こんにちはニコニコ

 

 

 

鑑定師・相談役の河村ジュンです。

 

本日もどうぞよろしくお願いいたしますお願い

 

 

 

 

【祖型塾】神様に愛される人の生き方とは何か?

 

 

 

清らかな心、明るい心。

 

 

昔からの言葉に「清明心(きよきあかきこころ)」とありますが、まさに神様から愛される生き方というのは、このことであります。

 

 

そして、清らかな心、明るい心には嘘がありません。潔くて正直なのです。

 

 

正直というのは、素直であると同じこと。

わたしたちが根本的に大事にしなくてはならない心がけでもありますね。

 

 

 

神様に愛される人というのは、清らかで明るく正直な人ということになります。

 

そのことを知識(言葉)として頭に叩き込んでも、実際に行動に示さなくては何の意味もありません。

 

これを知行合一(ちこうごういつ)といいます。

 

 

 

知行合一においては、何事も「実践」を重んじます。

 

 

たとえば、「毎日を明るく元気に生きる」と認識したならば、自ずから日々の生活の中でそれを実践していきます。

 

もしもここで実践に至らなかったり、途中で投げ出して諦めたりすれば、それは知行合一にはなりません。やはり一日一日の積み重ねが大事なのであります。

 

 

 

とはいえ、人間は弱くて、もろいところがある。

 

ついでに怠け心や慢心などもあったりして、なかなか「実践」といっても貫いていくことが難しい。

 

このような状態は、「頭でわかっちゃいるけど、いざ行動するのは難しいよね」ということになるのでしょう。

 

 

 

しかしながら、それでは神様に愛される生き方からますます離れてしまいます。

 

そして離れれば離れるほど、不思議なもので人の心というのは苦しくなる。

 

 

これを迷いとも、苦悩とも言うわけです。

 

 

 

 

 

ところで神様というのは、いったいどんな存在なのでしょうか。

 

神様に愛される生き方といっても、その神様がどんな存在であるのか気になりませんか。

 

 

 

神様というのは、先ほども書きましたが、清らかな心と明るい心、それに正直な心を喜ばれます。

 

なぜならそれが人間の根源(おおもと)になるからです。

 

 

 

人間の根源(おおもと)を尊ばれる神様というのは、実はその根源(おおもと)そのものの存在なのです。

 

つまり、わたしたちの祖型(そけい)と言ってもいいでしょう。

 

 

 

もっとわかりやすく言うと、神様はわたしたちのご先祖様そのものであり、はるか古(いにしえ)の時から、わたしたちの

「今」を繋いでくださった存在。

 

 

命から命への尊き継承は、わたしたちの命がある、ただ「今」も、しっかりと存在しており、生命の活動を通して生きています。

 

もとは宇宙であり、この世に見えるすべての物質も宇宙あってこそ成り立っているのですから、ほんとうにすべては一つなのですね。

 

 

そして人間は、誰もが「心」をもっていますから、それを意識と言うならば、とくに根源(おおもと)に必要不可欠な「心」そのものを知るべきであります。

 

 

その「心」こそが、冒頭にもあげた「清らかな心」「明るい心」「潔くて正直な心」でありまして、神様が何よりも喜ばれる真心(まごころ)ということになります。

 

 

 

ところが、わたしたちの日常はいつも何事かに右往左往されたり、迷い道に入って悩んだり、喜怒哀楽すべての感情の渦に巻き込まれてしまうわけです。

 

そのたびに一喜一憂していたら、ほんとうにキリがない。

 

 

しかし人間は弱い生き物ですから、ほとんどの人がそうした一喜一憂にやられて視野が狭くなりがちです。

 

 

そうなったら、まず「心」が落ち着きません。

 

落ち着かないとどうなるかというと、ずっと延々と迷い続けるだけです。

 

 

 

 

 

ほんとうに強い人というのは、

 

芯の底から「清らかな心」「明るい心」「潔くて正直な心」を持ち備えているものです。

 

 

こういう人は決して迷い道に屈しません。

 

 

たとえ自身の身に難儀なことがやってきたとしても、不思議と解決へと導かれます。

 

 

それはなぜかというと、

 

常日頃の生活の中で神様に愛される生き方をしているから、肝心な時に内からも外からもしっかり守護してもらえるのです。

 

 

 

わたしは、どうもスピリチュアルというのは好みませんが、

 

それでも世の中には摩訶不思議な現象というのがあるもので、中でも、ご先祖様からの守りが強い人というのが一定数いらっしゃることの事実には瞠目せざるを得ません。

 

 

ご先祖様ということは、それはすなわち神様ということになります。

 

 

まさに神様から愛される生き方というのは、この世での守護がしっかりされるという何とも心強いことなのであります。

 

 

どうしたって、わたしたちの生活には知行合一が欠かせない。

 

つまり、「実践」あるのみ。

 

 

貴重な知識だけを頭に叩き込んでも、それは何の意味も成しません。

 

肝心なのは自分の身を通して行う生きた実践であり、それで得ていく経験値が必須なのです。

 

 

 

常日頃から自らの人間性を鍛え、心を磨いていくことも然り。

 

すべては日常生活での生きた実践でありますね。

 

 

もうほんとうに、一にも二にも「実践」それなくしてわたしたち人間が生きている意味がないといっても過言ではないと思います。

 

 

 

 

最後に、

 

 

 

幕末の思想家・教育家、明治維新の精神的指導者といわれる志士、吉田松陰が詠んだ辞世の句をご紹介させてください。

 

 

 

 

彼はまさに、実践の人でありました。

 

 

生涯を通して知行合一を貫き、最後の最後まで命を生かした人物といってもいいでしょう。

 

その証(あかし)に、彼の志を継いだ若者たちが次の日本の夜明けをつくってくれたのですから。

 

 

 

 

吉田松陰翁 辞世の句(享年29歳)

 

 

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 

留とどめ置かまし大和魂

 

 

 

 

本日も最後までご覧いただき、ありがとうございましたm(__)m

 

 

感謝と敬意を込めてキラキラ

 

 

 

すめらみこといやさか

 

すめらぎいやさか

 

すめらみくにいやさか

 

 

 

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こんにちはニコニコ

 

 

気づけば今月はブログの更新が滞りがちでして・・滝汗

 

 

今日は少し時間もありましたので、常日頃から考えていることを書いてみようかと思いました。

 

よろしくお願いいたしますm(__)m

 

 

 

【祖型塾】我欲(がよく)ではなく「おたがいさま」の真心で生きる

 

 

「我欲(がよく)」という言葉がある。

 

 

これが強い人というのは、どうしても人生に暗い影を落としてしまいがちになる。

 

なぜか、それは「我欲」が人の真心を喪失させるものだからだ。

 

 

それで、この「我欲」とはいったいどういう意味なのか、それを辞書で紐解いてみよう。

 

 

辞書では、次のとおり解説されている。

 

≪自分一人の利益・満足だけを求める気持ち≫

 

 

まあ、ひらたくいえば自分勝手・自己中心的な姿勢ということであろう。

 

 

この同義語に私利私欲なんてのもあるが、ここに誰かを思いやるという真心など存在しない。

 

あくまでも「自分さえよければ・・」という徹底した卑屈な態度しかないのである。

 

 

 

しかしこの世の中というのは、自分ひとりだけが生きているのではないし、誰もが誰かの手を借りて、世話になりつつ生きているものだ。

 

 

たとえば自分が身に着けている衣服も、自分で作ったものではないし、食事もそう。

 

すべて自分ひとりきりで、はじめから最後まで支度できたものなどあり得ない。

 

 

そういう意味からも「自分ひとりの利益・満足だけを求める気持ち」つまり、我欲を強く通せば通すほど無理強いになって、けっきょくすべての物事がうまくいかないことになるわけだ。

 

 

 

もちろん中にはお金もたんまり持っていて、権力もあって、誰もがひれ伏すぐらいの存在の人物だっているわけだが、そういう人ほど我欲は十分に慎まなくてはならぬ。

 

 

それほどに我欲というのは、人の人生に暗い影を落としかねない危険をはらんでいる。

 

 

 

逆に、お金は持ってないし、権力もない。

 

そういう人であっても我欲は慎まなくてはならない。

 

 

なぜなら、お金や権力を些少でも握ったときに、一気に我欲の心が噴き出して、気が違ってしまうかもしれないのだ。

 

 

そうなると悲惨である。

 

 

では一体どうすればいいのか。

 

 

我欲ではなしに、まわりの人たちのために何かをしてあげたい、人のために役に立ちたい、そういう「おたがいさま」の心を豊かに育んでいくことが一番よいのである。

 

 

 

 

 

仏教の言葉では、我欲のことを小我(しょうが)と言い表すのに対し、「おたがいさま」の心を表すのは大我(たいが)、あるいは真我(しんが)という。

 

 

この大我(たいが)というのは、いわば宇宙のように広くて深遠な心のことであり、そこには自分だけではなく周囲の人々や生き物に対する感謝と敬意の気持ちが含まれている。

 

 

自分だけのためにやることなのか、それとも誰かのためにやることなのか、それだけでも意味合いは大きく違ってくるものだ。

 

 

また、人間は自分だけのために物事を考えたときは、驚くほどスケールが小さくなるものだが、誰かのためにと力を尽くそうとするとそのスケールは大きなものになる。

 

ちなみに昔の日本人は、それを「悠久の大義のために生きる」と、その清らかな澄み切った心で正々堂々と宣言したものである。

 

 

不思議なものだ。

 

 

 

きっと人間の深層心理というのか、潜在意識というのか、そういうところでは十分に理解し、納得し尽くされていることなのかもしれない。

 

 

だけど日常生活の最中に身を置いていると、絶えず己のとるべき姿勢を試されるのかもしれない。難儀なことだが、そういうものなんだろう。

 

ふと、そのように思った。

 

 

 

それほど日常生活というのは、たくさんの出来事と試練とに溢れているということになるのだろうが、それを思うだけでも実に刺激的であると言わざるを得ない。

 

 

はたして人間は、肝心なときに賢明な選択ができるだろうか。

 

ついつい我欲を優先してしまいがちにならないだろうか。

 

 

何事も自分さえよければ・・という慢心の気持ちが湧かぬわけでもないだろう。

 

どうしたって自分に対しては甘くなりがちなのが、もっとも人間らしい生き方なのかもしれず・・むしろ人間というものはそのような狭間で迷うものだろう。

 

 

しかしながらそれでは世の中がうまく回っていけないし、場合によっては不要な軋轢や不調和、そして不条理に満ち溢れた世界をつくってしまいかねない。

 

 

実際、世の中にはそうした実例がそこらじゅうをゴロゴロしているものだ。

 

 

しかしながら、それを見過ごせないのも人間の真心でもある。

 

 

我欲に忠実な、あるいは優先的な人たちがたくさん蔓延る世の中で、一粒でも二粒と稀ながらも大我(たいが)の心で生きている人もいる。

 

 

これについては対立する、しないではなく、ごく自然的に二極化されているのが世の中の常というものだろう。

 

 

あとは二極化という事実において、自分はどう生きるか? 

 

万事はそこに尽きるとわたしは思う。

 

 

もちろんわたし自身も日常生活の中で我欲に悩まされ、翻弄される一人であることに変わりはないが、それでも「人間、いつかは死ぬのだ」という人生一度きりの死生観を常々感じている身として、いつまでも我欲とやらに縛られてしまうのは本望とは言えぬ。

 

 

やはり本懐を遂げるためにも、ここは勇気と知恵と創意工夫で乗り切っていきたいものである。

 

 

そして一人きりではなく、同じ時代に生きる人々とともに、すべての生命、大自然とともに「おたがいさま」の真心で生きていきたいと切に願う。

 

 

 

本日は少々長くなりました・・

 

最後までご覧いただき、ありがとうございましたm(__)m

 

 

 

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【祖型塾】「わたし」は「一人きり」で生きられない

 

 

 

わたしたち人間にとって最も怖いのは「孤立すること」だ。

 

 

ためしに「孤立」を辞書でひいてみると次のように解説されている。

 

 

   他から離れて一つだけ立っていること。

   また、仲間がいなく一人ぼっちなこと。

   他の助けがなくただ一人でいること。

 

 

 

たしかに人間社会というのは他人との関わりの中で結構面倒くさいこともあったりするが、それでも「孤立すること」に比べればいくらかマシかもしれない。

 

 

なぜなら「孤立」は、この世界の中で「たった一人きり」になるものだからだ。

 

 

人間社会のあれこれ面倒なことに巻き込まれないで済むのだから、一人ぼっちのほうが気が楽ではないかという声もあるが、それはあくまでも一人の時間を持てるということに留まるものであって、完全に孤立無援となる状態ではない。

 

 

 

そもそもわたしたち人間は「一人きり」で命を繋がれた存在ではなく、常に「二人」があってこそ存在できた生命体なのである。

 

 

つまり父と母のまぐわいが「わたし」を誕生させるに至ったものなのだ。

 

 

両親の仲が良いとか悪いとか、そういう感情論は関係なしに単純にそれは不動の事実としてあったのである。

 

 

 

父と母の子としてこの世に生まれたのが「わたし」であり、その父と母にも両親がいる。

 

それはそれは連綿と続く命の繋がりであり、辿れば辿るほど、たくさんの命によって「わたし」が存在していることが厳然とわかるだろう。

 

 

つまり、「わたし」という存在は最初から「一人きり」ではないことを証左するものであって、このことにより「孤立」というのは本来わたしたちに向かない生き方だということがわかる。

 

 

その「向かない生き方」である「孤立」を自他ともに強いてしまえば、生きていくことに張り合いがなくなるだろうし、生命そのものに輝きが失われるのは当然のこと。

 

 

 

実際、世の中に公表されている様々な統計によると、何らかの事情により孤立や孤独に身を置いてしまった人々は早死にする傾向が高いと言われている。

 

 

とくに男性の場合は長年連れ添った奥様を亡くされると、自身もまるで後を追うかのごとく寿命が尽きる方が多いそうだ。

 

 

 

また、年齢が若く健康体であったとしても、何らかの事情があって孤立や孤独に転じたとき、その若者は生きる活力や気力というものが落ち込んで、一気に老け込むと言われている。

 

孤立というのは、若さやはつらつとしたものまで根こそぎ奪ってくるものなのだ。

 

怖いことである・・

 

 

 

 

 

それから、

 

「自分の時間を大事にする」のと「孤立すること」は明らかに状態が違う。

 

 

どのような状態かというのは実は非常に大事なことであって、それが「孤立」であったならば、その状態が生み出すものは絶望であったり、無関心となる。

 

 

絶望も、無関心もわたしたち人間から生きる活力を奪うだけで、なんの生産性も未来も生み出さないだろう。

 

 

 

昔、戦争があった時代に敵国の捕虜になった人が体験談で語っていた。

 

「身柄は敵に拘束されても、わたしの精神は常に自由であった。なぜなら希望をもっていたからだ。希望があれば決して悲観しないし、絶望することもない」と。

 

 

体験談で語れるぐらいだから、この方の場合、きっと無事に戦争が終結し、奴隷のような生活から解放されたのだろうが、その地獄のような日々の中でも決して希望を失わなかったことは本当にすごいことだと思う。

 

 

 

しかしなぜ、

 

わたしたち人間の中には「孤立」に足を取られて、そのまま本当に「一人きり」になってしまう人がいるのだろうか?

 

 

天涯孤独の身の上なのか、頼れる身内もなく友達もなく、とにかく周囲の人たちとの距離を遠くに定めて隠遁生活に入るがごとく世間に背を向けてしまう。

 

 

一度そのような背を向けた生き方をしたならば、なかなか回れ右して前を向くのは至難の業だろう。

 

挙げ句、そのまま孤立していくことになる。

 

 

今の世知辛い世の中でも、隣近所で助け合ったり、仲間や友達で支え合ったりする動きも一部あるだろうが、それでもすべての「孤立」した人に手を差し伸べることができるかといえば、それも現実的に難しい話だ。

 

 

やはり、「わたし」そのものが孤立しないことに尽きる。

 

 

これはあくまでも私の勝手な意見であるが、自分自身の人生、生命に対して無責任になってはいけないと思うのだ。

 

 

無責任とは無関心と同じこと。

 

それは間違いなく「死」に直結していく。

 

 

むろん、人間はいつかは寿命が尽きてこの世を去る日が来るのだが、それは堂々と生き抜いてきての結(けつ)でなくてはならない。

 

 

なぜなら先ほども書いたが、わたしたちの命は「一人きり」で生じたものではなく、まず、父と母のまぐわいによって繋がれた命であり、それは連綿と続くご先祖様(神様)からの貴重な授かりものだからである。

 

このことは誰も否定しようもない事実であり真理といっていいだろう。

 

 

そして、その事実と真理には、大いなる畏敬が存在する。

 

 

命から命へと繋がれたものを、「道」という。

 

 

実はその「道」こそ、わたしたちが畏敬の念を抱き、真剣に学ぶものなのである。

 

 

世の中にはたくさんの尊い教えや戒めなどがあるが、なによりも「道」は自ら感じるものであって、また自ら学ぼうと思わない限りは一生涯を通しても気づかないほどの宝で埋め尽くされている。

 

それほどのものなのだ。

 

 

 

ところが、

 

「孤立」には生きるための「道」がない。

 

「道」がないところを人間は歩くことはできない。

 

だからこそ、人間は「孤立」してはならないのだ。

 

 

中には人生の修行のために、一時的に「孤立」を経験することもあるだろう。

 

が、それはあくまでも修行の一環であって、人生そのものの目的ではないのである。

 

 

ならば、「孤立」ではなく、いったい何を求めていけばよいのか?

 

それは本当に大事な問いになるため、次の機会にしっかり書いていきたいと思う。

 

 

しばしのあいだ、お時間をいただければ幸いですお願い

 

 

 

本日は少し長くなりました・・

 

長文にも関わらず最後までご覧いただき、ありがとうございましたm(__)m

 

 

感謝と敬意を込めてキラキラ

 

 

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