吃音が「治る」とはどういうことか | ひろせカウンセリング若手ブログ

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吃音自助グループ廣瀬カウンセリング東京教室の、若手メンバーによるブログです。

ネットで吃音について調べていると、吃音者の方が書いた文章やコメントを見かけることがあります。

 

そこで気になるのは、みなさんが「治る」という言葉を、どのような意味あいで使っているかということです。

 

緊張したときや咄嗟に話すときには、吃音でない人でも言葉が突っかかることがあります。これは言葉がよほど流暢でないかぎり、ほとんどの人にあるはずです。

 

治るというのが、このくらいのレベルを指しているのであれば、私は特に吃りやすい場面以外では「治った」といえるでしょう。

 

しかし、どのような場面でもよほどのことが無い限り吃らないというレベルを「治った」というのであれば、私は治っていません。

 

「治る」ということが、自分にとってどのくらいのレベルを指しているのか、ということを改めて見直してみる必要があるように思います。

 

もしかすると、普通の人でもあり得ないほどの流暢さを「治った」状態であると見なし、それに至らないことで、いたずらに苦にしているということはないでしょうか。

 

それから、吃っているとしても、それが実生活上、どれだけ支障があるかという観点も大事です。

 

吃ることが許されないとか、マイナス評価されるとか、からかわれるとか、そういう場面はたしかにあります。

 

しかし、そうでない場面もある。理解のある同僚や友人の前など、吃ってもマイナスにならない場面で吃ることを苦にしているとすれば、それはその人の受け止め方しだいで楽になれる余地があるかもしれません。

 

たしかに吃音であることは社会生活のさまざまな場面でマイナスになったり損をしたりすることもあります。しかし、そうでない場面もある。過度に吃音を苦にすることは、その人のQOLをいたずらに下げることになります。

 

わざわざそういうことをしなくてもよいのではないか、というのが私の印象です。