さいたま市岩槻(岩付)の戦国領主・太田資正(三楽斎)家臣たちに関する備忘録
その7.三田五郎左衛門
~松山城に籠城した岩付衆の精鋭~

・永禄五年の松山城合戦(北条氏康が武田信玄を伴って武州松山城を攻めた合戦)において、太田下野守とともに、精鋭二百騎・雑兵数千を率いて松山城本丸に籠城。
(『関八州古戦録』から)
-松山城合戦で松山城に籠った岩付衆が精鋭だったことは、『太田資武状』の「岩付ヨリよき者弐百騎付、松山之城主ニ仕候処」の記述からもわかる。
-この時の松山城籠城衆の戦いぶりは、後世様々な軍記で称えられるものであったが、最終的には、城主・上杉憲勝が武田家臣の調略に応じて落城。(『武州松山城書捨』『北条記』『甲陽軍鑑』『上杉家御年譜』『関八州古戦録』等)

【関連】松山城地形図

松山城の地形と縄張り



三田五郎左衛門のイメージ
三田五郎左衛門に関する記録は、私が見つけた限りでは、『関八州古戦録』における松山城合戦のくだりのみ。

『関八州古戦録』において、三田五郎左衛門は、太田資正の命を受けて松山城に籠城した岩付衆の精鋭の一人として紹介されている。

紹介の順番は、太田下野守よりも前。
松山城合戦において、太田下野守以上の奮戦ぶりを見せた剛の者だったことが伺われる。

ただし、松山城合戦の以前・以降の記録はなく、『関八州古戦録』が誤って登場させた架空の人物である可能性も。

しかし、松山城以前の記録が無いのは、長尾景虎(上杉謙信)の第一次越山以降、合戦の中で急速に頭角を表した存在だったと考えることもできるかもしれない。
太田下野守のような領地を持つ領主型の家臣ではなく、そうした家臣ら誰かの家来であったものが、合戦で目覚ましい活躍をしたのとで指揮官として資正から抜擢された・・・とすれば、記録が無いことは説明がつくだろうか。

松山城合戦以降の記録がないのは、合戦で命を落としたからかもしれない。

実在性にやや不安はあるが、武田信玄をも唸らせた岩付衆の武州松山城籠城をやってのけた剛胆な男、と捉えたい。

【追記(2015.4.6)】
三田五郎左衛門は、永禄五年の松山城合戦の前年に滅亡した勝沼城(青梅市)の三田氏一族の残党ではないか、と考察してみした。
三田五郎左衛門とは誰なのか


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