【明治大学優勝記念】「御大」島岡吉郎の生涯(前篇) ~素人監督の奮闘記~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

2013年春の、優勝をかけた法明決戦。  

この素晴らしい戦いについては、私が克明に書き記してきたつもりである。


そもそも、勝ち点4同士の法政と明治の決戦が実現した時点で、

居ても立ってもいられなくなり、その興奮した気持ちのまま、

このブログを始めてしまった。


「この戦いは、どうしても書き残しておかなければ」

という思いに突き動かされたのが、当ブログを始めたきっかけであった。

そして、その私の期待以上の名勝負を見せてくれた法政と明治には、

(もう何度も書いた事だが)感謝申し上げる次第である。


その法明決戦で、激闘が繰り広げられている最中、

何回戦だかは忘れたが、ある法政の応援団員が「学生注目!」の時に、

こんな事を言っていた。

 

「流石は、我が永遠のライバル明治である!」

 

そう、明治の最後まで諦めない粘り強さ、勝利への執念には、私も大変感服したのであった。

私も、その応援団員と全く同感であった。

 

最後は、その明治の伝統である粘りの「人間力野球」の勝利に終わり、法政がそれに屈した形となったが、

今回は、我が法政の永遠のライバル・明治に敬意を表し、

この明治大学野球部の「人間力野球」を作り上げた人物である、

故・島岡吉郎監督の生涯にスポットを当ててみたい。

 

 

<島岡吉郎の生い立ち~明治大学野球部監督就任>

島岡吉郎は、1911年6月4日、長野県に生まれた。

少年時代から腕白だったらしく、鉄道技師だった父親の勧めで上京し、入学した旧制豊山中学で、教師を殴るという事件を起こし、放校処分を受けてしまった。

その後、いくつかの学校を転々としたという。

島岡は、若い頃から血の気の多い人だったようである。

 

その後、島岡は明治大学に入学し、同校で応援団長として活躍した。

島岡は若い頃から親分肌ではあったが、本格的な野球経験は無かった。

この事が、後に明治大学の野球部監督に就任する際に、ひと悶着有った原因となった。

 

やがて島岡は証券会社に就職し、二・二六事件の際に株で大儲けしたり、

戦時中はマカオで武官付きの駐在員となり、終戦の際は物資を集めて海賊の親分を手なづけて帰国に成功するなど、既にこの時点で物凄い経歴である。

 

1946年、母校の明治大学が、付属校の明治中学(後の明治高校)の面倒を全く見ていない、という事を聞きつけると、

「だったら自分が面倒を見る」

という義侠心から、自ら同校の監督就任を買って出た。

 

やがて島岡は熱血指導で明治高校を強豪に育て上げ、3度の甲子園出場(1950年春、1951年春夏)に導いた。

こうして、島岡は野球指導者の道へ足を踏み入れたのだった。


その頃、明治大学野球部はゴタゴタ続きで、短期間での監督交代が相次ぐなど、低迷が続いていた。

明治は1942年春を最後に、長らく優勝から遠ざかっていた。


そんな折、明治大学当局は島岡に同大学野球部の監督就任を要請した。

低迷する明治野球部の再建のために、島岡に白羽の矢が立ったのである。

島岡はこれを受諾し、1952年、島岡は明治大学野球部の監督に就任した。


しかし、この人事に対し、明治の野球部OB会は猛反発した。

「あんな野球経験の無いド素人に、伝統ある野球部の監督が務まるか」

と、島岡の手腕に疑問が呈され、島岡は大バッシングに晒されてしまった。

 

おまけに、当時の野球部の主力達が大量退部する、という事態をも招いてしまった。この逆風に対し、島岡は「結果で見返すしかない」と、明治の野球部再建のため、悲愴な決意を固めたのであった。

 

 

<涙の戦後初優勝>

島岡が就任して以来、3シーズンで明治は4位(1952年春)、3位(1953年秋)、4位(1953年春)という結果であり、なかなか優勝には届かなかった。

 

OB会は、島岡に対し「それ見た事か」と、冷たい視線を浴びせたが、

それでも島岡は野球部の再建に懸命に取り組んだ。

島岡は自ら合宿所に寝泊まりし、選手達と寝食を共にし、野球部に全てを捧げる生活を続けた。

 

そして、島岡が監督に就任した1952年、岡山東商から秋山登、土井淳という名バッテリーが明治に入学し、明治再建の核となる選手を得た事は、島岡にとって幸運であった。

 

島岡は一日1000球の投げ込みという猛練習を課し、秋山を徹底的に鍛え上げたが、その甲斐あってか、秋山は明治を支える大エースへと成長して行った。

 

島岡監督就任後4シーズン目の1953年秋、この秋山-土井のバッテリーの大活躍もあって、明治は早稲田、立教との激しい優勝争いを制し、

遂には1942年春以来11年振り、戦後初優勝を成し遂げた。

 

明治の優勝が決まると、島岡は男泣きに泣いた。

そして、ラジオのインタビューで、島岡は

「総理大臣になったよりも嬉しい」

という言葉を残している。

 

あらゆる逆風を跳ね返し、風雪に耐えて掴み取った、まさに執念の優勝であったが、これこそが島岡の「人間力野球」の原点でもあった。

秋山-土井のバッテリーは、在学中に明治に計3度の優勝をもたらし、

戦後の明治第一期黄金時代の立役者となった。

(その後、秋山と土井は揃って大洋ホエールズに入団し、高校・大学・プロ野球を通じてずっとバッテリーを組み続けるという、希有な存在となった)

 

 

<島岡、自らの手でグラウンドを作り上げる>

秋山-土井の最終学年、1955年春の優勝を最後に、明治はまた暫く優勝から遠ざかった。

しかし、その間、島岡は自らの手で、明治野球部専用のグラウンド作りに励んでいた。

 

「グラウンド作りに励んだ」と書いたが、調布のつつじが丘に新しいグラウンドを作るに際して、用地買収のために島岡は自ら地主達の所へ頭を下げて回った。

そして、このグラウンドを神宮球場と全く同じ大きさにするように全てを決めたのも島岡であった。

文字通り、島岡が自らの手作りで作り上げた、血と汗の結晶のようなグラウンドだったのである。


島岡がグラウンド作りに邁進する間、明治は低迷し、1960年秋には遂に最下位に終わるが、翌1961年春に一気に大躍進、明治は6年振りの優勝を果たした。


島岡は、ここで一旦、「自分の役割は終わった」

とばかりに、明治の監督の座を退いた。

しかし、周囲からの熱心な慰留もあって、すぐにまた総監督として復帰している。

1965年には、再び監督に就任した。

 

島岡の、明治野球部に全てを捧げる生涯は、まだまだ続いて行く事となった。

 

(つづく)