太田資正の失敗⑦~米中抗争新時代の日本の道のヒントとして」の続きです。

AIIB(アジアインフラ投資銀行)を巡るやり取りによって、覇権抗争が新たな段階に入ったことが明らかになった米中両大国。そして、その間で苦しむことになる日本。
「太田資正の失敗」シリーズは、この三者を、戦国時代(永禄年間)の上杉謙信、北条氏、そして武州岩付(岩槻)の戦国領主・太田資正に置き換えるアナロジーを採用しています。
中規模領主に過ぎなかった太田資正が、越後の軍神・上杉謙信と結び、大大名である北条氏を向こうに回して行った四年間の大奮戦。この戦国時代の抗争劇の顛末には、今後の日本の進む道のヒントが満ちていると私は考えています。

本シリーズでは、これまで七回にわたり、永禄四年六月~永禄七年七月まで続いた岩付領主・太田資正の北条氏封じ込め作戦の顛末を追ってきました。
太田資正の失敗① ・・・岩付領の地政学等の整理
太田資正の失敗② ・・・永禄四年:三田氏滅亡~松山城合戦の一時的勝利
太田資正の失敗③ ・・・永禄五年(1):北条氏の広域攻撃
太田資正の失敗④ ・・・永禄五年(2):松山城合戦
太田資正の失敗⑤ ・・・永禄六年(1):謙信登場と松山城の陥落
太田資正の失敗⑥ ・・・永禄六年(2):謙信の反撃と資正の窮地
太田資正の失敗⑦ ・・・永禄七年:国府台合戦の大敗~岩付追放

前回ようやく、資正の最期の賭けであった国府台合戦での大敗と、資正の岩付追放にまでたどり着くことができます。

太田資正は、なぜ勝てなかったのか。
その理由は、資正の奮戦を追った各回で都度述べてきましたが、今回、その総括を行いたいと思います。

※ ※ ※

1.太田資正の失敗:
力での封じ込めの破綻(続々々々々々々)

⑨太田資正は何故勝てなかったのか

太田資正は何故勝てなかったのか?
この問いへの答えは、決まっています。

武蔵国の六分の一程度の領地しか持たなかった資正が、伊豆国・相模国・武蔵国南部と西部・上総国の大半を有する大大名である北条氏に勝てなかったのは、当たり前のこと。
圧倒的な国力差があり、しかも小は大と国境を接し、頼りにする同盟国は強国ながらも、遠方にあった。この条件下で、小が大を封じ込めるのが、そもそも不可能なのです。

しかし、そう単純化してしまうと、歴史から学べるものは減ってしまいます。
太田資正は、後世名将の一人と称えられた人物。大大名北条氏に戦いを挑むに際し、彼なりの勝算があったはずです。

資正には如何なる勝算があったのか。
そして、その計算は如何にして狂っていったのか。
本稿では、こう考えていくことで、資正が勝てなかった理由を分析・総括します。

太田資正には如何なる勝算があったのか。
太田資正が北条氏封じ込めにおいて頼りにしたと、考えられるものを以下に列挙します。

(1)上杉謙信
(2)関東味方衆
(3)精鋭・岩付千騎
(4)要害・武州松山城
(5)最新兵器・鉄砲とその活用術
(6)最新通信技術・犬の入替え

資正が、北条氏に勝てるとした勝算の根拠は、およそこの6つでしょうか。
以下、これらが何故資正に勝利をもたらすことができなかったのかを振り返ります。


⑨ー1.上杉謙信の“越山”支援の限界

・軍事の天才
「太田資正の失敗」シリーズを書き進める中で、永禄年間の上杉謙信の動きを追ったことで、わかったことがあります。それは、上杉謙信という男が、誇張なく軍事の天才である、ということです。

越後から甲斐・信濃の武田信玄、関東の北条氏を同時に相手にする二正面作戦を戦いつつ、その中で関東に対しては険しい三国峠を越えての“越山”をたびたび繰り返し、しかも現れればほぼ百戦百勝。

これだけのことができる戦国武将は、この時日本に何人いたか。
絶え間ない遠征を家臣団に厭わせることなく統率したカリスマ性、戦えば必ず勝つ野戦指揮官としての図抜けた軍才。それは、傑出したものだったと言わざるを得ません。
資正が、謙信と組んだならば、北条氏に勝てると踏んだのも、無理からぬところです。

もちろん、越後に拠点を置く謙信が単独で関東全域を押さえることは不可能です。
それは資正とて分かっていたはずです。むしろ、「それ故に、関東の片腕たる岩付の太田資正の存在価値が高まる」と考えていたことでしょう。

しかし、結果から振り返れば、その資正の読みは甘いものでした。謙信は、天才的な軍事の才を発揮しつつも、資正の北条氏封じ込め策をサポートしきれなかったのです。

・二正面作戦の限界

謙信の行動に限界をもたらしたのは、北条氏の同盟相手であり、甲斐・信濃から越後や上野国を攻撃した武田信玄でした。
謙信自身は、武田・北条との二正面作戦を戦いつつ、この二つの強敵に対して戦場で劣後することはありませんでした。しかし、謙信が、二正面作戦にその身を奪われたことが、関東の謙信味方衆、とりわけ資正を窮地に陥れたのです。

一度目は、永禄四年の夏です。
謙信が越後に帰国すると同時に始まった北条氏の反転攻勢に対して、謙信は素早く対応することができませんでした。それは同時期に、謙信が生涯最大の激戦だったと言われる「第四次川中島合戦」を、信玄と戦っていたためでした。
この間、謙信の味方についた勝沼(青梅)の三田氏は北条氏によって滅ぼされ、花園(秩父・長瀞)の藤田氏も調略されました。
これによって、資正は、反転攻勢に燃える北条氏と直に向き合うことになったのです。

■永禄四年の上杉謙信の二正面作戦
上杉謙信は何をしていたのか

二度目は、永禄六年の夏。
北西の守りである松山城が陥落し、いよいよ“本土”である岩付領を直接攻撃されるようになった資正を、謙信は助けられませんでした。謙信がこの時、上野国西部に信玄が築いた進出拠点を叩いていたためです。
謙信が、越後から上野国、さらに武蔵国に南下するルートは、武田信玄が信濃国から碓氷峠を越えて上野国西部に進出していたため、西から脅かされていました。
謙信は、上野国より南に出るには、信玄の拠点を叩かざるを得ず、それにより軍事行動範囲が限定されてしまったのです。

信玄が、信濃国や上野国に進出して謙信を脅かしたことが、謙信の(資正が奮戦する)南関東への進軍を妨げたと言えます。

資正は、頼みの謙信の動きが、信玄の攻撃によって大きく制約されることをどこまで見込んでいたか。

資正レベルの中規模領主に求めるのは酷かもしれませんが、北条ー武田の連携を妨げる、あるいは離間策を講じる等の手を打つことなく、謙信をして一人で北条・武田の二敵と戦わせてしまったのは、戦略上の過失と言えます。


・勢力範囲の限界

北条・武田との二正面作戦は、謙信の軍事行動を制約しました。
しかし、それ以前の問題もありました。そもこも関東は広く、それが故に越後にいる謙信が勢力を及ぼせる範囲が限定されたことです。

関東管領」としての謙信の地位は、先の管領・山内上杉憲政から譲られたもの。その憲政のもともとの勢力基盤は、上野国でした。それ以外の地域は、関東管領の権威は仰ぎつつも、各領主らが、独立した領国経営をしていた地域。謙信が、山内上杉憲政から関東管領の地位を譲り受けようと、実質的に謙信の統治下に入ることには、抵抗がありました。
この抵抗感を最も強く示したのが、下野国の佐野氏でした。

越山の記録を辿ると、上杉謙信が、下野国佐野氏を抑え込むことにリソーセスを割かれていることが分かります。
永禄五年春の越山の際、謙信は、資正が岩付領各地を北条氏に攻められる中、佐野氏を攻めるのに忙しく、救援に現れることができませんでした。
永禄六年の松山城陥落後の謙信の反撃は、佐野氏やその周辺の領主らを従属させるためのものでした。

■永禄五年春の越山、謙信は佐野氏を叩くことに忙殺された


永禄六年の謙信の大反撃も、対象は佐野氏ら北関東の領主だった
永禄六年謙信怒涛の進軍

謙信は、その後も、越山の度に佐野氏を攻撃しています。
これは、関東における謙信の勢力が、実質的には上野国一国の領主としての力に留まっていたことの証拠と言えます。

謙信の勢力範囲は、上野国一国であり、その外側に進軍するには、佐野氏ら北関東の領主らとの軋轢を克服することが必要でした。
南関東で北条氏と対峙する資正にとって、謙信は、前線まで助けに来てくれる存在ではなかったのです。

北関東の謙信、南関東の資正。
南関東の資正の助け無くして、謙信の「関東管領」の覇権は成立し得ない。
それは資正の目論見どおりだったのかもしれませんが、謙信の勢力が北関東に留まってしまったために、資正は、北条氏の反転攻勢を“一人”で受け止めざるを得ない状況に陥ることになります。

資正は、謙信の力をもう少し上と想定していたのか。あるいは、背後さえ謙信に固めてもらえば単独で北条氏を抑え込めると、自身を過大評価していたのか。

いずれにせよ、資正の読みは外れたことになります。


・覇権国は負けられない

覇権国が持つ影響力の半分は、“幻想”です。
謙信の場合、“幻想”の源は、「関東管領」の地位であり、永禄三年~四年の越山で、北条氏を圧倒して小田原城を包囲するまで追い詰めた実績です。

覇権国は、時にこの幻想を守るために、負ける可能性のある戦いを、それが戦略上重要であっても、避けることがあります。

謙信の場合、永禄五年末~六年二月の松山城合戦が、どうもそれにあたる気配があります。
謙信にとって、北関東を北条氏から防御し、南関東への進撃を可能にするために必要だった要害・武州松山城。資正は、自身の生殺与奪を握るこの戦略上の要害を守るために、選りすぐりの精鋭と最新兵器を投じて、北条・武田五万騎超の大軍を迎えて善戦します。しかし、資正が頼りとする謙信は、十二月には関東入りを果たしていたにも関わらず、味方衆に召集をかけ、その参陣の見込みが立つまでは、松山城に駆けつけませんでした。

この時、謙信が率いた軍勢は八千。北条・武田五万騎に数で大きく劣後し、戦上手の信玄を相手に戦うのは危険でした。
しかし、相手は混成部隊。謙信勢が一丸となってぶつかり、ヒット&アウェーの戦いを挑めば、松山城の包囲を解かせることはできたかもしれません。

結局謙信は、自身の不敗神話の崩壊を恐れてか、遮二無二松山城の救援に向かうことはしませんでした。
そのお陰で、謙信は己の権威を守りました(その後の北関東での反撃で「謙信は恐るべし」の評は更に高まった程です)が、戦略的な要地を失います。それによって謙信の関東での勢力は、以降ジリ貧に追い込まれていきますが、松山城に頼る度合いの高い資正は、ジリ貧どころか、ドカ貧となっていったのです。

戦ってくれるはずの同盟の盟主が戦いを避ける。ここぞの一戦で、謙信にこの行為を取らせたことが、資正の命運を断ったと言えます。

もっとも、『北条記』の記述を信じれば、松山城が北条氏に攻撃された際には、謙信と里見氏が後詰め(救援)に駆け付けるとの約束が事前に交わされていたと言います。
これが本当ならば、資正は、松山城防御の“ここぞの一戦”で、北条側との兵力差が出ないように備えをしていたことになります。

資正が抜かったのではなく、一気に五万騎もの軍勢を集めて松山城攻撃に当たった北条氏の“戦力一斉投入”の決断の果敢さを称賛すべきなのかもしれません。


・利を撒かなかった謙信

謙信は、永禄三年から四年にかけて実施した第一次越山の際には、ほぼ関東中の領主が謙信に従い、小田原城包囲に参加しました。

しかしその後、謙信に従った領主らの多くは北条氏に再服属し、謙信とは敵対していきます。謙信の味方衆として残ったのは、太田資正(岩付)、簗田晴助(関宿)、里見義尭・義弘(安房・上総)、宇都宮氏(宇都宮)、佐竹氏(常陸国太田)などわずかでした。

謙信が、多くの領主らの離反を招いたのは、謙信が「北条氏からの独立」以外のメリットを与えなかったため、との指摘があります。

以下に引用する井上恵一氏の総括は、その代表的なものと言えるでしょう。

こうして武蔵をまためぐる後北条・上杉両氏の抗争は、事実上、上杉謙信の敗北に終わった。その理由は種々あるが、上杉氏が関東の領主を軍事動員するのみで、その領国化に熱意を示さなかったのに対し、後北条氏が、検地や商業統制・支城体制等により、占領地域の領国化を推し進め、在地領主・土豪・農民ら農民ら掌握に成功したことにもよるであろう
(井上恵一(2014年)『後北条氏の武蔵支配と地域領主』)

北条氏は自身の領国+従属する周辺領土らの領地=惣国を、ひとつの経済圏として機能させるために、数々の経済政策を行いました。
街道を張り巡らせ、宿・伝馬を整備し、楽市楽座を導入。後の天正年間のことですが、北条氏政は下総国佐倉湊に対して、「役銭に関して明確な徴収規定が無ければ廃止せよ。役銭が無ければ来航船が増え、湊も周辺地域も繁昌する」と命じた記録が残されています(黒田基樹『戦国大名』より)。 北条氏が、惣国内の経済を重んじ、的確な政策を打っていたことが伺われます。
撰銭の禁止という一種の反デフレ型の通貨政策にも力を入れました。

一方、十年間に渡り、ほぼ毎年のように関東に攻め込んだ謙信は、このような経済圏の形成を行った跡はありません。
謙信は、祖国・越後では種々の経済政策を講じていますが、攻め込んだ先の関東では、味方衆を引きずり回し、ひたすら合戦を行わせたのです。

北条氏に従属することは、関東の戦国領主らにとって大きな経済圏への参入を意味しました。しかし、謙信に味方することにそうした経済的なメリットは無く、その対価は「北条氏からの独立」のみでした。

里見・佐竹のように、北条氏に取って替わろうとしている大領主にとって、「北条氏からの独立」には大きな価値がありましたが、それ以下の中規模・小規模領主には、どうでもよいことです。

最初の越山以降、中小規模の領主らが次第に謙信のもとを離れ、北条氏に再服属していったのは、彼らの利を考えれば当然のことだったと言えます。

同盟の盟主に求められるのは、大義や軍事力だけではありません。同盟国に、安定と経済的な繁栄をもたらすこともまた、盟主の役割です。特に、同規模の勢力と覇権を競う際には。

資正は、謙信がこの点において北条氏に劣ることを知った上で従ったのかもしれませんが、謙信が関東の味方衆の離反を許す原因となり、結果として資正の窮地を謙信に助けてもらえない状況を生むことになりました。


・「上杉謙信“越山”支援の限界」まとめ

まとめます。

太田資正が、上杉謙信という軍事の天才に支援を頼みつつも、なぜ北条氏に勝つことができなかったか?


1.謙信は、北条・武田の二正面作戦を行ってしまい、資正ら関東味方衆の支援に限界が生じた。

→理想論を言えば、資正は、この二正面作戦の状況を崩して謙信のリソーセスを関東に集中させるような策(北条ー武田離間策)を打つべきでした。


2.実態として謙信の関東の自賠法地域は、『関東管領』の称号に反して上野国一国であり、南関東で戦う資正の支援を行う実力は、謙信にはなかった。

→資正は、謙信の力の限界を補う手を打つべきでした・・・と言うは易し。里見氏と連携や要害松山城と鉄砲を活用した持久戦(後述します)によって、資正は「謙信頼もしからず」の状況を耐えることを画策していた模様。策は打ったが、北条氏にその上を行かれた、が真相かもしれません。


3.謙信が“ここぞの一戦”(松山城合戦)で合戦を避けたことで、資正は本土防衛上の要所を失ってしまった。

→遠方から援軍にくる謙信を待つため、資正は松山城を鉄砲で武装し、固く守りました。しかし、間に合ったはずの謙信は、北条・武田の大軍との決戦を避けました。
これは、資正の失策というよりも、「謙信ですらおいそれと手を出せない大軍」を用意した北条・武田の作戦勝ちです。(友人ジャワさんのコメント欄の指摘を採用)

その意味では、謙信に北条・武田との二正面作戦を戦わせたことの失策が、ここでも効いてきた、見るべきなのかもしれません。


4.配下に利を撒かない関東での謙信の統治スタイルが、味方衆の離反を招き、北条氏を数で圧する(最低でも互する)ことを不可能にした。

→これは、謙信の致命的な欠点です。この欠点を補う手立てが資正にあったかと言えば、おそらく無かったのでしょう。資正にできたことは、諫言・進言くらいでしょうけれど、それを謙信が採用したとは思えません。
敢えて言えば、資正は、謙信に付く時点で、謙信のこの欠点を目を反らさず、「この天才と組めば北条氏に互せる」という夢から覚めるべきでした。

(余談)
友人ジャワさんが「成田長泰について」で指摘している通り、謙信のこの欠点を最初に見抜き、謙信を見限ったのは、成田長泰だったのでしょう。
謙信が鶴岡八幡で『関東管領』に就任したその時に、謙信と決裂した長泰は、未来が見えていたのだと思います。
夢を見続けようとした資正と、現実を見て直ぐに夢から覚めた長泰。この二人の謙信との接し方は、対照的です。


・現代日本への示唆

資正が頼った上杉謙信の限界の考察から、現代日本への示唆も考えてみます。

現代日本を太田資正とする時、隣国の巨人・北条氏は中国、同盟相手の遠方の謙信はアメリカに当たります。

世界最強の軍事力を持つアメリカですが、これを頼って中国を封じようとする現代日本は、「太田資正の失敗」を繰り返さないために、気をつけねばなりません。


◆一つは、アメリカに二正面作戦を行わせないことです。

アメリカが如何に最強の国であろうと、ロシアとの紛争、ISISとの戦争を戦いながら、中国とも戦うのは不可能です。
特に、ロシアが中国側につけば、中国は背後を脅かす存在が無くなり、アメリカとの海戦に戦力を大胆に投入できることになりす。

加えてロシアがクリミアで、ウクライナを脅かす行為を行えば、アメリカは、南シナ海とクリミアに兵力を分散することになり、アメリカが中国を圧する迫力は、大きく損なわれます。

アメリカが本気で中国を押さえ付けるならば、ロシアと同時に戦わせてはいけません。
ロシアに中国を攻めさせることが無理でも、ロシアに中立を守らせること。場合によっては、ロシアが火事場泥棒的に中国を攻める展開もあり得るかもしれないと、中国を疑心暗鬼にさせることが肝要です。

中ロ同盟は、謙信と資正を打ち砕いた北条・武田同盟と同じです。


◆2つ目は、アメリカが日本のために“ここぞの一戦”を戦ってくれないことを想定しておくこと。

覇権国は、圧倒的な強国というイメージを守ることを重視した結果、同盟国の興亡を決する戦いへの参加を躊躇する時があります。もちろん、同盟国を見捨てた頼もしくない盟主と後ろ指指されることは、覇権国が最も気にし、避けようとすること。しかし、救援に向かえない仕方ない理由(例えば議会の反対)が立てば、その限りではありません。

上杉謙信は、その後の資正の興亡を決定することになる松山城合戦において、味方衆が揃うまで戦場に赴きませんでした。

同じことは、米中対決でも起こり得ます。

同盟相手が即座に助けてくれることを期待した作戦は、立ててはいけません。仮に同盟国が来なくとも、少なくとも中期的に互角に戦える条件が揃わないのであれば、そもそも戦いを挑んではいけないのです。

難攻不落の要塞松山城、鉄砲を備え、膨大な兵糧・物資とともに、精鋭を詰めさせて、持久戦を戦わせた資正は、「覇権国が戦ってくれない」事態にも備えていたはずでした。
それでも十分ではなかったことは、現代日本への大きな教訓です。


◆3つ目は、自分が属する同盟側から脱落者を出さないようにすること。そのために、同盟に属することの経済的なメリット
を明確に示すこと。

軍事の天才・謙信が、毎年のように越山(関東遠征)を繰り返し、合戦で勝ち続けたにも関わらず、味方衆が次々離反をしていったのは、謙信に従属することの利が彼らに与えられなかったためです。
領国と従属する領主らの領地を、ひとつの経済圏として緻密な流通政策・通貨政策を行った北条氏に対して、謙信は味方衆に軍事的負担を負わせて共に戦うのみ。味方衆に与えられる利は「北条氏からの独立」だけでした。

これでは、里見・佐竹・宇都宮のような北条氏と永らく敵対する一部の大規模領主以外は、謙信のもとを離れて当然でした。

現代日本に当てはめれば、世界のシーレーンを防衛して公海を使った自由貿易を守っているのはアメリカです。世界の私的・公的な金融システムを支配し、金融面での秩序を維持しているのもアメリカです。
この秩序を乱そうとしているのが中国であることを考えると、「味方衆に利を与えなかった」謙信の限界は、アメリカには当てはまらないように思えます。

しかし、私はそうではないと考えます。
問題は、アメリカが維持している自由貿易も、金融面での秩序も、国際社会にフリーで提供され続けてきたために、もはやアメリカ陣営に属する果実とは見なされていないことです。
表立ってアメリカと戦争をしなければ、アメリカの覇権に挑戦を続ける中国でさえ、アメリカがフリーで提供する自由貿易と国際的な金融秩序を享受することができます。「次の覇権国は中国だ」と密かにベットする国(アメリカにとっては裏切者)も、また然り。

アメリカが世界に提供する経済的な果実は、国々をアメリカ陣営に留めるための武器にはならないのです。

むしろ、各国は、アメリカが上前を跳ねる現在のアメリカドミナントの金融秩序に対して反発心すら感じています。
アメリカが新たな国際的な経済統合の手段として提案するTPPも、同盟国に利益をもたらす面よりも、アメリカが自国の製品・サービス(特に保険)を、同盟国に売り付け、利益をむしり取るための企てとして見られてしまっています。

対して中国は、アメリカが提供する国際的な流通・金融システムをフリーで享受しながら、自国の成長するインフラ市場を“ニンジン”に、新たな中国中心の金融システムを提案し、支持を集めるに至っています(AIIB)。

賛同国に利を与える中国、同盟国の利をむしるアメリカ。
アメリカが無償で提供する国際的な流通・金融秩序がアメリカ陣営に属するメリットとして認識されない現況下では、むしろ、中国こそが従う国々に利を撒く気前のいい親分となっているのは、なんという皮肉か。

この皮肉な状況を打ち消す取組が、今のアメリカ陣営には必要です。

アジア開発銀行(ADB)が、融資枠を積み増ししたのは良い取組ですが、できることはそれだけではないはずです。

※ ※ ※

太田資正の敗因を整理する今回の投稿は、「上杉謙信」を一通り語ったところで、一旦筆を起きたいと思います。

本当は、今回でその他の項目についてもまとめて語りたかったのですが、通勤時間に断続的に、考えながら書き進めているせいか、どうも文章が冗長になってしまっています。

もっとコンパクトにまとめられるはずですが、通勤時間の趣味としては、そこまでの労力(?)も掛けられません(笑)。

太田資正の勝算材料であったはずの、
・関東味方衆
・精鋭 岩付千騎
・要害・松山城
・最新兵器・鉄砲と犬の入替え
については、次回に回すことにしたいと思います。

太田資正の失敗⑨