判物・書状で探る太田資正の領国と行動範囲」をまとめる中で、気付き、気になったことがありました。

■太田資正と所沢の関わり

それは、太田資正が、永禄三年と五年に、埼玉県所沢市に対して制札や安堵状を出していることです。
永禄三年の入間郡岩崎への制札発行は、以前から知っていましたが、永禄五年の北野天神社の神職への安堵状は今回の整理の中で始めて知りました。

太田資正と所沢の関わりは、永禄三年末~四年初頭に資正が一時的に軍事行動範囲を広げた時期(浅草や品川、高尾山にまで軍勢を展開しました)のみのと・・・と、これまでは思っていたのですが、永禄五年の安堵状は、そうした私の先入観を疑わせるものでした。
資正は、永禄三年末の岩付衆展開の後、永禄五年くらいまで、所沢に一定の影響力を発揮していた可能性があるのです。

【付記】
(永禄三年末から四年初頭にかけて資正が岩付衆を率いて軍事行動を行った地には、他にも豊島郡石浜(台東区)、品川本光寺付近(品川区)、高尾山薬王院付近(八王子市)等がありま。しかし、これらの地域には以降資正からの制札や安堵状の発行はなく、資正の影響下にあった時期は、非常に短かかったと期間だったと考えられます。)

ところが、大宮台地を中心とした岩付領(北は鴻巣市、南は川口市、東は春日部市、西ら川越市古谷)を統治していた太田資正にとって、所沢は遠隔の地。二年近く影響力を発揮するのは、難しかったはずです。

資正は、一体どうやって、所沢に影響力を行使したのか、そしてその狙いは何だったのか。昨日から、仕事をしながら、そんなことを考えています。


■「どうやって」を考える

「どうやって」の答えは、富士見市の難波田城にあるのかもしれません。
難波田城は、最近の研究(竹井英文「岩付太田氏と難波田城」)によって、
・永禄年間には太田資正の勢力下の城であったこと、
・在城勢力が、上杉謙信の越山(関東入り)以降、河越城の北条勢とたびたび合戦に及んでいたこと(竹井氏は主に永禄四年のことと推測)、
・少なくとも永禄七年七月時点て北条勢の支配下に入っていること(竹井氏は永禄五年以降は合戦を伺わせる史料が無いため落城時期を永禄六年以前と見ている模様)
が明らかになっています。

この城は、太田資正領国において、珍しく武蔵野台地の端に近い城です。少なくとも東の岩付城から見て入間川(現在は荒川)の西対岸にあったこの城は、岩付領の他のどの城よりも、武蔵野台地にアクセスしやすい拠点だったはすです。
ここに一定の規模の軍勢を配置していれば、常に所沢を統治することは難しくとも、時々軍勢を送り込んで北条氏の支配を脅かす、くらいのことであれば、できたのなはないでしょうか。


■「狙い」を考える

次に「狙い」ですが、それは所沢の地理的性格を考えれば、自ずと見えてきます。

所沢は、古くから府中から河越を結んで上野国方向に抜ける街道の通り道です。北条勢が本拠地・小田原から北の重要拠点・河越に向かう際に通る“幹線道”を封じるには、所沢がまさにその適地です。

時期も考えてみます。
太田資正が所沢で制札を出した永禄三年十二月は、北条氏康が一旦は河越城・松山城に出向き、長尾景虎(上杉謙信)を自ら迎え撃とうとしていた時期です。
この時期の資正の所沢派兵は、河越城と小田原の連絡路を断つことが目的だったと考えることができます。

黒だ基樹氏によれば、この時の北条氏康の動きは、
・永禄三年九月、小田原を出て河越城へ
・永禄三年十月、更に北の松山城へ
・永禄三年十二月、長尾景虎を武蔵国で迎撃するのを断念し小田原に帰陣
だったようです(黒田基樹編「岩付太田氏」)。

太田資正が所沢に軍勢の狼藉を禁じる制札を出したのが永禄三年十二月十日です。制札を発行する少し前から軍勢を展開していたであろうことを考えると、資正の所沢派兵が、慎重な氏康に小田原帰陣を決断させたことは、十分ありえるのではないでしょうか。


■妄想を広げてみる

以下、妄想を広げてみます。

長尾景虎(上杉謙信)を北武蔵で迎え撃とうと軍勢を率いて河越城・松山城まで現れた氏康。資正の裏切りと背後の所沢への軍事展開を知ったとき、どう思ったか。
「してやられた」と思ったと同時に、北条氏の河越領・江戸領を北から押さえ込む位置にある岩付領の反乱を深刻に受け止めたはずです。
しかも、資正は北から河越領・江戸領の“蓋”になっただけでなく、難波田城を用いて、
・河越城と江戸城を結ぶ今日の川越街道を押さえ(難波田城はちょうどその位置にあります)、
・更にそこから出張った軍勢が、府中と河越城の連絡も絶とうとしているのです。
加えて資正は、その半年後には松山城をも奪い、北武蔵・上野を北条氏の影響圏から切りはなそうとします。

氏康にとって、資正は真っ先に叩き潰さなければならない相手と映ったことでしょう。

その後、永禄四年には、河越城の北条勢と難波田城の岩付太田勢の合戦が頻繁に繰り返されます(竹井氏)。それは江戸~河越の連絡路、河越城~府中・小田原との連絡路を奪還せんとする氏康の厳命を受けた河越城衆の必死の戦いだったのかもしれません。

太田資正の所沢への影響を伺わせる最後の史料は、永禄五年十月の北野天神社神職への安堵状です。難波田城を河越城の北条勢に奪われたのは、その直後だったのかもしれまさん。

時を同じくして、太田資正は、一旦は奪い取った北の松山城を武田信玄・北条氏康の連合軍に包囲され、絶体絶命の危機を迎えています。

太田資正の退勢は、松山城の陥落によって露となったと、ご来席軍記物は伝えますが、河越城を背後から脅かした難波田城の喪失もまた、太田資正の追い詰めたと言えるのではないでしょうか。

華々しい松山城合戦だけでなく、所沢を巡る難波田城合戦もまた、太田資正と北条氏康の攻防戦の中の重要な一幕だった。そう考えてみたくなります。

以上、太田資正の所沢への制札と安堵状からの考察&妄想でした。


【図版追加(2015/2/3)】
難波田城を経由した所沢(入間郡岩崎付近)への軍事展開のイメージを、地形図上に示してみました。

凡例は以下の通り。
・岩付領の主だった城を白抜き赤丸にしました()。
・岩付領内の判物・書状のあて先となった寺院・神社等は赤色の塗りつぶし丸()。
・永禄三年以前(上杉謙信の越山・関東入り以前)に太田資正の領国だったと考えられる領域を赤線()で、囲んでみました。
・永禄三年時点で、明らかに太田資正以外の勢力の下にあったことが分かっている城は、白抜き青丸()です。
・永禄三年末以降に、資正が上杉謙信の越山と連動して起こした軍事行動の展開地域は、赤バツ(×)です。

太田資正と難波田城、所沢


難波田城が、資正が持つ城の中で、所沢(入間郡岩崎付近)に最も近いことがよく分かります。
資正のいる岩付城との情報連携の際には、中間地点の大宮にあった寿能城(永禄三年築城)が役に立ちそうです。

所沢と難波田城付近を結ぶ街道はあったのだろうか?と思い調べてみると、鎌倉時代から室町時代にかけて、「羽根倉道」という古道が所沢→富士見(難波田城)→大宮(寿能城)と続いていたようです。(このサイトが分かりやすく勉強になりました)

資正が羽根倉道を軍事行動に使ったと考えれば、寿能城→(指示)→難波田城→(派兵)→所沢という連動は、自然なものに思えてきます。

妄想の筋は、意外に悪くないのかもしれません。


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