ギンスケの猫でもわかる歴史コラム 第1話 「風林火山は突然に」 | ギンスケのブログ

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お久しぶりです。ギンスケです~(*´ω`*)
いきなりこのタイトルなんやねんって思われるでしょうが今回から歴史のコラムを自分の視点で書いていきたいと思います(唐突)

ちなみに自分は歴史特に戦国、幕末が大好きでして(ミーハーですいません(´・ω・`)
一番最初は自分が初めて歴史に触れた小説からいきたいなと思い井上靖の風林火山にしました。歴史全然興味無いしよくわからない人や興味はあるけどよくわからないって人にむけてわかりやすくかつ面白く自由にかけたら楽しいかなと思いまして。

それではまず..

戦国武将で一番好きな武将はと聞かれたら

自分は間違いなく


武田信玄


と答えます。

武田信玄と言えば今でも戦国時代の名将として語り継がれてますが..
歴史わからない人には「この人何した人なんや..」
て思われてる方がいると思うので
とりあえず彼の功績を

武田信玄は甲斐国(今の山梨県)の守護大名

・甲斐国の釜無川の氾濫を信玄堤という堤防を作って畑作業の効率化に貢献

・日本史上初めてフレックス制の勤務体系を取り入れた大名といわれている

・人は城人は石垣人は堀と言う言葉を残し人材育成に尽力した。

補足をすると。
信玄堤は当時の治水事業の粋を集めて作り上げた一大事業でした。そのおかげか完成してからは台風でも氾濫しなくなり農作業の効率化に貢献しました(ちなみに信玄堤は現在でも残っており未だにその役割を果たしている)

フレックス制は当時の武士は夜明けと共に起きて朝お勤めにいって夕方に帰るという一般的な時間をずらすことによって勤務の効率化に貢献(当時としては革新的)

人は城に勝るといい。生涯躑躅崎の館という館に住んで人の育成に尽力した。
武田家は武田24将、武田四天王など有力な人材が多く中でも伝説的な軍師(大名の側に仕えて軍略や知略の助言をする人)山本勘助をはじめ猛将山県政景、板垣信方etc魅力的な人材にも多く恵まれました。

ここで軽く人物説明

山本勘助→武田信玄の伝説的な軍師。日本史上最大の激戦大4次川中島の戦いにおいて啄木鳥戦法を献上するも上杉謙信に見破られて責任を感じで敵陣に突撃し壮絶な最後を遂げる。
軍略、知略、築城術、孫子、呉子、陸稲三略(古今東西の軍略書)に長け今も尚武田家臣の中では人気が高い。

武田信繁→武田信玄の弟として数々の戦で手柄をたてる。戦国時代の大名の兄弟は仲が悪い人が多いが仲が良く弟の立場を理解し支えた珍しい人物。
山本勘助が命を落とした第4次川中島の戦いにおいて上杉謙信の猛攻を受け戦死。
敵の上杉謙信に「惜しい武将を亡くした。申しわけない」といわしめ当時武田家が敵対してた大名からも弔辞が届いた真に傑出した人物といわれる。真田昌幸が彼みたいに活躍して欲しいと願い自分の子供に信繁と名付けたのが後の真田幸村こと真田信繁である。

山県政景→戦国時代最強の武田騎馬隊において最強といわれる武将。武田信玄が京都を目指し徳川家康と戦った三方が原の戦いにおいて徳川家康を追い詰め徳川家康は馬上で脱糞して泣きながら城に帰ってきたとか(´・ω・`)
織田徳川連合軍と戦った長篠の戦いにおいて主君武田勝頼に撤退を進言するも受け入れられず第1軍として馬防柵に突っ込むも火縄銃で20数箇所被弾し絶命。
その最後は口に采配を咥え鬼の形相であったといわれる。
彼の軍隊は鎧や兜を赤で統一していたことから武田の赤備えと言われ最強軍団の代名詞として使われていた。彼の死後徳川家康は家臣の井伊直政に赤備えを引き継ぐように支持したといわれる(井伊直政は幕末の桜田門外の変で暗殺される井伊直弼の先祖)
真田幸村は山県政景に憧れ彼の赤備えを受け継いだといわれる。これだけでもいかに山県政景が名将だったことが伺える。

小山田信成→武田家家臣にして武田24将の1人。
甲斐国岩殿山城城主。
武器を手にして戦う戦国時代において投石という戦法をとり武田の投石隊として恐れられた。当時投石は縁起が悪いといわれ物理的ダメージはもちろん心理的なダメージも与えられる戦法でもあった。
織田の軍勢が甲斐国に攻め込んできた時に主君武田勝頼を自分の城に招き入れようとしたが突如裏切り闇夜に乗じて火縄銃で発砲し追い払う。織田軍制圧後論功行賞の場において甲斐善光寺にて斬首された。

武田勝頼→武田信玄の4男にして甲斐国武田家最後の当主。
母は諏訪家の由布姫。知略はもちろん戦上手の猛将として有名。
1573年武田信玄の死去に伴い家督を継ぐが先代の家臣と折り合いがつかず武田衰退の一因となった長篠の戦いにおいて家臣が猛反対するも出陣を決意し大敗する。その後、織田の侵攻&家臣の裏切りにあい1582年甲斐国天目山田野にて自害。自害する前息子の信勝に武田家伝統の小桜韋威鎧を着せて元服の儀を行わせたといわれる(専門家によっては信勝を武田家最後の当主とする説もある)

武田信玄は男色を好み高坂昌信という小姓(身のまわりの世話をする人)をいたく気に入っておりいろいろ世話をさせたという笑
また好きな男が違う男に取られそうになり嫉妬してその男に付き合わないよう手紙を書いたり(これはトリビアの泉でもやってましたね~笑)

胃腸がかなり弱く下痢によくなっていたともいわれている(´・ω・`)

武田信玄は晩年京都に向け上洛の軍を起こし三方が原で徳川家康を追っ払いいよいよ織田信長と対決という時に亡くなってしまった。歴史にもしもはないけど武田信玄の寿命があと5年長かったら天下統一をしていたと本気で思っている。
武田信玄が上洛し徳川家康敗戦の報を聞いた時信長は「恐ろしい男が動きだした」と言い激しく動揺したといわれている。


長文乱筆すいませんした~(´・ω・`)
こんなかんじで来月もテーマを決めて書いていこうと思います(p`・ω・´q)