1980(昭和55)年、サザンオールスターズは、
「半年間の充電」
を宣言し、1ヶ月に1枚のペースでシングルをリリースする、
「Five Rock Show」
という企画を行なった。
その各シングルの売上は今一つだったが、桑田佳祐以外のサザンの各メンバー達がメイン・ボーカルを担当したり、作詞・作曲に挑戦したりと、精力的に活動し、その結果として、サザンはバンドとして大きく成長する事となった。
その1980(昭和55)年のサザンオールスターズの「Five Rock Show」のシングルは、下記の通りである。
・『涙のアベニュー』(1980.2.21)
・『恋するマンスリー・デイ』(1980.3.21)
・『いなせなロコモーション』(1980.5.21)
・『ジャズマン(JAZZ MAN)』(1980.6.21)
・『わすれじのレイド・バック』(1980.7.21)
…という事で、
「Five Rock Show」
の各シングルについては、全てご紹介させて頂いたが、
サザンは「Five Rock Show」の成果を引っ提げ、
この年(1980年)7月~11月にかけて、
「サザンオールスターズがやってくる ニャーニャーニャー」
というライブ・ツアーを行なった…という事も、前回の記事で書いた。
というわけで、今回は、
「1980(昭和55)年のサザンオールスターズ」の「最終章3」を書く。
今回の記事の主人公…それは、
『わすれじのレイド・バック』
のB面曲で、原由子を除く、サザンの5人のメンバー達が交互にボーカルを務めた、
『Five Rock Show』
の一部で、初めてボーカルを務めた「毛ガニ」こと野沢秀行である。
それでは、ご覧頂こう。
<「毛ガニ」こと野沢秀行という男①~元々は「セミプロ」で、学生バンド風情のサザンを下に見ていた(?)が…?>
これまで、当ブログでは散々書いて来た事だが、
そもそも、サザンオールスターズというバンドは、青山学院大学の音楽サークル、
「ベターデイズ」
を母体として誕生した、学生バンドである。
そして、そのサザンに一番最後に加入した男…それが、「毛ガニ」こと野沢秀行であった。
1975(昭和50)年、当時、青山学院大学の2年生だった桑田佳祐と、
この年(1975年)桑田の1年後輩として青山学院に入学した原由子が、
青山学院の音楽サークル「AFT」で出逢った。
その「AFT」は、紆余曲折を経て、
「ベターデイズ」
という音楽サークルとなったが、その「ベターデイズ」で、1975(昭和50)年秋、桑田佳祐と原由子を中心に、
「青学ドミノス」
というバンドが結成された。
そのバンドは、メンバーの入れ替わりが激しく、まさに「オールスター」状態だったが、このバンドが、あるライブに出演する際に、桑田佳祐の友人・宮治淳一により、
「サザンオールスターズ」
と命名される事となった。
さて、1975(昭和50)年、原由子と同学年として、青山学院大学に入り、
原由子と一緒に「AFT」に参加したのが、ギター大好き少年だった、大森隆志である。
大森は、当初、サザンには参加せず、別のテニスサークルなどにも参加したりしていたが、
その大森は、下北沢の「ロフト」というライブハウスで、アルバイトをしていた。
その「ロフト」で、大森はある男と出逢った。
大森が、バイト先である「ロフト」で出逢った男…。
それこそが、「毛ガニ」というニックネームで呼ばれていた、野沢秀行であった。
この野沢秀行という男は、既にパーカッションの「セミプロ」として活動しており、大森も野沢には一目置いていた。
ちなみに、野沢秀行は1954(昭和29)年生まれであり、学年でいうと、桑田佳祐より1つ上、原由子・大森隆志よりは2つ上だった。
しかし、この野沢という男、「ロフト」に入り浸っては、全くお金も払わず、バイトの大森にヤキソバを作らせたり、勝手に店のレコードを借りたりしており、
「ロフトのダニ」
などとも呼ばれていたという。
更に言えば、当時、野沢は日大の「ニセ学生」であり、いかにも怪しい男だった。
(※野沢は日大系の高校に行っていたが、日大には進学出来ず、日大の学生のフリをしていたという)
なお、先程も述べた通り、大森が野沢に出逢った頃、
つまり1975(昭和50)年頃は、大森は一介の学生であり、
サザンも、数多ある学生バンドの一つに過ぎなかった。
その後、大森の伝手によって、野沢もサザンの練習などに顔を出すようになっていたが、
「俺はセミプロだから」
と言って、野沢は何かと言うと、自分が「セミプロ」である事を鼻にかけており、学生バンド風情のサザンの事など、完全に下に見ていた。
つまり、当時の力関係で言うと、野沢秀行はサザンよりも、一段、高い所に居た(※少なくとも、野沢はそう思っていた)。
だが、この後、事態は思わぬ方向へと動いて行く。
<「毛ガニ」こと野沢秀行という男②~「イーストウエスト'77」をキッカケにサザンの「プロデビュー」が現実味を帯びると、掌を返したようにサザンに擦り寄って来た野沢~「欠席裁判」の結果、野沢はサザンの「準メンバー」に!?>
さて、1977(昭和52)年に、ギターの大森隆志と、大森の故郷・宮崎で、大森の幼馴染だった、ドラムの松田弘、
そして、桑田佳祐とは青山学院の1年生の時以来の付き合いだが、その1年生の時以来、桑田とはバンドを組む機会が無かった、ベースの関口和之といったメンバーも、サザンに加入した。
元々、桑田佳祐・原由子を中心としていたバンドに、大森隆志・松田弘・関口和之…といったメンバーも加入し、いよいよ、サザンのバンドとしての「骨格」が出来て行った。
その頃、桑田も沢山オリジナル曲を作るようになっており、サザンはノリに乗っていた。
この時、大森隆志は、サザンのメンバー達に、
「俺達、プロを目指そう!!」
と、強く働きかけた。
そして、大森の勧めにより、サザンは、ヤマハ主催の大規模なアマチュアバンド・コンテストである、
「イーストウエスト’77」
に、挑戦する事となった。
大森隆志は、この時、
「サザンが『イーストウエスト'77』で勝ち抜くには、毛ガニさんの力が必要だ」
と思い、野沢秀行にも声を掛け、野沢に対し、
「サザンに入って欲しい」
と、頼んだ。
しかし、前述の通り、野沢は一介の学生バンドであるサザンの事など、完全に下に見ていたので、
「まあ、俺もセミプロだし、色々と忙しいワケよ。まあ、その内、ヒマになったらね…」
と、せっかくの大森の誘いを、鼻にも引っ掛けずに断ってしまった。
ところが、何とサザンは快進撃を見せ、
「イーストウエスト’77」
で、決勝大会まで勝ち抜いたサザンは、その決勝大会で入賞を果たし、桑田佳祐は、
「ベスト・ボーカリスト賞」
を受賞するという快挙を達成した。
そのサザンを、レコード会社のビクターが「スカウト」し、何と、俄かにサザンに「プロデビュー」の機運が高まって来たのである。
これに、猛烈に焦ったのが、野沢だった。
「これは、マズイ事になったぞ…」
あの、鼻にも引っ掛けなかったサザンが、まさか、ここまでやるとは、野沢は全く思っていなかったのである。
「こんな事なら、大森の誘いを断らなければ良かった…」
野沢は、大森による「サザン加入」の誘いを断った事を、激しく後悔していた。
すると、野沢は掌を返したように、なり振り構わず、サザンに擦り寄って来るようになった。
ある時、渋谷の「タック」というカレー屋で、サザンのメンバー達と、野沢が一緒にカレーを食べていた時、
野沢は、大森の肘を小突き、大森に必死に目配せをしていた。
仕方なく、大森は、野沢の意思を汲み取り(?)、
「毛ガニさん、何か、サザンでパーマネントでやりたいんだって…」
と、桑田に伝えた。
そう、野沢は自分で意思表示するのではなく、大森を使って、
「自分もサザンに入りたい」
という意思を伝えたのであった。
その時、桑田はカレーを食べながら、
「ふーん…」
と言っただけで、明確な答えは出さず、態度を保留した(?)。
後日、野沢を除いたサザンの5人で、
「毛ガニ欠席裁判」
が行われた。
「毛ガニさん、ああ言ってるけど、どうしようか?」
「うーん、別に良いけど、毛ガニさんって、すぐに怒るからなあ…」
当時、野沢は「セミプロ」というプライドを持っており、時間にルーズだったサザンのメンバー達をガミガミと怒ったりしていた。
それが、サザンのメンバー達にも煙たがられたりしたかもしれないが、野沢の言う事は「正論」でもあった。
それはともかく、結局、この時は結論は出ず、
「とりあえず、毛ガニさんはサザンの準メンバーという事にしておこう」
という話になった(?)。
それに、サザンのメンバー達にしてみると、
「パーカッションが居る方が、音に厚みが出る」
という意見も有り、結局、何となく、野沢の「サザン加入」(?)は玉虫色で認められた…。
だが、その後も、野沢がサザンの「正メンバー」に昇格したという話は無く、未だに、
「毛ガニは準メンバー」
などと言われ(※特に原由子が、そう言っているらしい)、今日に至っている…。
…という事であるが、当初、「セミプロ」である事を鼻にかけ、サザンを下に見ていた(?)野沢が、何故、最終的にはサザン加入が認められた(?)のかといえは、それは、野沢の人柄がとても良かったからでもあった。
そうでなければ、野沢はサザンに加入していなかったに違いない。
では、野沢秀行がサザンで果たして来た役割とは、何だったのかといえば…そこには、あの「世界的バンド」との共通点が見受けられる。
<ビートルズのリンゴ・スターと、サザンの「毛ガニ」こと野沢秀行~共にバンドの「潤滑油」「ムード・メーカー」として欠かせない存在に>
桑田佳祐やサザンのメンバー達がリスペクトする、あのビートルズは、
実はデビュー直前まで、ドラマーはリンゴ・スターではなく、ピート・ベストという男が、ドラムを担当していたというのを、ご存知だろうか。
1962(昭和37)年8月、ビートルズはデビューを目前に控えていたが、この当時のビートルズのメンバーは、
・ジョン・レノン(ボーカル、ギター)
・ポール・マッカートニー(ボーカル、ベース)
・ジョージ・ハリスン(ギター)
・ピート・ベスト(ドラム)
…という、4人であった。
だが、ピート・ベスト以外の3人、即ち、ジョン、ポール、ジョージは、こう思っていた。
「どうも、ピート・ベストとは、ノリが合わないんだよな…」
このまま、ピート・ベストと一緒にやって行くのには、限界が有ると、総じて彼らは思っていた。
そして、ジョン、ポール、ジョージの3人は、遂に決断を下す。
当時、既にビートルズには、ブライアン・エプスタインという有能なマネージャーが居たが、
彼ら3人は、ブライアンに対し、
「ピート・ベストをクビにする」
という意思を伝えた。
そして、その通告を、ブライアンからピート・ベストに対して行なうようにと、彼らは告げたのである。
随分と酷い話といえば酷い話だが、ブライアンは心を鬼にして、ピート・ベストに対し、
「君には、ビートルズを辞めてもらう」
という事を伝えた。
こうして、デビュー直前という時期に、ピート・ベストはビートルズを「追放」されてしまった。
では、ピート・ベストを「クビ」にしたビートルズは、一体、代わりに誰をドラム担当にしようとしていたのかというと…。
それが、当時、別のバンドで活動していた、リンゴ・スターという男だった。
ビートルズは、以前、リンゴ・スターとセッションをした事が有ったが、ジョン、ポール、ジョージとリンゴは、その時から妙に馬が合っていたという。
「あのリンゴを、バンドに加えたらどうかな?」
ジョン、ポール、ジョージの3人にとって、それは共通認識になっていたという。
こうして、ピート・ベストを「クビ」にしたビートルズは、その後釜として、リンゴ・スターをドラム担当として、バンドに迎え入れた。
その後のビートルズの大活躍は、もはや言うまでも無いが、
リンゴ・スターは、デビュー直前という土壇場になって、ビートルズに加入したという事もあって、
「リンゴ・スターは、世界一、幸運な男だ」
などと言われ、ともすれば、揶揄されたりもしていた。
だが、リンゴ・スターは、ビートルズのメンバーの中でも、一番年上であり、それに何と言っても性格も穏やかで、皆のムードメーカーにもなっていた。
ご存知の通りというか、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは、とても我が強く、ぶつかる事もしばしばだった。
ジョージ・ハリスンは、一番年下であり、ジョンとポールの「弟分」なので、恐らく、当初は発言力も無かった。
そこで、バンドの最年長であり、性格も良く、穏やかな人柄だったリンゴ・スターが、
「ビートルズの潤滑油」
のような役割を果たしていた。
リンゴは、その穏やかで人懐っこい人柄で、ビートルズのメンバー達を包み込み、リンゴが居るだけで、ビートルズの雰囲気は、とても和やかになっていた。
もしも、リンゴ・スターが居なければ、ビートルズはもっと早く「空中分解」していた…という見方も有るぐらいである。
とにかく、バンドが長く続くためには、リンゴ・スターのような、「潤滑油」の役割が、とても大きいのである。
…という事で、ここまでお読み頂き、賢明な読者の皆様は、もうおわかりかと思うが、
ビートルズにおけるリンゴ・スターのような役割を果たしていたのが、
サザンオールスターズにおける「毛ガニ」こと、野沢秀行だったのである。
野沢秀行もまた、
「サザンの潤滑油」
として、非常に重要な存在となって行った。
以下、野沢秀行という男について、更に考察して行く事とする。
<サザンにとって、「毛ガニ」こと野沢秀行の存在とは何か…?~桑田佳祐が語る、野沢秀行>
「そもそも、バンドにパーカッションって要るのかなあ?」
「まあ、6人体制になれば、人数も『リトル・フィート』と同じになるから、良いんじゃない?」
当初、サザンのメンバー達は、そういうノリで野沢をサザンに迎え入れた(?)。
そして、何かと言えば、サザンのメンバー達が、野沢を「オチ」に使ったりしていたが、
サザンの中では、一番年長者である野沢は、そういう扱いをされても、特に怒ったりはせず、
それどころか、積極的に「ホラ話」をして、サザンのメンバー達を笑わせたりして、場を和ませたりしていた。
とにかく、野沢がその場に居るだけで、バンドとしての雰囲気は、とても和み、明るい空気に包まれるようになっていた。
先程、ビートルズにおけるリンゴ・スターの役割の重要性について書いたが、
サザンにおける野沢秀行の役割も、それと酷似している。
やはり、バンドというか、人間の集団が長く維持されて行くためには、そのような「潤滑油」的な存在は必要不可欠であると言えよう。
後年、サザンがデビュー40周年を迎えた時、その記念ライブで、野沢秀行は、ファンに対し、
「40年間、ずっと考えてた事が有る。パーカッションって要らないよね、このバンドに…。みんな、そう思わない?」
と言ったところ、ファンは大爆笑であった。
後に、その事について、桑田佳祐は、
「『パーカッションって、必要ですか?』っていう、毛ガニの言葉ね。あれは本当に良い言葉だなあと思ってね(笑)。本当に、よくぞ言ったというか、『待ってました!!』って感じだったんだけど…」
と言った後、桑田は野沢秀行について、声を潜めながら(?)こんな事を言っていた。
「毛ガニが居なくてもね、音楽は作れるんですよ…」
それを聞いて、インタビュアーも笑っていたが、更に桑田は、
「だけどね…。毛ガニが居ないと、サザンが味気なくなっちゃうの」
と、付け加えた。
そう、サザンにとっての、野沢秀行の存在とは、その一言に尽きるのではないだろうか。
野沢には、ヘルニアという持病が有り、時折、サザンの活動を「お休み」する事が有るが、
そんな時は、別の代役がパーカッションを務めたりしている。
だが、野沢が居ないサザンは、やはり、何処となく物足りない。
更に言えば、野沢が居るのと居ないのとでは、バンドとしてのサザンの「華」は全く違うと言っても、過言ではない(※勿論、野沢が居なければ、サザンにはバンドとしての「華」が足りないように思えてしまう)。
という事で、野沢秀行というメンバーの重要性について、ここで特に強調させて頂きたい。
<「ザ・ベストテン」に見る、1980(昭和55)年夏のヒット・チャート戦線~八代亜紀『雨の慕情』、長渕剛『順子』、高田みづえ『私はピアノ』、ロス・インディオス&シルヴィア『別れても好きな人』etc…>
さて、少し野沢秀行の話が長くなったが、1980(昭和55)年に話を戻そう。
この年(1980年)夏のヒットチャート戦線を賑わせた曲について、
「ザ・ベストテン」
にランクインした曲に基づき、いくつかご紹介させて頂くと、
八代亜紀『雨の慕情』は、1980(昭和55)年7月17日、「7位」で「ザ・ベストテン」に初登場し、以後、4週にわたって「ベストテン」にランクインしたが、
「雨、雨、降れ降れ、もっと降れ…」
と、八代亜紀が左手を翳しながら歌う振り付けが、大いに話題になった。
当時、この曲の振り付けは、小学生の子供達も真似するぐらい、大人気となっており、強いインパクトが有った。
長渕剛『順子』は、1980(昭和55)年7月24日に、「5位」で「ザ・ベストテン」に初登場し、以後、最高「2位」にまで上昇する大ヒット曲となったが、
当時、長渕はテレビには全く出ていなかったものの、ファンからの熱い要望に応え、「ベストテン」に出演した長渕は、ギター一本で『順子』を熱唱した。
当時の長渕剛は、爽やかな好青年風(?)の雰囲気が有ったが、
この長渕剛が、後年「チンピラ化」して、桑田佳祐と大揉めに揉めてしまうとは、一体、誰が予想したであろうか…。
桑田佳祐と縁が有った人といえば、高田みづえも、その1人である。
この年(1980年)、原由子がサザンで初めてメイン・ボーカルを取った曲、
『私はピアノ』
が、桑田佳祐から高田みづえに対して、楽曲提供された。
すると、高田みづえが歌った『私はピアノ』は、1980(昭和55)年9月18日、「9位」で「ザ・ベストテン」に初登場すると、以後、最高「4位」まで上昇する大ヒットとなった。
『私はピアノ』
は、高田みづえの最大のヒット曲となったが、高田みづえバージョンでは、サザン・バージョンでの、桑田佳祐・原由子の「掛け合い」のような「おふざけ」(?)も無く、高田みづえが、しっとりと真面目に(?)歌い上げている。
それにしても、原由子が言っていた通り、
『私はピアノ』
という曲は、
「桑田さんって、何でこんなに女心がわかっちゃうんだろう…」
と、思わず言いたくなるような、切ない女心が描かれた名曲である。
ロス・インディオス&シルヴィア『別れても好きな人』
は、1980(昭和55)年7月17日、「8位」で「ザ・ベストテン」に初登場し、以後、最高「4位」まで上昇する大ヒット曲となったが、
『別れても好きな人』
は、デュエット・ソングの定番として、この後、人々に長く愛される曲となった。
そして、サザンも、この曲の大ヒットに触発されたのか、この後、あるデュエット・ソングをリリースする事になるが、その話については、また次回。
(つづく)