※ マニアックです。基本的に自分向けのメモです。

太田資正が、岩付城(現・さいたま市岩槻区)を居城としていた時代、即ち天文17年(1548年)から永禄7年(1564年)頃に発行した判物や書状について、その宛先を国土地理院サイトで場所を確認しながら整理しました。
太田資正の領国範囲、軍事的な影響範囲を探る資料集として。

似たようなことは過去に何度かやっていますが、研究者が断片的に引用した資正の判物・書状情報をつまみ食いしたものでした。今回の試みは、岩付時代の資正の判物・書状を全て洗い出そうとした点が特徴です。

【過去の類似作業】
太田資正の勢力範囲
地図で見る太田資正の世界(1)
地図で見る太田資正の世界(3)
地図で見る太田資正の世界(9)
太田資正の“帝国”
続・太田資正の“帝国”

参照文献は、『岩槻市史〈古代・中世史料編I  古文書史料(下)』 (1983年)です。
1983年以降発見された判物・書状類については、別のソースで見た記憶もありますが、それらは再度見かけた時に、追って追加しようと思います。


【天文十八年】
1.九月三日 太田資正は、慈恩寺に渋江氏等の支配下にあった十八坊を含め六十六坊を安堵する。

確認される太田資正の最初の判物です。
慈恩寺は、岩付城(岩槻城)から見て、荒川(現・元荒川)の対岸にある天台宗の大寺です。何度か散歩に行っています。→「慈恩寺を歩く
この判物はレプリカが公開されているので、以前見に行きました。→「太田資正の判物

岩付城と慈恩寺




天文二十二年】
2.六月一日 太田資正は、忠恩寺に対し、門前の人足棟別役を免除する

忠恩寺は、埼玉県白岡市の浄土宗の寺院です。
いずれ訪ねてみたいと思っています。

岩付城と忠恩寺


【天文二十三年】
3.四月八日 太田資正は、清河寺の蘆根斎に書状を送り、昌書記の入寺のこと等を報ずる。
4.四月八日 太田資正は、清河寺の蘆根斎に書状を発し、寺僧以外の者の入寺及び門前の者が他所へ移ることを禁止する。

清河寺は、さいたま市西区にある臨済宗の寺院。古河公方との関わりが深かったと言います。
川越に遊びに行くときに近くを通るのですが、残念ながらまだ訪ねたことはありません。(→その後、訪ねてみました。)

北条氏の武蔵国支配の拠点である河越城に近いところまで、資正の支配領域が広がっていたことが分かります。

岩付城と清河寺
岩付城と清河寺


弘治元年】
5.五月二十日 太田資正は、養竹院に古尾谷庄内福浄寺のことについて書を送る。

養竹院は、埼玉県川島町にある臨済宗の寺院。資正の祖父・太田資家(太田道灌の養子)が開基したと言われる岩付太田氏の菩提寺です。
太田道灌の陣屋跡に建てられたという伝承もあるそうです。
以前、訪ねたことがあります。→「岩付太田氏の菩提寺・養竹院を訪ねる

養竹院に対しては、天文十八年の時点で北条氏康が、北条氏への協力を賞して鎌倉大慶寺の寺領が寄進されています。これを、天文十六年十二月から翌十七年にかけての太田資正と北条氏康の岩付城合戦の仲裁の労を賞したものだとする説もあるようです。

天文十八年時点では明らかに北条氏の勢力下にあった養竹院ですが、その六年後の弘治元年のこの時点では、北条氏服属後の太田資正の領国に組み込まれていたと見てよさそうです。

古尾谷(現・川越市古谷)は、北条氏康が永禄二年にまとめさせた「小田原衆知行役帳」(北条家臣知行役帳)において、太田資正の領地として記されている土地です。北条氏の河越城に肉薄するこの地が、太田資正の領地であったことは、北条氏が資正を信頼していたことの証左であるように思えます。
残念ながら、福浄寺という寺院が現在も存在するのか確認できませんでした。

岩付城と養竹院
養竹院


【弘治二年】
6.三月五日 太田資正は、大行院に上足立郡内の伊勢熊野先達職分を安堵する。

大行院は、埼玉県鴻巣市にあった本山派(真言宗系の修験道。明治の廃仏毀釈で真言宗に統合された)の寺院。戦国時代の関東では、熊野詣が盛んだったそうです。
大行院の場所ですが、戦国期の荒川本流(江戸時代に西遷される前の川筋)の南側に位置している楊に見えます(要調査)。太田資正の居る岩付城から見て、当時の荒川の内側の地だったのではないでしょうか。

岩付城と大行院
岩付城と大行院


7.十一月二十九日 太田資正は、足立郡中尾の玉林院に書状を発し、下足立三十三郷の旦那役を安堵する。

玉林院は、さいたま市緑区中尾付近に存在した修験道の寺院。残念ながら、明治時代の廃仏毀釈で廃寺となってしまったそうです。
下足立三十三郷は、現在の鳩ヶ谷付近~さいたま市緑区三室の付近のようです。

岩付城と玉林院
岩付城と玉林院


【弘治三年】
8.四月八日 太田資正は、足立郡赤井坊に寺領を安堵する。

赤井坊は、埼玉県伊奈町小室にある当山派修験(真言宗系の修験道。明治の廃仏毀釈で真言宗に統合)の寺院。

岩付城と赤井坊
岩付城と赤井坊


9.四月八日 太田資正は、道祖土図書助に、比企郡三尾谷郷の伝馬に出役する百姓の田地指し上げを禁止する。

道祖土図書助は、比企郡八林郷(現・埼玉県川島町の上八ツ林・下八ツ林)の土豪。
比企郡三尾谷郷は、川島町三保谷宿付近。

この文書から、太田資正が領国内で伝馬制を敷いていたことが分かります。
今日の戦国大名研究では、「戦国大名」とそれに服属する「国衆」(地域領主)の違いの一つとして、伝馬制を敷く権限は戦国大名にしかなかった、という説が定説になっているようです(黒田基樹「戦国大名」)。
太田資正は、戦国大名・北条氏康に服属する国衆(地域領主)でしたが、自領内で自身の権限で伝馬制を敷いていました。そのため、研究者の中には、資正を「戦国大名的性格を持つ国衆」と評する者もいるようです。(井上恵一「後北条氏の武蔵支配と地域領主」等→以前このブログでも紹介しました)

ちなみに、資正の比企郡へのテコ入れは、松山城の上田朝直との来るべき合戦の準備であったのではないか、と私は妄想しています。

岩付城と三尾谷郷
岩付城と三尾谷郷


【永禄二年】
10.三月二十四日 太田資正は、大島大炊助と深井氏に郷内開発を命ずる。

深井氏は、現在の鴻巣付近の土豪。
場所は、上の地図の大行院付近と考えればよいでしょうか。



11.十月十三日 太田資正は、金剛寺に対し、寺家門前を公方人不入とする旨を報ずる。

金剛寺は、川口市安行吉岡の曹洞宗の寺院です。

岩付城と金剛寺
岩付城と金剛寺


【永禄三年】
12.十二月十日 太田資正は、入間郡内の岩崎・上殿分等六ヶ所に軍勢の狼藉を禁止する制札を発する。

永禄三年十二月は、太田資正が長尾景虎(上杉謙信)の越山・関東入りに合わせ、北条氏に対して翻意を明確に示した時期に当たります。
資正の最初の反北条の軍事行動と見てよいでしょう。(長尾景虎はこの時点ではまだ上野国・厩橋(現在の前橋市)にいます)。

入間郡岩崎の正確な位置は分かりませんが、ひとまず、所沢市山口のセブンイレブン岩崎店あたりと推測してみました。地図で場所を確認すると、これまで基本的に大宮台地周辺に限定されていた資正の行動範囲が、いっきに広がっていることが分かります。

二ヶ月前の永禄三年十月、北条氏康は、長尾景虎を迎え撃つため河越城に入ったものの、景虎の勢い止め難しと判断して程なく小田原に戻った、という顛末があったそうです。
資正の所沢付近への派兵は、河越城と北条本国(相模・伊豆)との連絡を絶つことを狙ったものであり、氏康はこの動きを警戒して小田原に戻った・・・と考えることができるかもしれません。

→「太田資正の所沢への制札と安堵状が意味するもの」で、この点を少し深堀りしてみました。

入間郡岩崎

入間郡岩崎




13.十二月十四日 太田資正は、豊島郡の石浜宗泉寺に、軍勢の狼藉を禁止する制札を発する。

資正率いる岩付衆の進軍は続きます。
豊島郡石浜は、今日の東京都台東区橋場付近。石浜宗泉寺はこの地にあった古寺とのことです。

石浜宗泉寺が、四日前に制札を出した入間郡岩崎から遠く離れていることを考えると、資正は岩付衆を二手に分けて進軍させていたのかもしれません。
石浜宗泉寺付近への進軍は、北条方の葛西城・江戸城を攻めるものだったのでしょう。この頃、葛西城が岩付太田・安房里見連合軍によって落とされています。

石浜宗泉寺
石浜宗泉寺


14.十二月 太田資正は、荏原郡の品川本光寺・同妙国寺に、軍勢の狼藉を禁止する制札を発する。

品川に進軍した岩付衆は、石浜宗泉寺を攻めたのと同じ軍勢でしょう。
資正率いる岩付衆は、葛西城は落としたものの、江戸城は落城までは追い込めなかったと言われています。品川付近への進軍は、江戸城を北条本国(伊豆・相模)から孤立させる狙いがあったのではないでしょうか。

品川本光寺品川本光寺




【永禄四年】
15.二月二十六日 太田資正は、内田兵部丞にすな原の地を与える。

内田兵部丞は、年末の入間郡や石浜・品川への進軍で手柄を立てた家臣でしょうか。
残念ながら、「すな原」という地がどこなのかは確認できませんでした。


16.二月晦日 太田資正は、多摩郡案内谷に制札を発し、軍勢の狼藉を停止する。
17.二月晦日 太田資正は、多摩郡小仏谷に制札を発し、軍勢の狼藉を停止する。

16と17はともに八王子市の高野山薬王院が保存していた文書です。地図上には、ひとまず薬王院の位置をプロットしてみたいと思います。
この地域は、武蔵国と甲斐国をつなぐ街道。資正は、北条氏と同盟していた甲斐・武田勢がこの街道から来る可能性を見越して、この地で軍事行動を展開していたのかもしれません。

高尾山薬王院高尾山薬王院


18.三月二十二日 太田資正は、鎌倉鶴岡八幡宮に、軍勢の狼藉を禁止する制札を発する。

永禄三年から四年にかけての長尾景虎(上杉謙信)の第一次越山・関東入りのクライマックスは、鶴岡八幡宮で行われた景虎の関東管領就任式。そのための制札を資正が発行していることから、資正が景虎に従う関東勢の中で指導的な役割を果たしていたことが伺われます。

資正にとっても人生最良の時だったことでしょう。

鶴岡八幡宮


19.五月二十二日 太田資正は、比企左馬助に判物を発し、勝呂のうち西光寺分と河越庄内小室矢沢百姓分を安堵する。

比企左馬助は、岩付太田氏代々に従った比企郡の有力土豪。
資正は、比企左馬助に知行を与えることで、来るべき北条勢の反転攻勢への迎撃態勢を築こうとしていたのかもしれません。

「勝呂」は坂戸市大字石井付近、「小室」は川越市小室、「矢沢」は日高市大谷沢のことだそうです。地形図上で見ると、「勝呂」「小室」「矢沢」は、北条勢が秩父の山伝いに反撃してくる時にそれを防ぐのに適した土地であることが分かります。
資正は、北条勢の山伝いの反撃を、あらかじめ予測していたのでしょうか。

勝呂


20.十一月二十一日 太田資正は、比企左馬助に書状を発し、戦功を賞し、比企郡代を安堵する旨を報ずる。

比企左馬助は、北条勢の反転攻勢の迎撃において、戦功を挙げたようです。

梅沢太久夫氏は、岩殿山正法寺の僧侶が記録した松山城を巡る北条氏康と太田資正の百日に及ぶ戦い(最終的には氏康側が撤退)をこの時期に推定しています。
比企左馬助の戦功は、この合戦で挙げたものだったのかもしれません。

しかし、比企郡全体の郡代にする、という資正の褒賞は破格です。比企左馬助が領有していたのは、川島町や吉見町の一部程度だっと考えられます。比企郡全体(下図の赤線囲い込み部)となると、松山領全体を越えるほどの領域です。
この時期の資正は、上杉謙信の越山の余勢を借りて奪い取った松山城と松山領の維持に必死になっていました。その全てを比企左馬助に与えるという破格の褒賞は、松山領の維持に、資正が不安を感じていたを伺わせます。
永禄四年十一月の時点で、資正は(氏康の百日陣を撃退したものの)北条勢の再度の反撃を相当に恐れていたに違いありません。

比企郡


【永禄五年】
21.七月十六日 太田資正は、道祖土図書助の申出により、比企郡八林の内、深谷民部分、足立郡石戸の内野場を安堵する。

道祖土図書助も、資正の対北条戦で戦功を挙げたのでしょう。
この時点では、まだ資正率いる岩付衆が、北条勢の反転攻勢を受け止めていることが伺えます。
八林(八ツ林)郷は既に地図上にプロットしているので省略します。


22.十月二十日 太田資正は、入間郡北野宮神主職を安堵する。

入間郡北野宮は、今日の所沢市北野天神社です。
永禄五年十月と言えば、武田信玄・北条氏康の連合軍数万が松山城に押し寄せた時期。しかし、まだ、所沢市付近は、資正の勢力下だったのでしょうか。
場所は、永禄三年十二月に資正が制札を発行した入間郡岩崎付近です。資正は、北条氏の重要拠点である河越城を無力化するために、この地域を押さえることに注力していたのかもしれません。

北野天神社




【永禄六年】
23.六月十八日 太田資正は、小室の赤井坊に制札を発し、沼の埋めだしを禁じる。

赤井坊は既に地図上にプロットしているので、省略。
永禄六年六月と言えば、既に松山城が、武田・北条連合の前に陥落し、資正は西の守りを失い、軍事的に窮し始めた頃です。


24.十一月二十四日 太田資正は、三戸駿河守室に、足立郡代山の内寺山、たい野の地を御こや分として、付与する。

三戸駿河守室は、三戸駿河守に嫁いだ資正の妹「としよう」のこと。「御こや」は、「としよう」の母親のようです。資正とは母が異なっていたのかもしれません。
代山は今日のさいたま市緑区代山付近、寺山は今日のさいたま市緑区寺山付近。

時期的には、資正が起死回生の国府台合戦(永禄七年正月)に向けて準備を進めていた頃です。資正は、一時は、岩付城に籠城して北条勢を迎え撃つことも検討し、里見勢から籠城用の米を買い付けようとしていたと言います。
そうした切羽詰まった状況において、この書状は何を意味するのか。


25.閏十二月三日 太田資正は、三戸伊勢寿丸に書状を送り、知行分不入を再確認し、上杉政虎への忠信を要請する。

 ※ ※ ※

これ以降の資正の書状・判物は、息子・氏資に岩付城を追放されてからのものとなります。
岩付時代の資正が発行した書状・判物はひとまず、ここまで、です。