 

●これまで人々は、AIをはじめとするテクノロジーによって不要となるのは、それまで人々が「下等」と位置づけてきた仕事、要は肉体労働(+単純労働)だと考えていたと思います。

反対に、生き残るのは「上等」な仕事、つまりは知的労働だと考えていたと思います。

 

●でもこれ、どう考えても勘違い(考え方が真逆)でしたよね。

私たちは未来を自分たちに都合よく考えてきたんだなぁと(今となっては)思います。

 

人間が重要で価値のある仕事だと見做しているものは、重要で価値のある仕事だからこそ、(資源・エネルギー制約がない限りは)「代替」へのインセンティブが働きやすくなる

よく考えてみればこれは当然のことです。

 

●たとえば、数万年前の人類にとって、危険な獣の気配を察知する能力や、食べてはいけないキノコを識別する能力は、最も欠かせない能力のひとつであったはずです。そういった能力を高いレベルで有していた人間が、その時代の「エリート」であったはずです。

 

●しかし現在は違います。現在では、そんな能力は基本的に必要とされていません。

それは、これらの能力が(本質的な意味で)価値を失ったからではありません。そうではなく、これらの能力が人間にとってあまりに重要で価値があるものであったために、社会から「無化」された(そのような能力が無用になるように環境が作り変えられた)と考えるべきです。

 

●もっとも、当時の「エリート」「数万年後にはそういう能力は全部不要になるよ」と教えてあげたら、きっと彼らは「すごい!」と驚き、今の社会を称賛する…のではなく(そう思うのは現代人の勘違いである可能性が高いと思います)、「それはたしかに良いことかもしれないが、しかし、獣の臭いも嗅ぎ分けられなくなるほど「バカ」になった人類など、もはや人類と認めることはできない!」と怒り出す可能性も十分にあると私は考えています。

 

●私たちは普段、疑問の余地なく「人類は賢くなり続けている」と信じていますが、あくまでもそれは、①後の人類の視点から、②長期的な視野で評価した場合の話であって、その時代時代における短期の評価基準で測るなら、むしろ「人類はバカになり続けている」と言ったほうが適切なのではないかと私は思っています。

 

●同じように、現在の社会で(資源・エネルギー制約のない)重要で価値があるとされる高度に知的な仕事のほとんどは、いずれ社会から「無化」(=AIによって代替)されるはずです。

 

●ここで私が「無化」と表現しているものの典型的なイメージは、電卓です。

電卓に「2+3」と「問い」を打ち込めば、「5」という「答え」を得ることができます。

電卓こそが、「問い⇒答え」の能力を「無化」してみせた人類史上最初の道具といえます。

 

●実際、現代人の多くは、電卓が計算過程をどのように「無化」しているかを知りません。

電卓の内部で何が起こっているのかを知りません。知らないまま、使えるというだけです。

知っていなければならないものがあるとしたら、それは「足し算」という言葉の意味だけです。

実際に計算ができる能力は必要ありませんし、電卓を製造できる能力も必要ありません。

 

●このように現代の生活に必要不可欠な計算能力を電卓の中に押し込めたのと同じような形で、私たち人類は自らの生存に必要不可欠な要素を様々な道具の中に押し込めて(=「無化」して)きたのです。

 

この押し込め(=代替・無化)は、人類が存続する限り、これからも続いていくでしょう。

会計士やコンサルや弁護士の仕事の多くも、いずれは何かの道具の中に「押し込め」られることは間違いありません(10年やそこらで「押し込め」が完成することはないと思いますが)。

 

●ちなみに、私は「シンギュラリティ」などのSF話は(今のところ)全く信じていません。

50年経っても100年経っても、一定数の弁護士や裁判官が存在し続けると思っています。

 

●道具の中に「押し込め」たあとは、その中のことはほとんど分からなく(無知に)なります。

哲学や神学で、よく神の「全知全能」という属性が議論されますが、私は「全知」と「全能」を無理にセットで考える必要はないと考えています。

全能である(十全に使える)けれども全知ではない(=無知であるにもかかわらず全能である)という在り方も「あり」なのです。それはまさに人類の歴史が証明してきたことです。

 

●そうやって人類は、その時代時代に必要とされた様々な「知」を平然と葬り去ってきました。

この露骨なまでの厚かましさが、人類をここまで「進化」させてきたのだと思います。

 

 

 

試験の終焉?

 

●画像生成AIまで出てくると、人類のそれまでの技術進歩が、実際には制約だらけのものだったことに気づかされます。

 

技術とは、人類にあって当然(必要)だったものを実現し、なくて当然(不要)だったのものを消滅させるわざのことです。「あって当然」のものがそれまで実現しなかったのは、何らかの制約があったせいですが、その制約を取り払うことが、すなわち技術の進歩ということです。

 

●生成AIの登場によって、産業革命以来の技術進歩が、人類に本来「あって当然」だったものをほとんど実現できていなかったという事実に気づかされました。

実際、産業革命から現代までの技術進歩とされてきたもののほとんどは、少なくとも教育分野に限っていえば、文字情報に関係するものばかりです。

 

活版印刷・書籍・図書館・新聞・教科書・初期のインターネット・・・人類は本来五感を駆使して活動する生き物なのに、これまでの近代化(=技術進歩)は文字一辺倒だったのです。

 

●それまで文字の領域に留まってきたテクノロジーの進歩が、メディアの登場によってようやく文字以外の(映像や身体性などの)多様な領域に広がっていく未来をいち早く(1960年代に)予言した知識人として、マクルーハンの名前を挙げておきたいと思います。彼の予言はあまりにも早すぎて、現在は半ば忘れられた存在になっていますが、今こそ読み直されるべき思想家だと思っています。

 

 

学校教育試験も、とどのつまり社会の現実的必要性から逆算して必要とされる能力を事前に身につける(測定する)ための制度だといえます。

 

●つまりは、現代社会で(抽象的・一般的な観点から)「エリート」と見做される人間ができること(彼らが持つ能力)を事前に教え込む(測定する)ことこそが、教育であり、試験であったのです。

 

●少し前の世界を想像すれば分かりますが、何かの問題を解決しなければならないとき、昔の人はまず第一に教科書・書籍・学術論文・新聞・雑誌・その他さまざまな書類の束・・・といった文字情報を頼るしかありませんでした(あとは人を頼るくらいだったでしょう)。

 

●このような文字情報を十全に操れる人間が、これまでの時代の「エリート」でした。

 

●これらの文字情報には、

記録媒体がない

文字情報が勝手に考えてくれるわけではない

という特徴(=極めて強い制約)がありました。

 

●したがって、問題の解決のためには、人間の側から主体的に

文字情報をできるだけ正確(かつ大量)に理解・記憶

問題に対する解答を独力で導き出すことが必要になります。

 

●そう考えると、近代~現代に至る学校教育制度&試験制度の内容が、

文字情報を主体とする教科書の理解・記憶と、

文字情報の処理(=解答能力)に偏重してきたことは偶然ではありません。

それは何より、これらの制度が、その時代に必要とされた一般的・抽象的「エリート」像を雛形(理想形)とし、そこから逆算される形で設計されたものだったからに他なりません。

 

●しかし、現在はPC・スマホの時代です。そして、これからはいよいよAIの時代です。

つまり、これからの「エリート」は、教科書の内容を大量に記憶したり、上手に文章が書けたりする人間ではなく、一言でいえばAIを使いこなせる人間(能力)となるはずです。

 

●現時点では、せいぜいPC・スマホを使いこなすことができる人間(能力)が「エリート」の条件になっている、という程度の段階でしょう。PC・スマホ(だけ)では、せいぜい文字情報の理解・記憶(上の青字部分の①の能力)が「無化」される程度の話でしょう。

 

●もっとも、AIの領域でも、たとえば文章力などは、私が言うところの「無化」が想像以上のスピードで進んでいて、すでに文章スキルの格差が縮小し始めているとの研究があります。

文章力については、早ければ数年程度で「無化」が完了するはずです。

 

社会の現実的必要性から逆算して必要とされる能力を事前に身につける(測定する)ことが、教育・試験の存在意義だとするなら、現在の試験制度がすでに時代遅れの制度となっているのは明らかです。

 

●そう思う一番の理由は、試験が閉鎖環境を前提にしたものだからです。

 

●試験が「現実離れ」しているポイントをいくつか挙げておきます。

①まず第一に、受験生を一つの部屋(閉鎖空間)に閉じ込めること。

②次に、参照物不可であること。

③さらに、厳しい時間制約を課すこと。

 

●現実の世界では、仕事の際に、①閉鎖空間に監禁されたり、②調査を禁じられたりすることはまずないので、これらは特に試験のためだけに仕方なく行われる非現実的設定といえます。

(③も現実から遊離しているという点では似たようなものです)

 

●そのような非現実的な設定が人々に今まで(何となく)受け入れられてきたのは、それまでの私たちの現実の社会のあり方が、一定程度は閉鎖環境だったからだと私は思っています。

 

●さらに付け加えるなら、文字を読み、文字を覚え、文字(テキスト)で学び、文字で答える、という試験のあり方が、近代から現代までの「文字=紙文明」と非常に親和的だったという点も同時に指摘しておきたいです。

 

●歴史というのは本当に不思議なもので、

活版印刷による書物の大量生産

全国民を対象とした近代教育制度による識字率の向上

宗教改革(プロテスタント)による聖書(=文字の読解)中心主義

↑これらの現象が、まるで歩調を合わせるかのように同時に出現し、この300年あまりの時代を支配したことには、単なる偶然では片づけられない「時代の精神」のようなものを感じずにはいられません。

(そして、その時代が今ようやく終わろうとしている…というのが私の主張です)

 

●現在はPC・スマホの時代ですが、その本質はインターフェースであるということです。

つまりは、外部と自由に繋がる開放環境を可能にする道具だということです。

 

●私たちの社会の現実は、誰もが認めるように、すでに開放環境に完全に移行しています。

当然、(本来ならば)試験制度も、その現実(=開放環境)に適応する形で変わっていなければならなかったはずですが、実際にはそうはなりませんでした。

 

●たとえば、外部と自由に繋がる開放環境下で試験を行えば、生徒は単に情報を検索するだけに留まらず、親や家庭教師とダイレクトに「繋がって」しまうかもしれません。

そうなれば、試験の平等性・公平性が維持できません。

このような問題(制約)が、試験を開放環境に繋げることを妨げてきたのだと思います。

 

●しかし、これからの時代は、そのような問題(=制約)を心配する必要はなくなるはずです。

なぜなら、誰もがAIと繋がる(AIを使う)ことができる時代になるからです。

 

●これからの時代は、いつでも誰でもAIと繋がる・AIを使える時代です。

それが、これからの社会の現実です。

社会の現実がそのように変わったとき、試験制度はどう変わるでしょうか。

 

●行き先は2つしかありません。

①閉鎖環境が維持される

②AIと繋がることが認められる

 

閉鎖環境が維持された場合(①)、試験は社会の現実から遠く離れ、結果、誰の目から見ても有用性を失ったものと映るようになるでしょう。やがて自然消滅するはずです。

一方、AIと繋がる道を選んだ場合(②)、これなら社会の現実と離れることはありませんが、私には②もあまり上手くいくようには思えません。

 

●試験とは、「問い」の存在を前提に、その問い対して「答え」る制度のことです。

この「問い⇒答え」のパッケージこそが試験の本質です。

 

●本ブログでしつこいほど確認してきたのは、一言でいえば↑この一点だったと思います。

 

●このような「問い⇒答え」の形をした仕事は、これまではほぼ人間の仕事でした。

しかし、これから先は、「問い⇒答え」の形をした仕事という仕事は、すべてAIが代替すべき仕事となるはずです。

 

「問い ⇒ 答え」の構造は、試験という存在の本質です。

そしてその構造は、電卓の本質であると同時に、AIの本質でもあるからです。

 

●電卓に「2+3」という「問い」を打ち込み、⇒「5」という「答え」を得ることは、chatGPTに質問して回答を得ることと本質的に異なるところは何もありません。

単に「2+3」や「5」の部分が、(どんな試験にも耐えうる程度に)複雑になるだけです。

言いかえると、できる仕事の範囲が、「計算という問い⇒答え」から、「あらゆる問い⇒答え」に拡張するだけです。

 

電卓の登場によって、人類は「計算という問い⇒答え」から解放されることになりました。

同様に、AIによって、人類は「あらゆる問い⇒答え」から解放されることになるでしょう。

 

●今回の一連のスレッドを裏側から一言でまとめるなら、ようするに、人が何をもって人を優秀と見做すかというときのその「優秀」の基準は、時代によって変化する、ということに尽きます(そして技術こそが、その「基準」の変化の仕掛け人であるということです)。

 

「優秀とは何か?」という問いに、時代を通じて変わらない普遍的な答えなどありません。

何が「優秀」とされるかは、常にその時代の「必要」との関係で決まるものでしかありません。

 

ある時代に「優秀」とされた能力が、次の時代に不要となることは(人類の歴史をみる限り)ほとんど宿命的で必然的な成り行きです。

 

●「閉鎖空間に閉じ込められた状態で、紙に書かれた問題群を相手に、制限時間内に解答する」という現代を生きる私たちにとって馴染み深い「優秀」のあり方もまた、いずれ賞味期限切れになることは必定といえます。

 

●そして、その「いずれ」は、すでに「すでに起こった未来」になっていると私は考えます。

 

●現時点で確実に言えることは、次の時代の「優秀」は、記憶力でも文章力でも「問い⇒答え」を導く能力(=解答能力)でもないということです。試験によって測定される解答能力もまた、一定の時代的制約の中で必要とされた、暫定的かつ過渡的な能力(の一つ)に過ぎません

 

試験の解答能力とは、この世界のどこかに既に存在している「問い⇒答え」のセットを、閉鎖環境下で、正確かつ迅速に導き出す(想起するor組み立てる)能力のことです。

 

「この世界のどこかに既に存在している」というところが重要です。

つまりは「既製品」です。こんなものは、本来は人類に「あって当然」だったものです。

すなわち、本来ならば、何の労力も要することなく瞬時に取り出せて当然だったものです。

 

●こんな「既製品」を作る能力(=解答能力)を、これまで人類が切実に必要としてきたのは、既存の「問い⇒答え」のセットを、瞬時に目の前に取り出してくる技術(方法)が、21世紀の初頭まで(たまたま、不幸にも)なかったからにすぎません。

 

●つまりは、人類の技術進歩の著しい遅れゆえに、ほんの一時、私たちに「知の停滞」が生じてしまっていたからにすぎません。

 

●このように、技術(technology)というものの本質を、人類に僥倖(思わぬ幸運)を齎すものとしてではなく、「あるほうが当たり前のもの」として、つまりは医術や芸術(art)と同様の、人類が本来的に有していた可能性・全体性を回復させるための営みとして捉えなおす視点が、これから一層重要になると私は考えています。

 

●今後は、この世界で「問い⇒答え」の形をしたあらゆる事柄が人間の仕事ではなくなります

「7051591×603」を、電卓を使わずに手計算する人はいないでしょう。それと同じです。

 

●これから先の人間の仕事は、電卓の外から電卓を「使う」ことです。

もう電卓の中身を「知る」必要はありませんし、自分の手で「計算する」必要もありません

 

●AI時代に人間が担うべき知的な仕事があるとすれば、すでに一部で唱えられ始めていますが、それは問いを作る(ex.質問をする)という仕事でしょう。

実際、chatGPTでも、質問が下手で使いこなせていない人が大勢いるようです。

 

●この「問いを作る」という方向での教育(≠試験)には、依然として大きな意義(必要性)があると思います。

 

●もちろん、「問い」or「答え」がなければ、人間の出番は依然としてあるでしょう。

AIは「問い」がなければ何も始められないですし、「答え」がないならなおさらです。

 

●ただ、こと試験(として成立しうるか否か)に限っていうなら、「問いが与えられない試験」あるいは「答えが存在しない試験」というのは、どう考えてもあり得ないとしか思えません。

それはほとんど語義矛盾であり、制度として存在しえないもののように私には思えます。


●まとめ。

AIの本質は、試験(問い⇒答え)の構造そのものである。

AIの進化とともに、試験すなわち「問い⇒答え」の構造は、これまでの人類の進歩(ex.電卓)と同様、そう遠くない未来に特定の端末の中に押し込められる(=無化される)運命にある

 

これが私の(あくまでも現時点での)答えです。

 

 

 

 

以上です。

ここまで読んでくれた方に感謝します。

 

(2023.12.30)