太田資正(三楽斎)が、小田原城を包囲する関白秀吉の本陣を訪ね、戦上手を自認するこの天下人に向かって城攻めの拙さを批判した逸話は、よく知られています。

以前、「名将言行録」でこの逸話を読みましたが、その後名将言行録の元ネタとなった「奥羽永慶軍記」(元禄年間成立の軍記物、戸部正直著)の当該部の原文を入手しました。

原文を紹介しつつ、試訳を付けてみます。
素人訳ですので、「違うよ」と気づいた方はぜひご指摘ください。


【原文】
其の次に常州片野の住太田三楽斎を召出され、前の如く小田原の事を上意なり。
三楽斎も東国に隠れなき武勇の老武者なりしが、直江が如く当座の思慮も無りけるにや、畏りて申すよう、

《試訳》
(関白殿下は)その次に、常陸国の片野に住む太田三楽斎を呼び出した。これまでと同様に小田原攻めに関する意見を聞きたいとのご要望であった。
三楽斎も、東国で広く名の知れた武勇の老武者であったが、直江兼続のような咄嗟の思慮が無かったのだろうか。畏れ入りながら、こう申し上げたのだった。



【原文】
「抑々(そもそも)此の城と申すは一方は荒海にて大舟の進退自由ならず、三方は難所の山を抱へ、攻るに難き名城なれば、氏康もかかる地の利を考へ城を築き候。其の上氏康・氏政二代の内、関八州の内五箇国を領し、兵糧はたとへ十ヶ年籠城仕り候とも不足なき程籠置、軍勢の事凡そ五、六万は候ふべし。

《試訳》
「そもそも此の小田原城と言う城は、一方は荒海に面しており大きな船で攻めようとしても自由が効かず、残る三方は険しい山に囲まれており、実に攻めにくい名城です。そうした地の利があるために北条氏康もこの地に城を築いたのです。
その上、氏康・氏政親子二代の間に関八州の内五ヶ国を領有するに至り、例え十年間の籠城でも不足しない程の兵糧を貯め、軍勢は五、六万人もになるはずです。



【原文】
たとへ抱の城数ヶ城は落候とも、此の本城に於ては、力攻めなどにて左右(そう)なく落城仕(つかまつる)べしとも存じ候らはず。但(ただ)御計略も候はば格別たるべく存候。」とぞ申しける。

《試訳》
例え支城をいくつか攻め落とすことができたとは言っても、この本城は別です。力攻めなどでそう易々と落城することはないはずです。ただし、計略を使ったならば状況は変わってくるに違いありません。」と、申し上げたのだった。



【原文】
殿下、此の由聞(きこし)召され、忽(たちま)ち御機嫌替らせ給ひて、「三楽は数年北条と戦ひ、打負けていまだ臆病神のさめざるや。」と仰せられければ、入道座興あしく退出しけるが、

《試訳》
関白殿下はこれをお聞きになると、たちまち機嫌を損ね、「三楽斎はこの数年北条と戦い、負け続けた。その時から臆病神に取り付かれたままなのだろう」と仰った。三楽斎は居づらくなってその場を退出したのだったが、



【原文】
次の陣に石田治部少輔・増田右衛門尉有ければ、両人に向て、「只今小田原の城御攻候事尋(たずね)に付、愚案に及ぶ通申上げ候処、三楽数年北条とも相戦ひ候得ども、武功は何ぞ劣るべしとも存じ候らはず。

《試訳》
隣の陣に石田三成、増田長盛がいたので、両人に向かって「たった今、小田原城攻めの件を関白殿下に尋ねられたので愚案を申し上げたところだ。この三楽斎、数年北条と戦い続けてきたが、その武功は他の者達と比べて劣るものだとは、思っていない。



【原文】
扨又(さてまた)、此の城を御計略なくして輙(たやす)く御攻落候はば、入道が二つなき命をかけ申すべく候。かくの如く評判申損ずる事にはこれなく候得ども、天運尽て敵に領土を掠められ、今かかる不肖の身となり候こそ面目なく候らへ。」とて立ちけるが、果して三楽が申せし様にぞなりにける。

《試訳》
さて、もしもこの小田原城を計略もなく力攻めで容易く攻め落とすことができるなら、この私の二つと無い命を捧げると約束しよう。これまで評判を落とすような卑怯な振る舞いは何一つしていないが、天運が尽き、敵である北条に領土を奪われて今のような不肖の身となったことは面目無いと思っている。」
と言って立ち去った。しかし、結果は三楽斎が言った通り(小田原城は力攻めではなく計略で落ちた)になったのだった。


※ ※ ※

秀吉の機嫌を取るような物言いをせず、ずばり「今の攻め方では小田原城は落ちない」と指摘した太田三楽斎。
(この時代の太田資正は、資正よりも三楽斎と呼ぶのがしっくりきます)。

天下人を向こうに堂々と自説を述べる三楽斎の姿からは、老将の武骨さや、武の本場たる坂東の武者としての誇りが伝わってきます。
しかし、実際に機嫌を損ねた秀吉から嫌みを言われるとムッとしてその場を去り、別の陣にいた石田三成らに愚痴をこぼすあたりは、あまりかっこよくありません(笑)。

名将言行録によれば、直江兼続は、秀吉の小田原城攻めを称えた後、御計略があればなおよし、という形で力攻めでない攻め方を提案したそうです。直江兼続の振る舞いは、ずばり本質を衝いて秀吉を怒らせてしまった三楽斎より一枚も二枚も上手です。

しかし、これからの人生が長い若手武将の直江兼続と、この秀吉とのやり取りの翌年に71歳でこの世を去る老将・太田三楽斎では振る舞いに違いが出ても当然とも言えます。

北条氏を倒すため、秀吉とは早くから(本能寺の変前から)外交関係を結んでいた三楽斎ですが、その後天下人として振る舞うようになる秀吉とはあまり関係が上手く行っていません。

関白だろうが、天下人だろうが、老い先短いこの身は何も怖くない。坂東武者の智恵を見せてしんぜよう。と、老三楽斎は思ったのか。
あれほど憎んだ北条氏ですが、誰よりもその強さを知る三楽斎が、「北条と小田原城を舐めるな」という気分になっていたと空想することもできます。


秀吉が気分を害したのも、痛いところを衝かれたからなのは間違いないでしょう。
山中城などの支城を落とし、小田原城を完全包囲したまでははよいものの、その後は攻め手に欠き、陣内には長陣への倦怠感が出始めていたと言います。
長陣に嫌気が差し始めた陣内の悪い雰囲気を一掃しようと力攻めの話を出したところ、三楽斎から「そもそも計略がなってない」と言われたのでは、天下人も立つ瀬が無かったことでしょう。


いずれせよ、陣屋での語らいでは、秀吉は機嫌を損ね、嫌みを言われた三楽斎も憤慨してその場を去る、という最悪の展開となりましたが、小田原城は三楽斎が言った通りのやり方で落ちることになります。

「果して三楽が申せし様にぞなりにける」は、太田資正ファンには胸のすく締めの一文です。

三楽斎は、天下人秀吉の前でも怖じることなく振る舞い、そして結果としては一本取ったのです。


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付論:三楽斎と秀吉の対面はいつのことか」も書いてみました。