太田資正にとって、運命を決する戦いだった永禄五年の武州松山城合戦。

武田信玄・北条氏康の連合四万の大軍を迎え撃つべく、資正は「岩付千騎」から精鋭を選りすぐり、堅城として名高い松山城に籠城させました。

この時、松山城の本丸に入ったのが、三田五郎左衛門です。
関八州古戦録』では、三田五郎左衛門の他に、太田家の譜代家臣である太田下野守広沢尾張守が同城に籠ったとしますが、籠城衆の筆頭として紹介されるのは、この三田五郎左衛門です。

太田家の譜代家臣として多くの史料・軍記物に名前が登場する太田下野守・広沢尾張守と異なり、三田五郎左衛門は『関八州古戦録』のこの場面にしか登場しません。にもかかわらず、太田下野守と広沢尾張守を押し退ける三田五郎左衛門の扱いは何なのか。

実は少し前から気になっていました。

しかしこの数日、『論集 戦国大名と国衆4 武蔵三田氏』を読み、北条氏に滅ぼされた同氏のことを調べる中でハッとしました。
太田氏側の史料に全く現れず、永禄五年の松山城合戦の時に突然現れた三田五郎左衛門は、その前年永禄四年に北条氏に滅ぼされ三田氏の人間だったのではないか。そう思い浮かんだのです。

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三田氏は、勝沼城(青梅市)を中心に、今日の埼玉県の日高市や所沢市までを支配下に入れた戦国期関東の中規模領主です。
もとは関東管領上杉氏の家臣であり、その後北条氏に服属しました。境遇は太田資正の岩付太田氏とよく似ており(資正も関東管領上杉氏の家臣であったが後に北条氏に服属)、当主の綱定は、資正と親交があったと言われています。
長尾景虎(後の上杉謙信)が、永禄三年に関東入りし北条氏を攻めた時も、三田綱定は資正と同様景虎側に付き、小田原を攻めています。

しかし、翌永禄四年六月に謙信(この時点では上杉政虎に改名)が越後に帰国すると、間をおかず反転攻勢に出た北条氏に三田氏は総攻撃を浴びせられ、同年八月には滅亡してしまいました。

この時、三田綱定が北条氏の包囲をすり抜け、資正のいる岩付城まで逃れたという伝承があるそうです。その伝承は、綱定が資正の眼前で切腹して果てたと伝えています。信頼性が低いとされるこの伝承ですが、三田一族の残党が資正を頼って逃れた史実があってこそ生まれたもの、と考えるならば、一定の史実に裏打ちされているかもしれません。

三田五郎左衛門が、それまで太田氏側史料に現れなかったのに、松山城合戦で忽然と姿を表し、太田氏の重臣達を押し退けて松山城籠城衆の筆頭に名を連ねた謎も、五五郎左衛門が、資正の盟友・三田綱定の一族の者だったと考えれば説明がつくでしょう。

休日出勤中の現実逃避の中で思い付いた仮説ですが、意外にいい線を行っているような気がします。
真相は分かりませんが、こう考えた方が、物語としては面白そうです。

【追記】
論集 戦国大名と国衆4 武蔵三田氏』に収録されている黒田基樹氏の「総論 武蔵三田氏の系譜と動向」に興味深い記述がありました。
ちなみに『海禅寺過去帳』、あるいは『三田家覚書』では、綱定には、嫡男五郎太郎・弾正忠氏忠、次男重五郎綱重、三男喜蔵綱行の三男があったとし、氏忠は元亀三年三月十一日に小田原もしくは伊豆で生害したと伝えている

三田五郎太郎」と「三田五郎左衛門」は近いですね。
黒田氏は、三田五郎太郎(弾正忠氏忠)と三田五郎左衛門の関連性については一切指摘していませんが、私の中では仮説にすこし自信が湧いてきました。


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