『名将言行録の太田資正(三楽斎) ①」の続きです。

以下の5つの逸話について、感想を書いてみました。

1.犬の入替えによる松山城後詰め
2.岩槻千騎の話
3.扇谷上杉朝定との和解
4.山内上杉憲政敗退と平井での中村伊勢守の活躍
5.遠方の謙信と結び、北条氏に立ち向かった資正の気概



1.犬の入替えによる松山城後詰め

太田資正(三楽齋)と言えば、我が国ではじめて軍用犬を使い、城と城の間での“通信”を行ったことが有名です。
「名将言行録」も、まずその有名エピソードから入っています。
参照したのは「甲陽軍鑑」のようです。幾分、読みやすく少しダイジェストしているようですが。

【関連】
史料研究:太田資正の「犬の入れ替え」


2.岩槻千騎の話

太田資正が兵法を重んじたこと、配下の「岩槻(岩付)千騎」の兵士達も、そんな主君に倣い、鍛練に励んだ、という話。
異本小田原記」からのほぼ丸ごと引用です。「異本小田原記」では「岩付千騎」となっているものが、「名将言行録」では「岩槻千騎」に変わっています。
「異本小田原記」が書かれた江戸時代初期には、「岩付」という室町時代の呼び名がまだ主流だったが、「名将言行録」が書かれた江戸時代末期には「岩槻」という新しい呼び名が定着した。そんなことが分かる書き換えです。
「千騎」という少ない軍勢ながら、一騎当千の精鋭部隊を率いてきびきびと動かし、戦場で目立った活躍を見せた資正の姿を想像してしまいます。


3.扇谷上杉朝定との和解

関東管領・山内上杉憲政が、北条氏康に敗れて平井まで後退した際に「憲政公のことを頼む」と、同じ上杉家の扇谷上杉朝定が資正に頼み込んだ。という話。
扇谷上杉家は、太田氏が代々仕えた主家ですが、資正の曾祖父・太田道灌がこの
主家によって殺されたため、一時は対立関係にもあったと言います。
このエピソードでは、扇谷上杉家の当主の朝定と、太田氏当主の資正が誤解を解き、涙ながらに和解するのですが、、、史実ではなさそうです。というのも、扇谷上杉朝定は、山内上杉憲政が平井に逃げるきっかけとなった河越合戦の敗戦の際に、討死しているからです。
後世の創作か、あるいは河越合戦の前に、朝定と資正が道灌暗殺以来の両家の相互不信を融かすような対面をしたことがあり、それが時期を誤って伝えられたか。


4.山内上杉憲政敗退と平井での中村伊勢守の活躍

初めて読んだエピソードです。
後世の創作の匂いがします。


5.遠方の謙信と結び、北条氏に立ち向かった資正の気概

参照したのは「異本北条記」でしょう。
内容はほぼ同じで、「名将言行録」の方が幾分読みやすくなっています。
関東地方での北条氏の優勢が誰も目にも明らか、という段階に入っても、資正は遠くの越後上杉家(謙信)と結び、あくまで反北条を貫きます。
北条に従った関東の武将らから、「無謀(謀無し)」と笑われる資正ですが、資正は、「不義の弓矢を執らざるが故なり」と己の気概を示す。そんな内容です。
武にも智にも優れながら、勝ち馬の背には乗らなかった資正の矜持。私の好きな逸話です。



→ 「名将言行録」の太田資正(三楽斎)  ③

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