大正・昭和・平成を生きる。 | HappyWomanのすすめ。

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「ひいばあちゃんは、天国に行く準備をしよるんよ」と姉が言ったら、もうすぐ5歳になる甥っ子は、「天国は何語?」と聞いたらしい。

もちろん日本語であるが、その発想に、この子は将来グローバルな人間になるのではと期待した私は、随分と計算高い大人になってしまった。

 

10月25日に祖母が他界した。満95歳の大往生だった。

私はこれで、全員の祖父母を失ったことになる。

祖母は2年前から介護施設に入っており、周囲も少しずつ、心の準備をしていた。

 

木曜日、祖母が旅立とうとしていた頃、私は絶賛、週1健康経営の真っ最中で、午前中からホットヨガにいそしんでいた。スッキリしたなと、いい気分でランチをしていたら、母から知らせが届いた。

年内は大丈夫だろう、なんて勝手に思っていたので、ビックリして「えっ」と返事を打ったあと、少しだけ泣いた。

 

故郷から離れて暮らす人間は、大事な親族の死に目に遭うことは難しい。そして、通夜や葬儀に出席するためのスケジュール調整と交通手段の手配に追われる。

翌金曜日は岐阜で取材が入っていたため、そのまま名古屋から新幹線で福岡に帰ることにした。多少ムリをしてでも、最後のお別れには立ち会いたかった。

 

■じいちゃんの声が素敵だった

 

以前、祖母に取材したことがあったことを、ふと思い出した。

物書きとしての使命感だったのか、女性をテーマにしているなら、まずは身近な女性を知らなくてどうする、と思ったのか…2015年のお正月に、生い立ちから結婚、出産までの話を私は聞いていたのだ。その音声を改めて、聞いてみた。

 

大正12年、北九州市で祖母は8人兄弟の3番目として生まれた。男ばかりの紅一点。父親は酒を飲んでないときは優しかった、と言う。

10代の頃はずっと戦争だった。

戦時中は門司港の「暁部隊」(船舶司令部)で働き、そこで寝泊まりしていたという。普通の配給よりもいいものが食べられた、と話していた。

 

戦争が終わったのは、23歳のとき。

24歳で祖父とお見合いをして、結婚。祖父と初めて会ったときは、「恥ずかしくて顔なんて見られなかった」というが、「いい声だなと思った」らしい。

若かりし頃のはにかんだ祖母の姿が目に浮かぶようなエピソードだ。その後、4人の子供を育てあげ、8人の孫にも恵まれた。

 

1時間弱の取材音声は、子育ての話の途中で静かになり、お正月で少しお酒の入っていた私は、なんと途中で寝落ちしてしまっていた。最低だ。

 

母方の祖母なので、私は一緒に暮らしたことはないけれど、京都に住んでいた大学時代は、年に2回は泊まりにきて、一緒にいろんなところを巡った。卒業式にも来てくれて、「本当に一人暮らしですか」と引っ越し屋に驚かれるくらいの、大量に溜め込んだ私の4年分の荷物を、テキパキと掃除してくれた。あのときは本当に助かった。

 

▲同志社大学、今出川キャンパスにて

 

祖母の遺品を整理していたら、施設の引き出しに入っていた財布の中から、「まり恵さま」と書いた袋が出てきた。

驚いて中を見ると、2,100円が入っていた。端数に、祖母の私への思いが込められている気がした。最後まで、東京でひとり暮らす私のことを心配していた祖母だった。そして、人にふるまうことが大好きだった。

 

▲切手の袋だった

 

祖母ともう会話ができないことは淋しいけれど、もらった手紙、交わした会話、思い出はたくさんあり、私の心を温かくしてくれる。祖母は常に心の中にいて、そういう意味で、距離感は変わらない、と感じる。

 

天寿をまっとうした祖母には、尊敬の念しかない。「ありがとう、お疲れさま」と声をかけた。

葬儀でお坊さんが「極楽浄土には、痛みも苦しみもない」と言っていた。生きることは大変だから、頑張って生きた結果、そんな世界に辿り着けたのだとしたら良かったなと思った。

 

死に対する感じ方は、変化していく。

絶対的に自分の味方になってくれる存在を失うことは心細いことではあるけれど、年を重ねるごとに、自分だって病気になったりいなくなったりする可能性はゼロではないわけで、そんな悲しい思いをさせずにすんだことは、心の底からほっとする。自分の役目をひとつ終えたような、安心感がある。

 

そんな40歳手前の私と、まだ5年弱しか生きていない甥っ子とは、もちろん感じるものが大きく異なる。

お別れの場では、幼い子の無邪気な姿が哀しみを引き立てると言うけれど、初めての死に接した甥っ子は、大人以上に号泣していた。

特に、お骨を見たのはショックだったようだ。

「ひーばーは悪いことをしたから焼かれたの?」と何度も聞いて、ママに抱きついて離れなかった。「ママの顔はずっとあったかい?」と夜まで泣いていたらしい。

 

まだ幼い甥っ子には酷な経験だったのではと思う反面、身をもってこの子に死を教えるということが、祖母からの最期のギフトだったのかもしれない。

 

メメント・モリ――死を想う。

死にはその人の生き様が最もよくあらわれる。

じゃあ、自分はどう生きるのか。

その問いかけを胸に、生きている者は、また新たな日々を刻んでいくのだ。