六大学野球とプロ野球 ~その人気の変遷について~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

<私と六大学野球>

私は、東京六大学野球のファンであるが、プロ野球や高校野球も大好きであると、当ブログの一番最初の記事 に書いた。

 

要するに、私は野球と名の付く物は何でも好きである。


子供の頃から、野球は好きだったのだが、当然の如くというか、

その頃の私にとっての野球とは、プロ野球ばかりであった。

あとは、甲子園の高校野球も、毎年夢中になって見ていたものであった。

 

そんなある日、確か小学校5年生ぐらいの時だったと思うが、

いつものように、プロ野球の記事を読もうとして、私は新聞のスポーツ欄を開いた。

 

すると、そのスポーツ欄の片隅に、大学野球の結果を載せている記事が有った。

その記事には「東大」という名が有った。

 

「東大って、あの東大?」

と、私はびっくりして、親に聞いてみた。

「ねえ、この東大って、あの東大?東大って野球やってんの?」

すると、そうだという答えが返ってきた。

 

「へえ、東大って野球やってるんだ…」

と、私はこの時に初めて、あの東京大学に野球部が存在し、その東大野球部が試合をしている、という事を知ったのであった。

 

それが、私が東京六大学野球というものを、初めて知った時だったのである。

 

その後、私は相変わらずプロ野球のファンではあったのだが、それと並行して、東京六大学野球の動向もチェックするようになっていた。

私にとって、六大学野球は気になる存在となっていたわけである。

 

そして、私は縁あって法政大学に入学したのだが、法政といえば六大学野球の一員である。

私は、入学早々、早速神宮球場へ、法政の試合を見に行った。


すると、そこには私が想像していたよりも遥かに、ディープで濃い世界が広がっていた。

そして滅茶苦茶面白い空間であった。


「こんな世界が有ったのか」

と、私は驚いたのと同時に、その面白さの虜になってしまった。

六大学野球の魅力 については、私がこれまで書いてきた通りであるが、

とにかく、私はどっぷりと法政野球部の応援、そして六大学野球の面白さにハマってしまい、今日に至っている。

 

 

<六大学野球が野球の王様だった頃>

小学校の頃、でかでかとプロ野球の記事が載っている新聞のスポーツ欄の片隅で、私が六大学野球の記事を「発見」したのを見てもわかる通り、日本における野球報道で、最も多く扱われているのは、言うまでもなくプロ野球である。

それに比べると、六大学野球の扱いは大きいとは言えない。

 

また、春の選抜や夏の選手権が今でも大人気の高校野球と比べても、六大学野球の一般人気は高いとは言えないであろう。

 

しかし、かつては東京六大学野球こそが、日本野球の王座に君臨していたのであった。

話をわかりやすくするために、日本野球の略史を、ごく簡単にまとめてみた。

 

①1873年頃 日本に野球が伝来、旧制一高(現・東京大学)と開拓使仮学校(現・北海道大学)で野球が始まる

②1878年 日本初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」誕生(~1887年解散)

③1888年 旧制一高に野球部が誕生

④1890年~ 一高黄金時代が到来

⑤1903年 第1回早慶戦が行われる(1904年、早慶両校が共に一高を撃破、一高黄金時代が終わる)

⑥1906年 早慶戦が応援の過激化により中止(その後、明治、法政、立教の順でリーグに加盟、早慶戦の無いリーグ戦が続けられる)

⑦1915年 第1回中等学校優勝野球大会が行われる

⑧1925年 東大の加入で六大学リーグ誕生、早慶戦が復活し、東京六大学野球がスタート

⑨1927年 第1回都市対抗野球大会が行われる

⑩1936年 日本職業野球連盟(プロ野球)誕生

 

御覧頂いた通り、日本に野球が伝来し、アメリカから来たハイカラなスポーツとして、まずは旧制第一高等学校(一高)で野球が大ブームになった。

①~③の時代にかけて、野球は瞬く間に日本全国に普及、一高生達が故郷で野球を広めたりした事もあって、全国各地の中等学校でも野球が盛んになった。

 

やがて、一高が正式に野球部を組織すると、野球の先駆者たる一高は、国内で無敵の強さを誇った。

その間、日本初の国際試合で、一高が横浜外人チームに29-4で大勝(1896年)するという金字塔も打ち立て、野球はますます大人気になって行った。

 

その一高に挑んで行ったのが早稲田慶応といった私立学校で、当初はなかなか一高に勝つ事は出来なかったが、⑤の時期(1903年)に第1回早慶戦が行われた翌年、早稲田と慶応は揃って一高を破るという快挙を達成した。

 

ここに、スタート直後から早慶戦は「一高を破った学校同士の対戦」として大いに注目を集め、日本野球の王座を決める戦いとして、早くも大人気となったわけである。


その後、⑥で早慶戦は中止されてしまうが、早慶が戦わない間にも、明治、法政、立教の私立学校が相次いで台頭、その順番にリーグに加盟し、腕を競っていたが、全国に普及していた中等学校野球の人気も凄まじく、1915年には遂に、中等野球の全国大会が開かれるに至った。

今に至る、所謂「夏の甲子園」の第1回大会の事である(その当時は、甲子園はまだ無かったが)。

 

そして、⑧の時期、1925年に東大が加盟し東京六大学リーグが誕生、早慶戦も19年振りに復活し、爆発的な人気を得た。

六大学リーグは、スタート直後から大人気を博し、早慶戦黄金時代の到来とともに、日本野球の王座に君臨したのであった。


ここまで来て、⑩の1936年に、ようやく日本にもプロ野球が誕生するわけだが、プロ野球が誕生するまでに、日本の野球界には、既にこれだけの出来事が有ったわけである。


つまり、日本ではプロ野球が誕生するまでに、学生野球(アマチュア野球)が圧倒的な人気を誇っており、職業野球と言われていたプロ野球は、戦前は全く日蔭の存在であった。

それも、プロ野球が六大学野球などに比べると、だいぶ遅れて誕生したので、人気の面で後れを取っていたのも、仕方が無かったと言える。

 

アメリカでは、野球が誕生した直後から、プロ野球が発展したのであるが、日本では、プロ野球誕生の前に、まずは学生野球が発展していた。

そこに、日米両国の野球の土壌に大きな違いが有る、という事が言えるわけである。

 

 

<六大学野球の人気を全てプロ野球に持って行った男>

戦前のプロ野球は、観客も少なく、マイナーな存在だったと書いたが、

当のプロ野球選手達も、ガラガラの後楽園球場から、いつも超満員の観客で埋まり、六大学野球が行われている神宮球場の方向を、羨んで見ていたそうである。

 

そもそも、当時の日本では「野球で金を稼ぐなど、けしからん」というような風潮が有ったらしく、プロ野球という存在そのものが、世間から白い目で見られていたらしい。

学生野球全盛の日本らしい現象だが、それでもプロ野球を築いた先人たちは、懸命にプロ野球の灯を守ったのであった。

 

やがて、戦争が激化し、中等野球も六大学野球も中止に追い込まれるが、それらが中止になっても、最後の最後まで野球を続けたのはプロ野球だったのである。

 

そして戦争が終わり、中止されていた野球が復活した。

終戦直後の、焦土と化した日本で、人々は食べる物も着る物も住む所も無い、というような極限状態だったが、生きていくために人々は懸命に立ち上がったわけである。


そんな、無い無い尽くしの大変な時代の中で、人々の心の支えになったのが、野球であった。

GHQによる占領政策の一環として、野球が奨励された、という事も有ったとはいえ、野球は戦前にも増して、爆発的な人気を集めた。

 

特に、戦前はあまり人気の無かったプロ野球も大ブームとなり、今日の隆盛の礎を築いて行ったのだった。

 

こうして、戦後の野球ブームに乗り、めでたくプロ野球も大人気になったのだが、それでも、「格」という点では、まだ六大学野球よりも下に見られていたようである。

 

それが、一体いつ、プロ野球は今日のような地位を手に入れる事になったのか。

それはもう、間違いなく長嶋茂雄の登場のお陰、なのである。

 

立教大学の長嶋茂雄は、それまでの学生野球とは一線を画すような、ダイナミックなプレーで観客を魅了していた。

長嶋は、六大学でも最も華のあるスター選手、として人気を集めていた。


そして、長嶋の学生最後の試合となる、1957年秋の慶応戦で、長嶋は見事に、当時の六大学の本塁打新記録となる通算8号本塁打を放つという、千両役者ぶりを見せた。

まさにスーパースター、今風に言えば「持ってる男」の面目躍如であった。


この、東京六大学が生んだ最高のスーパースター長嶋が、巨人に入団したのだから、当時のマスコミは大騒ぎだった。

この長嶋の巨人入団、そして入団1年目からの長嶋の大活躍により、長嶋はプロ野球きってのスーパースターとなって行くのと同時に、巨人の、引いてはプロ野球の人気や地位も、不動のものになって行った、という。


つまり、六大学野球の人気を、長嶋がそのままプロ野球に全部持って行ってしまった、という事が盛んに言われるようになった。

私は、リアルタイムでその時の事を経験したわけではないので、この事については、

「本当かいな?」とは思っていたのだが、当時の文献や、その当時のプロ野球関係者の談話などを見ても、皆が口を揃えてそう言っているところを見ると、

恐らくそれで間違いないのだろう。

 

 

<六大学野球の今>

長嶋が、プロ野球のスターになり、やがて王貞治との両輪で、巨人のV9という黄金時代を築いた頃には、プロ野球はすっかり六大学野球と人気を逆転してしまった。

そして、その状況は、基本的にはずっと変わらないまま、今日に至っている、という事が言えそうである。

 

その後も、江川卓高橋由伸、斎藤佑樹の登場などにより、六大学野球が世間の注目を集める事は有っても、それがプロ野球を凌駕するまでには至っていない、と思う。

それは、既にプロ野球が王座に就いた、という既成事実が、動かし難くなっていたからであった。

 

しかし、それでも六大学野球は、今日に至ってもなお、根強いファンに支えられ、伝統を守り続けているのである。

これは、六大学野球が長年ずっと伝統を守ってきた、という事と同様に、プロ野球にも今なお数多くの選手を輩出し続けており、また、全国の高校野球にも数多くの指導者を送り続けるなど、野球界において、大きな役割を果たし続けているからでもあると思う。

 

日本の野球は、プロ野球とはまた違った形で、アマチュア野球が独自の地位を守り続けて行っているのが非常に面白い、と私は思っているが、

東京六大学野球は、その最たるものである、と私は思う。

 

そして、六大学野球は、早慶戦の開始から数えれば1世紀以上にわたって連綿と続いているその歴史、そして、後の世代へと脈々と受け継がれて行っている新たな歴史が、多くのファンを魅了し続けているのである。

 

これからも、新たな歴史を作り続ける六大学野球をずっと応援し続けて行きたいと、私は思っている。