太田資正の失敗⑤~米中抗争新時代の日本の道のヒントとして」の続きです。

AIIB(アジアインフラ投資銀行)を巡るやり取りによって、覇権抗争が新たな段階に入ったことが明らかになった米中両大国。そして、その間で苦しむことになる日本。
本稿では、この三者を、戦国時代(永禄年間)の上杉謙信、北条氏、そして武州岩付(岩槻)の戦国領主・太田資正に置き換えるアナロジーを採用。その上で、上杉謙信と北条氏という新旧二大勢力の勢力争いの舞台となった関東で、同地の戦国領主・太田資正(岩付時代)が、いかに振る舞い、どのように敗れていったかを追っていきます。そこに、これからの日本の進むべき道を考えるヒントが溢れていると信じて。

前回は、太田資正が全力を注ぎこんで守った堅城・武州松山城の陥落まで、話を進めました。
難攻不落の松山城で北条・武田勢を足止めし、そこに上杉謙信を呼び込んで決戦に持ち込む、という資正の(思い描いていたであろう)戦略は、同城の落城によって破綻します。それどころから、味方である謙信は、自身の到着まで松山城を持ち堪えさせることができなかったとして、激しい怒りを資正に向けることになります。

戦略の要である松山城の喪失と、同盟の盟主・謙信の怒りを受け、資正は大きな危機を迎えることになるのです。

【参考】
謙信、松山城合戦前後の動き(下調べ備忘録)
太田資正の悲哀・上杉謙信の冷酷

※ ※ ※

1.太田資正の失敗:
力での封じ込めの破綻(続々々々々)

⑦ 北条氏との合戦の推移(永禄六年)(続)
⑦ー4.謙信の到着(永禄六年)

太田資正の要請を受け、松山城救援のために関東入りした上杉謙信でしたが、あと数日というところで、松山城の陥落に間に合いませんでした。

謙信は、永録六年二月上旬に、松山城に最も近い太田資正の城である石戸城(埼玉県北本市)に入ります。そこで謙信が見たものは、松山城から石戸城に退散する負傷した籠城衆の姿でした。

謙信は、北条・武田に合戦を挑もうとしたようです。しかし、北条・武田は奪ったばかりの松山城に籠り、謙信の野戦の誘いに乗ることはありませんでした。

訪れてみると分かりますが、松山城は急峻な山城ですが、規模の面では小さい城です。とてもではありませんが、北条三万騎、武田二万騎が入り切れるとは思えません。
おそらくは、氏康・氏政・信玄などの大将格が松山城に入り、兵力の多くは、松山城を攻める時の北条本陣(高坂付近か?)、武田本陣(岩殿山正法寺)に残されたのではないでしょうか。

【謙信到着時の松山城周辺】
謙信、松山城に対峙

そう考えば、この時、謙信が無理にでも松山城を力攻めしようとすれば、その背後を北条・武田の城攻めの時の本陣の兵力によって襲われることになります。
合戦を誘ったものの、北条・武田が相手にせず、謙信も引くしかなかったのは、こうした状況が背後にあったためではないでしょうか。さすがの謙信も、そこまでのリスクは取れなかったのだと、私は見ます。


戦略上の要所を奪われた後に同盟国が助けに来ても、その要所を取り返せるかは分からない。いや、その要所が要害であればあるほど、奪還は難しい。この時の謙信の振る舞いは、それを今日の我々に教えてくれます。

石戸城にいても何もできないと悟った謙信は、当初の味方衆の集合場所であった、太田資正の岩付城(岩槻城)に向かいます。


⑦ー5.謙信の怒り、資正に向かう(永録六年)

謙信が、太田資正の居城・岩付城に到着したのは、永録六年二月十一日だと言われています。
久しぶりに再会した両雄でしたが、対面の場は、緊張に包まれていたはずです。謙信が、不甲斐ない資正に怒り心頭だったためです。

北条記』『上杉家御年譜』『甲陽軍鑑』『関八州古戦録』『太田家譜』等の江戸期に書かれた各文書は、揃って、謙信が手を付けられぬ程に怒り狂ったことを伝えています。

謙信は資正と対面すると、怒りをぶつけます。
助けてくれと言うから、越後からわざわざ進軍してきたのに、あと数日を待てぬとは、どういうことか。これは、上杉憲勝等という臆病者に松山城を預けた太田資正の失策以外の何者でもない。資正よ、この謙信に恥をかかせた責任をどう取るつもりか。

細部はやや異なるものの、上記の各文書が伝える謙信の怒りは、およそ上のような内容です。
「上杉憲勝」は、謙信を養子に迎えて関東管領職を継がせた先の管領・山内上杉憲政の養子(血筋としては扇谷上杉の系統です)。形式上は、謙信の“兄弟”に当たりますが、そんな繋がりは、怒る謙信にはどうでもよかったに違いありません。

これらの言葉を資正に浴びせる際、謙信が怒りのあまり刀に手を掛けていた。という光景も、各文書が揃って伝えるところです。

資正にとって、命の危機を感じる瞬間だったことでしょう。
同盟の盟主は、時に同盟国にとって、敵以上に恐ろしい存在となることがある。それを如実に示すケースと言えます。

この謙信の怒りに対して、資正はどう振る舞ったか。各文書は、資正の対応についても、揃って同じ内容を伝えています。

資正は、 松山城に仕込んだ弾薬(玉薬)、矢じり、兵糧が十分であったことを目録で示し、籠城させた岩付衆が、謙信もその名を知る精鋭揃いであったことも伝えます。そして、城代に据えた上杉憲勝が臆病風に吹かれないよう、その息子達を人質に取ってあることを謙信に告げ、人質の息子達を謙信の前に差し出したのです。

己に非がないことを目録を出してまでして論理的に伝え、それでも収まるはずもない謙信の怒りの矛先として、スケープゴートとしての上杉憲勝の息子達を差し出す。この時の太田資正の対応は、小狡いものです。後世の武士道の考え方に照らせば、潔くない卑怯な振る舞いです。

しかし、生き延びるには、そうするしかありません。自国の防衛を他者に依存した者が背負わねばならない哀しい生き方だったと言えるでしょう。
同盟は、無料ではないです。

先日のアメリカ上下院議会での安倍総理の演説とそれへの反響は、日米が強く結び付いて中国を封じ込める体制が強化・再確認されたことを世界に見せつけました。
中国に対抗するにはアメリカとの緊密な連携を重視するのは当然のことであり、この演説を私は支持しますが、当時に思うこともあります。

日本はこの同盟にどれだけのコストを払うことになるのだろうか?
アメリカの庇護・協力は、無料ではありません。同盟の盟主が時に最大の脅威になりうることを私たちは、忘れてはいけないと思うのです。
(かといって、「アメリカ覇権に否を突き付け、中国に従属せよ」と言わんばかりのリベラルメディアのお花畑国際論に与する必要はありませんが)


さて、謙信。
資正が差し出した上杉憲勝の人質をどうしたか。実はこの部分だけ、上記の各文書で、顛末が異なります。

上杉家御年譜』は、謙信が人質を斬ろうとしたものの、憲勝の責を罪のない息子達に負わせることを不憫に思い、その命を資正に預けた、と伝えます。中立的とされる『関八州古戦録』も同様です。
しかし、『北条記』『甲陽軍鑑』『太田家譜』は、異なる結果を記しています。
謙信は、差し出された人質の髪を左手て掴むと、右手で引き抜いた刀で四ツに斬り捨てた、というのです。しかも、それで少しは気が済んだのか、謙信は資正を許し、仲直りの酒を酌み交わし、近くにこの雪辱をすすぐに相応しい攻めるべき城はあるか、と問うのです。『北条記』『甲陽軍鑑』は、敵である北条・武田側の軍記物ですが、、『太田家譜』は先祖資正が従った謙信に敬意を示す太田家の資料。
謙信の実際の振る舞いがいずれであったかは分かりませんが、憲勝の息子達を斬り捨てた可能性は低くはないはず。

そうであれば、小説やドラマでは描かれない、激情のままに振る舞う謙信の姿がそこにあったことになります。己の覇権イメージを失墜させたことへの怒りも、謙信の中にはあったのかもしれません。


⑦ー5.謙信の反撃(永録六年)

人質を斬ったことで、謙信の激怒も収まります。
また、謙信が召集した関東味方衆も、この頃(永録六年二月中旬)には続々と軍を進めていました。房総の里見氏は、謙信の数日後には、岩付城に着陣したようです。常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏の出陣の報も届きます。

一方、松山城を北条氏とともに攻めた武田勢二万騎は、謙信が岩付城にいる間に、素早く陣を畳み、碓氷峠を越えて信州に戻ってしまっていました。
信玄は、松山城攻めのため、関東に深入りした状態をいつまでも続けるのはリスクかあると見ていたのでしょう。謙信が援軍を受けて大軍を率いて向かってくるとなれば、さしもの信玄も楽な戦いはできません。仮に、信州との連絡路である碓氷峠を封じられれば、武田勢二万騎は、危機に陥ります。
信玄の素早い退却は、風林火山の教え「疾きこと風の如く」を地でいくものだったと言えそうです。

【信玄、関東を去る(永禄六年二月)】
武田勢の退却


これにより、状況が変わります。
武田勢が去った後の北条氏と、味方衆か集まり始めた謙信。両者の兵力の差は逆転したのです。そして、攻守が入れ替わることになります。

以下、『戦国関東の覇権戦争』(黒田基樹)に基づいて、謙信の反撃行軍を追います。

(1)騎西城攻め
謙信が北条勢力への反撃として最初に攻めたのは、岩付城の北の騎西城(埼玉県加須市)。城主は、小田伊賀守。謙信を見限って北条氏についた忍の成田長泰の実弟です。

後に石田三成の水攻めに耐えたことで有名となる忍城と同様、あるいは太田資正の岩付城とも似て、騎西城は、広大な沼に囲まれた攻めにくい城だったと言います。しかし、謙信は、資正を伴いこの城を攻め、最初は苦戦するも、数日で落城させます。

騎西城が落城したのは、永録六年二月十七日だと言われています。松山城落城に間に合わなかった謙信が、資正に怒りをぶつけた二月十一日の僅か六日後のことです。きわめて短い間に、北条⇔謙信の攻守が入れ替わったことが分かります。

【上杉謙信の反撃の経路(永禄六年二月~四月)】
永禄六年謙信怒涛の進軍


(2)成田長泰の降服
松山城付近にいた北条氏康は、騎西城を助けることができなかったことを、成田長泰に書状て詫びます。しかし、実弟を攻められた長泰に、書状での詫び等意味を持ちません。長泰には、謙信に再服属するしか道はありませんでした。

(3)茂呂氏の降服
利根川の北の藤岡城の茂呂氏も、騎西城の落城に恐れをなして、謙信に降服します。

(4)小山城・結城城攻め
謙信は利根川を越え、次はやはり北条氏側の領主であった小山城(祇園城)の小山氏を攻めます。この頃には、佐竹氏、宇都宮氏の軍勢も合流していたようです。謙信勢は、圧倒的な兵力で、北関東を進軍したことになります。

小山氏は、永録六年三月二十四日に降服。謙信は隣の結城氏を攻めますが、当主・結城晴朝が、降服した小山秀綱の実弟であったのとから、その扱いを秀綱に委ねてさらに北進します。

(5)唐沢山城攻め
次の標的は、前年に謙信を裏切った下野国の佐野氏。謙信は永録六年四月に、難攻不落で知られる佐野氏の唐沢山城を攻めています。前年にこの城に籠って謙信を撃退した佐野氏でしたが、この時は謙信の勢いを止めることはできませんでした。抵抗期間は短く、すぐさま降服を申し出ています。(実際には降服条件が長引き、正式な降服とはならなかったようです。)

(6)桐生佐野氏の降服
謙信の唐沢山城を目の当たりにして、下野佐野氏の同族・桐生佐野氏も、謙信への従属を申し出ます。



謙信が関東を去ったのは、永禄六年四月十八日。
二ヶ月間の行軍により、謙信は、岩付領より北の北条氏服属の領主らの大半を、己に再服従させることに成功します。前稿で、謙信が永録五年末に越山した際の関東の謙信側領主、北条側領主を地図上にまとめました。あの地図上で青丸で示した北関東の北条側領主は、小田氏の除いて全員が再び謙信に従属することになったのですから、この時の謙信の反撃の凄まじさは分かろうと言うもの。

まはに、関東の統治者「関東管領」としての上杉謙信の圧倒的な実力を内外に見せつけた行軍でした。謙信は、大いに面目を躍如したのです。



実際、謙信のこの反撃に全く対応できなかった北条氏康は、関東の盟主としての威信を失います。
北条氏の同盟相手であった南陸奥の芦名氏は、氏康に書状を送り、
・謙信の反撃に対して味方衆を助けにいかなかったのは、とんでもないことだ。
・奥州でも皆「氏康は頼りにならない」と言い合うまでになっている程だ。
と詰りました。

信玄の力を借りて、要所・松山城を落とす大勝利を得た氏康でしたが、その後の謙信の反撃に対応できなかったことで、その威信は一時とは言え、地に落ちたのです。


⑦ー6.資正、「断じて無力」(永録六年)

面目躍如した謙信と、権威失墜した氏康。
関東の覇権をかけた両雄の戦いは、謙信側が大いに有利になった、と言いたいところですが、その後の展開は異なりました。

謙信が越後に戻ってしばらくすると、北条氏が要所・松山城を奪ったことが、じわりじわりと関東の勢力図に影響を与えるようになったのです。

松山城は、太田資正の岩付領(岩槻領)を西から攻略する基点となりました。

岩付領は、荒川(当時は入間川)と元荒川(当時は荒川)に挟まれた、北西から南東にひし形上に広がる大宮台地とほぼ一致する領域。この大宮台地は、南西から北東に攻め込むには、多くの尾根と沼地を越えねばなりません。しかし、北西から南東の移動は、途切れることなく繋がった尾根(中仙道)の上を進めばよく、行軍が用意です。

松山城は、この岩付領の尾根筋の北西の入り口に位置する城でした。この城に対峙し、岩付領側には石戸城がありましたが、要害としての堅牢性は、松山城と比べれば勝負になりません。

松山城に拠って石戸城と戦えば、松山城が有利であり、石戸城の防衛ラインを越えれば、そこには太田資正の岩付城まで攻め込む道が目の前に現れます。 松山城を失ったことで、資正は圧倒的に不利になったのです。

(この地形論は私のオリジナルです。眉に唾を付けつつ読んでください。)

【大宮台地と岩付領】
大宮台地と岩付領

【松山城から岩付城への地形】
大宮台地と松山城


この松山城の戦略上の価値は、太平洋戦争における沖縄に近いと言えます。
「大日本帝国」は、沖縄を奪われたことで、米軍による本土上陸(九州から上陸し本州を攻める作戦)を防ぐ手立てを失います。
資正もまた、松山城喪失によって本土=岩付領への北条氏“上陸”を防ぐ手立てを失い、大いに困窮することになったのです。


謙信が越後に帰国して数ヶ月後に始まった、北条氏の岩付領攻撃によって、資正の居城・岩付城(岩槻城)付近まで攻め込まれたようです。
余談となりますが、江戸時代末期に書かれた『岩槻巷談』が伝える“加倉畷の合戦”は、この頃の北条氏による岩付城攻撃と岩付衆による迎撃戦の記憶が、合戦譚として、まとめられたのではないか、と私は考えています。(「幻の合戦・加倉畷の戦い」を書いた時とは、少し見立を変えました)

岩付城が乗る岩槻支台(大宮台地の一部)の斜面を利用して北条勢を撃退する加倉畷の合戦の顛末は、居城・岩付城の目前まで当時の資正が攻め込まれていたことを伺わせるものです。

【加倉畷の合戦の地形(岩付城周辺)】
加倉畷の合戦の地形

こうした資正の窮状ぶりを、謙信は里見義弘宛の書状で「断じて無力」(岩付之事、去秋以来断而無力)という危機感に満ちた言葉で評しています。

資正が北条氏に追い詰められれば、半年前の謙信の進軍に恐れをなして再服属した北関東の領域らも、北条氏への再度の寝返りを考えざるを得なくなります。

一城(松山城)を苦戦しながら落とした氏康と、圧倒的な軍事力で複数の有力領主ら(成田氏、茂呂氏、小山氏、結城氏、佐野氏、桐生佐野氏)を再服属させた謙信。
一時的に評判を高めたのは謙信でしたが、時間が経てば経つほど、戦略上の要所を獲った北条氏に、形勢は傾いていったのです。


この時の北条氏と謙信の形勢の推移を見ていると、要所を押さえることの重要性を痛感させられます。

仮に、尖閣諸島・沖縄が中国に奪われ、その統治下に入れば、その後、日米が見掛け上派手な反撃をしたとしても、結局は日本は大いに不利になります。派手な反撃で、アメリカは面目を躍如することはできても、日本の命運は、それとはまた別の問題です。

要所防衛の意義は、自国と同盟国で異なること(それ故同盟国頼りではいけないこと)、奪われれば奪還は困難であること、等を踏まえて考えなおかねばならないことなのです。



断じて無力」とまで評された永録六年秋の太田資正ですが、そのまま岩付城に籠城してジリ貧となる道は選びませんでした。

資正は、形勢を逆転すべく、乾坤一擲の大合戦を企画します。
この資正最後の賭けについては、次稿で述べたいと思います。

太田資正の失敗⑦