主治医によると、多発性硬化症の原因は、主に2つあると言われていて。

1つは、遺伝的要因。

もう1つは、環境要因。


私は、もう、思い当たる節だらけ。

「妊娠出産、子育てで生活習慣がかなり変わりました。」と伝えたら、
【今の生活習慣が合っているんでしょうね。続けてください。】と。

それと、いつも、予防的治療について言われるのですが「最後の脊髄炎から2年間発作がなかったのならば、予防的治療は考えなくていいでしょう」と爆笑


私自身、体質が変わっているのを実感しているし、再発する気がしていません。
先生にも、「2年間再発なしで、自信がつきました」と笑顔で報告。

本当にスッキリして晴れ晴れとした気持ちで診察室を出ました。


最近学んで来ていることは、そもそも難病は、人間が持っている病気ではなかった。
変な言い方ですが、自分は病気ではないと捉え直すこと、生活習慣や食生活をゼロから見つめ直すこと。
そんなことが主眼でした。

たまたま私の場合は、子育てを機に食生活を変え、子どもと折り合いをつける中で、生活習慣も変わって来ました。

結果は、私が健康になりました。笑


子どもにとっていいことは、私にもいいことなんですね。
当たり前と言えば、当たり前。


でも、そんなことは、6年前は考えることもなく、今から思えば不健康になる要因が多かったかもしれません。


つづく

昨日は、大学病院の定期通院日でした。
ここ1年以上、3ヶ月おきの受診。

多発性硬化症 疑い。

6年前についた診断名。

でも、まだ、疑いなので、診断名でもないかな。^^

幸いにも3つ目の病院で今の先生に出逢え、つらい時期を、心の底で支えていただきました。


まだ疑いの名の通り、私の場合数値で出たり画像で出たりしないので、受診科や先生によっては考えが違います。

でも、私にはこの病名はしっくりきています。
最も信頼している医師が、この病名を思い当たり、今の神経内科受診を勧めてくれたから。
症状や、発症原因や、その後苦手なことなどに不一致がないから。


最初は2011年初夏。

重い熱中症で倒れた翌日から、両脚の脱力、灼熱感、強い痺れが出て。

ほぼ力が入らない状態だったので、踵に褥瘡が出来るのではないかと思い、時々腕の力で位置を変えたり、下にクッションをかませたり。


脱力は2-3週間続き、家の中で座っているか、寝ているか、移動時は這ってました。


触るととっても冷たい脚なのに、ビリビリと強い熱い痛みがあるため、ゴザの上に脚を投げ出して、氷枕を太ももに乗せて脚を冷やしていました。


少し歩けるようになった頃、かかりつけの内科を受診し、紹介された膠原病の専門医へ。

ある程度歩けるようになり、知り合いの医師に相談したところ、多発性硬化症ではないか?と言われ。

千葉でかかるなら、この先生(今の主治医)がいいよと教えてもらいました。


今の主治医にかかり、MRI検査待ちをしている時に、2回目に起きた軽度の脊髄炎。


私が待ちきれず浮気して受診した4つ目の病院(都内の某大学病院)では、検査入院の結果メンタル扱いされ紹介状を出され終わりました。
結構つらかったです。
検査入院できる時は嬉しかったのにな、病名がついたら対処できるぞ!と期待が膨らんで。

何がつらいって、初回の発作の時は立って歩けないほどの症状があったのに、その経験をメンタルで片付けられてしまう理不尽さ。恐ろしさ。

教授回診でも、白い巨塔状態で、教授による研修医いびりを見てかなり引きました。未だにこんなことしてるのか、と。


幸いにも、別病院へ浮気してメンタルだと言われたのに、
3つ目の病院の先生のもともとの予約日に受診し、別病院での経過と結果を話すと、
痛覚検査、腱反射を入念に確認して、
「メンタルということはないでしょうね。
うちには、沢山の多発性硬化症の患者さんが来ています。よかったら診させてもらえませんか。」
と向こうから経過観察をオファーしてくださいました。

本当に素敵な先生。人間として尊敬します。
出逢えて良かったです。


あの時期のことになると感情が沢山でてきて。ついつい長くなりました。


話を戻して、そんな素敵な先生の定期通院。
そろそろ半年おきでもいいのでは?と感じ始めていましたが。

昨日は先生からもお墨付きをいただき、晴れて次の予約が5ヶ月後になりました!


とっても嬉しい!


長くなったので、続きます。


100歳の祖父が、昨日亡くなりました。

母方の祖父。
祖父母では唯一この世にいる人でした。


母方の祖母は、私の記憶ではもう葬式しかなく、遺影の顔しか分からない。
その祖母が若くして亡くなったのも、生きている間に散々迷惑をかけてきたのも、ぜんぶ祖父のせいだと言い、祖父のことを嫌ってきた母。

近親者だと難しい事情があっても、代を1つまたぐと違った感覚で付き合えます。
おじいちゃんになってから、いつもニコニコ、丸くなったそうなので、若い時とは別人みたいですし。


そんな祖父。
先日、市から100歳の表彰を受け、「100歳までは生きなきゃいかん」という目標を晴れてクリアしました。

今年に入り、インフルエンザで肺炎になるまでは車椅子に乗っていられました。
数年前までは、悪い膝をひょこひょこしながら歩いてましたし。
叔母の近くで曲りなりにも一人暮らしをしていました。


戦争中は、通訳のようなことをして生き延びたとか。
前妻のお仏壇を背負って逃げてきたとか、きっと祖父なりの波瀾万丈な人生だったと思います。

戦後、祖母と再婚してからは、お店は祖母に任せきり、夜は流しのギターでカラオケするなど、貧乏なのにお金を散財したということ。
なぜか、祖父の叔母の小姑が同居することになり、大変だったこと。

祖母も、母も、みんな各々の立場で大変だったのだろうなと今なら思える。


でも、私が知っている祖父は、いかにもおじいちゃんっていうイメージの、ニコニコ愛想のいい人。
飲み屋で酔っ払って、手に負えない場面も見ていない。


だから、悪いイメージはなく。
頼りないおじいちゃんってぐらい。


それだからなのか。
今朝、私の夢に、2度も出てきました。

夢の中の祖父は、車椅子に乗っていて。
手すりを手繰り寄せて、私に近づいてきました。

「誰もわしの名前を呼んでくれん。」と寂しそうに訴えてきました。

大きな声で何回か、「◯◯◯◯さーん!」って呼んだら、嬉しそうにフフッと笑顔に。

たったそれだけの夢でしたが。

そんな夢を一晩に2度も見ました。


母に話したら、「さすがじいちゃん。分かってくれる人のところに行ったのね」と驚いてました。

祖父のことを分かってあげられたのか分かりませんが。

最期のお別れが出来て良かったです。



そういえば、父方の祖父が亡くなった時は、看取った気がしました。
亡くなる数時間前、家族でかけつけると、苦しそうな呼吸をしていて。肺炎3度目でした。

なぜか、手を握った私。
呼吸リズムに合わせてギュッ、ギュッと軽く手を握っていました。

ふと思い立ち、少しずつ私の呼吸リズムに合わせるよう、握る間隔を少しずつ伸ばしていきました。
そしたら、さっきまであんなに苦しそうな浅い呼吸をしていたのに、すーっと全身の力が抜けて、深いゆっくりとした呼吸に変わりました。
おじいちゃん寝たんだな、と思いました。

医師から、峠を越したので今夜は帰ってください、と言われ、帰宅した直後、亡くなりました。

あの時、楽になって天国へ行けたのかな。
不思議な体験でした。


どちらの祖父も、戦争を生き抜いた人たち。二人とも長生きでした。
もっと若い時に、話を聞ければ良かったな、と思います。

今から思えば、戦争によって人生を狂わされた人たちでもあり。
現在に生きている感覚が薄かったような。
今となっては分からないことばかりですが。


祖父が、最期まで家族に見守られ命を閉じられたこと。
心底良かったなと思います。


世代交代。


私は娘に何を遺せるだろう。
負のものをなるべく削ぎ落としてあげたい。
そのためにも、自分改革。