さよならとはじめまして | 野良翻訳家・HanaBananaの Enjoy Life!
お久しぶりです。
新しい職場でスタートして半年、アラフィフにして手にした職は、恐縮するほど立派な企業での期待されるポジションだったので、半年間髪振り乱して、没頭して、なんとか前進しています。

そして、このたび、息子18歳の三年間にわたる闘いが終わりました。

そう、大学受験。

今日はいつもに増して、親バカですよ?

私立は文系ナンバーワン含む、親としては「どこの学校でまどの学部でもいいじゃん!」と言いたいところばかり、受かりました。序盤戦に近い学部は1つだけ落としたけど、あとは全部合格。

しかしながら、第一志望は国立。
センター試験では9割超えた点を取れたので、わずかに安心していたのですが、そこはやはり、全国の若者が血と涙の結晶を注いで目指すところでもあるので、果たして??と思っていました。もうなーんの心配もいらん!な私立が受かっていても、中学卒業の時から、「ここに行きたい」と頑張ってきた第一志望の大学なので、発表見に行くのが、どれだけ怖かったか。

電車から降りると、肩を落とした親子、空元気で「ま、しゃーない!!」と笑ってる学生、大学へ続く道すがら、どーしても目に付きます。センター試験で通過できて、その大学を受験出来ること自体、私からしたらスーパー、だから大丈夫!と思うのですが、落ちる夢を何度も見て毎日ガクブルしていた息子のこわばった様子をみると、どーーーしても合格する図が頭に浮かばずに、落ちた時のフォローの言葉ばかり浮かびます。同じ道を帰る時、どんな気持ちで歩くのか、そんなことを考えながら、親子でこわばった顔してトボトボと。

そんなこんな校門に近づくと、人だかり。息子は「一人で見てくるから待ってて」と言うので、校門の脇に呆然と立っていました。しばらくしても帰ってこない。何度も自分の番号がないのを確認して、何度もがっくりしてるんじゃないか?どーしよう。あの掲示板まで行ってみようか、などとハラハラしていたら、白い顔した息子がやって来るのが見えました。あ、これダメだったわ、慰めて、切り替えなきゃ。私立のあの学部だって素晴らしいし、受かることはなかなかの奇跡だってことたくさん言おうと近寄っていったら、

「受かってた…」

「……っえっ??」

「受かった、受かった、受かってたー」

絶句!!!

私立の時はお互いネットで合否を確認して、合格通知が速達で届くのを仕事から帰宅して見て、「えーやったねー!」な感動だったのですが、やはり見に行くのは、感動が違うものでした。

合格したとわかると、その大学の学生たちがわーーーーっと群がって部活の勧誘やら何やらしてくれるんですね。もう感動を味わう暇もない!!で、そんな喧騒から這々の体で逃げ出して、ドトールコーヒーにピットインして、改めて、「信じられない!!」と。


それから息子と連絡するところへ連絡して、ランチの時間に差し掛かったので、「ご馳走食べよう!」と言ったら、二次試験の終わりの日に帰りに食べたラーメンが食べたいと言うので「ラーメンでいいの?」と向かいました。

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美味しいラーメンでした。

その後、一駅ぶん歩いたのですが、その道すがら、息子が「二次試験が終わった日、振るわなくて、もうダメだと思ってこの道を歩いて帰ったんだ。ちょうど日が暮れてきて、涙を隠すのに良くて、それもまた泣けてきて。まさかこんな気持ちで、この道を再び歩けるなんて。悔いがないっていうのは、すごいことだね!きっと社会に出たら、こんなにはっきりと悔いがない、なにかを終えた!って経験はないから、この感動を忘れないよ」と。

もう泣くこともなくなった青年が、夕暮れの中、トボトボと泣きながら歩く姿を想像して胸が痛くなりつつ、ゴムを目一杯引っ張って離したみたいな喜びも味わいつつ、もうなんだかわからない感じでニヤニヤ。

側から見たら、春で頭がイカレタ人たち。


息子は偉かったと思います。
経済的な理由から、難関校に向けた特別な予備校に通うこともなく、家庭教師もつけず、チェーン展開してるビデオ授業(今でしょ!のところは高くて行けず、一般的な予備校)の予備校で、あとは自分であらゆる参考書問題集をやり、志望校は世界史の試験に独特のカラーがあるという定説だったので、歴史学、社会学の本も何冊も読み、やらされる受験勉強ではなく、かなり独自に頑張り通してきました。

意志を持つ、目標を持つって大切ですよね。


そう。二次試験が終わった日、息子は「映画でも行くかな。遅くなるよ」と言ってたので、残業してわりとゆっくり帰宅したら、息子がもう帰宅していて。「映画見なかったんだ」と。で、急に気をつけして、私の前に立って、こう言ったんですよ。

十八年間、育ててくれてありがとうございます。特にこの三年間はイライラする感情を持ち込んだり、お金のことだけじゃなくたくさん苦労をかけたのに、全部受け止めてくれて、なお、励まし続けてくれたことは本当に感謝してます。離婚しててくれて、僕は僕でそれがベストだったなと思ってる。離婚しなかったらパパから学ぶことはあったとは思うけど、ママが我慢して成立する家庭なら、それは家庭じゃないし、何しろ今の僕はママがいたからこそです。これから僕はどんどん家を離れて行くけれど、その僕はママが作ってくれたからね。ありがとう。ママとタッグを組んで何かにチャレンジするのは、きっとこれが最後だと思うから、お礼を言わせてください」



と。



なんかもう、有難いなんてものではなかったです。

報われる、とか、認められる、とか、そんな言葉で締めくくれるほどの言葉ではなかったです。


その日はちょうど、偶然にも離婚して十五年目の日でした。あの日、小さい小さい息子を文字通り抱えて感じた体いっぱいの不安とやる気を抱く私に、十五年後、こんな日が来ることを知らせてやりたい。十五年の間、もちろん楽しいこともたくさんありましたが、数えきれないほど、ヤバイ!もうダメだ!何で私だけ?何で何で何で??と滂沱に飲み込まれそうになったこともありました。今でこそ、ちゃんとした企業でちゃんとしたポジションで経済的にも事足りていますが、つい昨年までそこそこ有名な企業で勤めてはいたものの、契約社員という枠から抜け出せず、やる気はあるのにもっと成長したいのに、不自由と不安を感じでいました。ちょうど契約が満了となり、次こそは!!と勇んで転職活動すると、声がかかるポジションは以前と違う格段にレベルアップしたものばかりで、この一筋の光を絶対にでかいものにする!!と決心して、少し開いたドアに体をねじ込み。


そして今。


ここ数年の我が身と我が家の変化はすごいです。


そこまでやってこれた理由は唯一、息子がいたから、それだけです。


息子にお礼を言われた日、やっとの思いで返したのは、「ママが頑張れたのは、ママが50にして伸び盛りなのは、ぜーーんぶあなたがいてくれたからよ」でした。


今、改めて思います。

息子もきっとたくさん勉強して、社会に飛び立って、誰かのお役に立てるように頑張り続けるでしょう。


その息子に恥じないよう、力尽きる日まで、私も進み続けます。


息子はもう大人への一歩を踏み出しました。私が手をしっかり握って導くことは、もうないでしょう。あの抱きしめて抱きしめて抱きしめた、私がいないと何もできなかった存在を思うと寂しいものですが、これは嬉しい寂しさ。そして、息子同様、私も悔いのないって気持ちがこんなにも気持ちいいものなんだと感じています。

さよなら、小さき存在。

はじめまして、大人の息子よ。

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