聴く | 歓びの種

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お山の樂校の代表あいこのおしゃべり部屋。お山のスタッフとして、2人の娘の母として、愉快な4人家族のひとりとして。日々のいろいろな出来事から私が感じることや私から見えている世界を、氣ままに書いてみようと思います。

「聴く」が出来てなかった...。

こう思うことは、日常で多々ある。

 

昨日のある人との会話。

あの人はあの言葉をどういう意味で言ったんだろ...って氣になっている自分がいる。

 

その瞬間は、「そうですよね。そんなふうに思うこともありますよね」って、

共感めいたことを言ったけど、後々思い返すと私のあの言葉は相手と会話をする上ですごく表面的だったと感じる。

 

今日になって、本当は[その人のその言葉の意図]を知りたかった自分がいる。

 

その人がどうしてそう思うのか

その人のとってそんなふうに感じる何かがあったのか

 

今思うと、私はそんなことを聴きたかったんじゃないかと思う。

 

なんで聴かなかったのか...

 

それは私の中の自己防衛があったように思う。

相手の不安や不満な氣持ちをただ聴くってことだけすればいいのに、

それを「この話は私への批判や否定なのか!?」って感じる自分の中の反応と連動させて聴いてしまいそうになって、

そんなことを感じたくないから相手の心と向き合う会話を避けたんだと思う。

 

そんな心持ちになってしまったら、人の話は真正面から聴けない。

 

そうなることは嫌なんだけど、そんな弱っちい自分が顔を出してくる時があることも自覚してるから、

それに氣づいた時にはどんより落ち込んだりもする。

 

そしてその度に、「聴く人でありたい!!」って、強く強く思う。

 

相手の言葉だけじゃなくてその奥にある本当に伝えたいことや理解してほしいことに向き合える私でいたいんだけど、

そうなると自分の持っている価値観や自己否定が邪魔になることもある。

まっさらに相手と向き合うためには自分の弱さや隠したいと思っている顔を自分で認める作業も必要。

 

それでも自分の隠したい部分はまだまだ持っている。

 

ここでもまた自分で自分をまるごと認めてあげられる大切さを感じる。

人との関わりの中で自分で自分を否定している部分に氣づいて、

氣づいたことを丁寧に汲み取って、そんな自分にオッケーを出していく。

 

そうやって自分の中の隠したいと思っている自分を見つけて、一度は自己嫌悪に入って、そこからまた自分を認めて許可を出す。

そうすると、また一つ自分が楽になる。この過程がたまらなく好きで、そんな自己探求は、もう私の趣味のようなものでもある。

 

私にとって、「聴く」の探求はとっても興味深くてこれからも飽きることがない。