1992~1996年のサザンとユーミン⑪ ~1996年『まちぶせ』(前編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1992(平成4)~1996(平成8)年にかけて、サザンオールスターズ松任谷由実(ユーミン)は、テレビドラマとのタイアップで大ヒット曲を連発していたが、そんな1990年代のサザンとユーミンの黄金時代を描く、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

を、当ブログにて断続的に連載中である。

前回は、1995(平成7)年にリリースされたユーミン(松任谷由実)の楽曲『輪舞曲(ロンド)』と、その曲が主題歌として起用され、松本明子が主演に抜擢された、同年(1995年)の日本テレビのドラマ『たたかうお嫁さま』を、取り上げた。

 

 

…という事で、これまで書いて来た、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズは、下記の通りである。

 

①1992年『涙のキッス』と『ずっとあなたが好きだった』

②1993年『真夏の夜の夢』と『誰にも言えない』

③1993年『エロティカ・セブン』と『悪魔のKISS』

④1994年『Hello, my friend』と『君といた夏』

⑤1994~1995年『祭りのあと』と『静かなるドン』

⑥1994~1995年『春よ、来い』

⑦1994年『砂の惑星』と『私の運命』(第1部)

⑧1995年『命の花』と『私の運命』(第2部)

⑨1995年『あなただけを ~Summer Heart break~』と『いつかまた逢える』

⑩1995年『輪舞曲(ロンド)』と『たたかうお嫁さま』

 

…というわけで、前回の記事で「1995(平成7)年編」まで書き終わったので、

今回は、このシリーズの最終章である「1996(平成8)年編」を書くが、

その「1996(平成8)年編」ユーミン(松任谷由実)の章として書かせて頂くのが、

『まちぶせ』

という楽曲である。

 

 

『まちぶせ』

といえば、元々、ユーミン(松任谷由実)が作詞・作曲し、1981(昭和56)年に石川ひとみが歌い、大ヒットした曲として有名だが、1996(平成8)年に、荒井由実名義でユーミン(荒井由実)がセルフ・カバーして、15年越しに、ユーミン(荒井由実)本人も大ヒットさせた。

いや、というよりも、元々『まちぶせ』という曲は、1976(昭和51)年に、ユーミン(荒井由実)三木聖子のために書いた曲であり、三木聖子に楽曲提供されたものである。

そこから起算すると、ユーミン(荒井由実)本人が大ヒットさせるまで、実に20年越しの楽曲だった…という事になる。

というわけで、今回は「作家」としてのユーミン(荒井由実・松任谷由実)にスポットを当てる事とする。

それでは、「1992~1996年のサザンとユーミン」の「第11回」、「1996年『まちぶせ』(前編)」を、ご覧頂こう。

 

<天才少女・ユーミン(荒井由実)~1971(昭和46)年、当時17歳で「作曲家デビュー」を果たし、翌1972(昭和47)年に歌手デビュー>

 

 

 

 

荒井由実(あらい・ゆみ)は、1954(昭和29)年1月19日、

東京・八王子の「荒井呉服店」を営む両親の下、3男2女の第4子(次女)として生まれた。

「呉服屋のお嬢様」

だった荒井由実は、何不自由なく育ったが、幼少期から音楽に天賦の才が有り、6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からピアノを習い始め、それら全ての楽器を弾きこなしていたという。

 

 

 

1966(昭和41)年、荒井由実立教女学院中学に入学したが、

荒井由実が、その立教女学院中学在学中の14歳頃、後にブランド・コンサルティング会社、シー・アイ・エーの創業者となり、当時、彼女と親しかった、シー・ユー・チェンによって、

「ユーミン」

というニックネームを付けられた。

彼女自身、「ユーミン」という呼び名を、とても気に入り、以後、「ユーミン」という愛称が定着する事となった。

という事で、以後、この記事でもユーミン(荒井由実)として、話を進める事とする。

そのユーミン(荒井由実)は、前述の通り、音楽に天才的な才能を発揮していたが、彼女は絵もとても上手く、音楽と絵画に明け暮れる青春時代を過ごした。

そして、中学時代に、ユーミン(荒井由実)は、文化人が多数集まる、港区麻布台のイタリアン・レストラン「キャンティ」にも出入りし、文化人達と交流し、刺激を受けていた。

そのようなエピソードを見ると、ユーミン(荒井由実)は何とも早熟というか、大人びた女の子だったようである。

 

 

 

 

その後、ユーミン(荒井由実)立教女学院高校に進学し、本格的に音楽活動を行なったが、

1971(昭和46)年、ユーミン(荒井由実)は高校3年生の頃、

『愛は突然に…』

という曲のデモテープを作ると、この曲が、ザ・タイガースを脱退し、ソロ活動を開始していた、加橋かつみに提供され、レコードとしてリリースされた。

こうして、ユーミン(荒井由実)は当時17歳にして、「作曲家デビュー」を果たした。

つまり、ユーミン(荒井由実)は歌手デビューの前に、まずは作曲家として、世に出たという事になる。

 

 

1972(昭和47)年4月、ユーミン(荒井由実)多摩美術大学に進学したが、

実は、当時のユーミン(荒井由実)は、作曲家志望であった。

だが、当時、ユーミン(荒井由実)と交流が有り、アルファレコードを設立していた、村井邦彦の勧めにより、ユーミン(荒井由実)は歌手としてもデビューする事なった。

1972(昭和47)年7月5日、かまやつひろしのプロデュースにより、ユーミン(荒井由実)は、自らが作詞・作曲した、

『返事はいらない』

というシングルを出し、当時18歳にして、ユーミン(荒井由実)は歌手デビューを果たした。

だが、『返事はいらない』は、あまり売れず、レコード売上も数百枚程度だったという。

しかし、17歳で作曲家デビュー、18歳で歌手デビュー(※しかも、自ら作詞・作曲)したというのだから、ユーミン(荒井由実)は、やはりタダ者ではない。

紛れもなく、ユーミン(荒井由実)は「天才少女」であった。

そして、この後、ユーミン(荒井由実)の快進撃が始まる事となった。

 

<1973(昭和48)~1976(昭和51)年…ユーミン(荒井由実)の怒涛の快進撃~歌手としても作曲家としても大ブレイク>

 

 

 

 

1973(昭和48)年11月20日、ユーミン(荒井由実)は、村井邦彦のプロデュースにより、ファースト・アルバム、

『ひこうき雲』

をリリースした。

リリース当初、『ひこうき雲』は、あまり売れていなかったが、やがてラジオの深夜番組で取り上げられたのをキッカケに、ジワジワと売れ始め、約1年半かけて、オリコン最高「9位」にまで上昇し、最終的には約26万枚を売り上げる大ヒット作となった。

 

 

 

なお、アルバムと同タイトルの楽曲、

『ひこうき雲』

は、遥か後年、2012(平成24)年に、宮崎駿監督の映画、

『風立ちぬ』

の主題歌に起用され、リバイバル・ヒットをした…というのは、皆様もよくご存知の通りであるが、

『ひこうき雲』

によって、ユーミン(荒井由実)はアーティストとしての実力を示す事となった。

 

 

 

1975(昭和50)年8月1日、ユーミン(荒井由実)が作詞・作曲し、ばんばひろふみ・今井ひろしのフォーク・デュオ、バンバンに楽曲提供された、

『「いちご白書」をもう一度』

がリリースされたが、この曲はオリコン「1位」を記録する、爆発的な大ヒットを記録した。

バンバンは、当時、全く売れないグループだったが、

『「いちご白書」をもう一度』

により、大ブレイクを果たす。

後に、ばんばひろふみも、

「ユーミンさんのお陰で、歌手としての寿命が延びた」

と、感謝の言葉を残しているが、この曲の大ヒットにより、

「作家・荒井由実」

の名声は、不動の物となった。

 

 

ちなみに、

『いちご白書』

というのは、1968(昭和43)年のコロンビア大学の学園紛争を題材として、1970(昭和45)年に公開された映画のタイトルであるが、ユーミン(荒井由実)は、その『いちご白書』という映画のタイトルを、自らが作った楽曲に取り入れ、それがユーミン(荒井由実)に提供された…という事である。

1975(昭和50)年には、既に日本でも学生運動は「下火」になっていたが、まだ人々の間に、学生運動の記憶が生々しく残っていた頃でもあり、だからこそ、

『「いちご白書」をもう一度』

は、その頃の記憶を呼び起こさせるような効果が有り、それが、大ヒットに繋がったのではないかと思われる。

 

 

 

さて、1975(昭和50)年10月5日、ユーミン(荒井由実)は、自身通算6枚目のシングル、

『あの日にかえりたい』

をリリースしたが、この曲も、オリコン「1位」の大ヒットとなり、

遂に、ユーミン(荒井由実)は歌手としても大ヒット曲を出した。

『あの日にかえりたい』

は、初期ユーミン(荒井由実)を代表する名曲中の名曲であるが、

『ひこうき雲』『ルージュの伝言』『あの日にかえりたい』

などを聴くと、ユーミン(荒井由実)の天才ぶりが本当によくわかる。

一言で言えば、感性がとても瑞々しいというか、他の人では絶対に真似できないような個性が有る。

そして、日本人離れした「お洒落」さも、ユーミン(荒井由実)の音楽の魅力である。

 

 

 

 

 

以後、ユーミン(荒井由実)は、

・『CORBALT HOUR(コバルト・アワー)』(1975)

・『YUMING BRAND(ユーミン・ブランド)』(1976)

というアルバムを立て続けに大ヒットさせ、

「第一次・ユーミン(荒井由実)ブーム」

を巻き起こす。

こうして、デビューして数年、当時22歳にして、ユーミン(荒井由実)は早くもアーティストとしての地位を確立してしまった。

 

 

なお、ユーミン(荒井由実)がプロのアーティストとして大活躍していた頃、桑田佳祐・原由子らは、まだ青山学院大学の学生であり、後にサザンオールスターズの原型となる学生バンドで活動していた。

ユーミン(荒井由実)は、桑田佳祐から見れば、2歳年上だったが、その時、桑田はユーミン(荒井由実)について、何を思っていたのであろうか…。

しかし、桑田佳祐ユーミン(荒井由実)も、まさか遥か後年に、「紅白」の舞台で共演する事になろうとは、夢にも思っていなかったに違いない。

 

<1976(昭和51)年…松任谷正隆と荒井由実が結婚~以後、「松任谷由実」として音楽活動を継続>

 

 

さて、ユーミン(荒井由実)が歌手や作曲家として大活躍していた頃、ユーミン(荒井由実)は、松任谷正隆というミュージシャンと出逢った。

松任谷正隆は、1951(昭和26)年11月19日生まれで、ユーミン(荒井由実)よりも3歳年上で、慶應幼稚舎から慶應義塾大学まで、ずっと慶応で過ごしていた、生粋の「慶応ボーイ」だったが、松任谷正隆は、吉田拓郎のバックバンドのバンド・マスターなどを務めたり、細野晴臣・鈴木茂・林立夫らと「キャラメル・ママ」(※後に「ティン・パン・アレイ」に移行)というバンドを結成し、活動したりしていた。

そんな凄腕のミュージシャンだった松任谷正隆と、「天才少女」ユーミン(荒井由実)が出逢い、お互いの才能に惹かれ合い、2人は恋人同士となった。

そして、松任谷正隆ユーミン(荒井由実)は、結婚を前提に交際する事となった。

 

 

 

1976(昭和51)年、松任谷正隆との結婚を目前に控えていた、ユーミン(荒井由実)は、

「前々から、大ファンだった」

と公言していた、矢沢永吉と、あるテレビ番組で「共演」している。

何処かの海岸を、ユーミン(荒井由実)永ちゃん(矢沢永吉)が、2人で並んで歩きながら、色々な話をしていたが、当時、ユーミン(荒井由実)は22歳、永ちゃん(矢沢永吉)は27歳だった。

「ユーミンさん、今度、結婚するんだってね」

矢沢永吉にそう聞かれ、

「そうなの。今度に秋にね…」

と、ユーミン(荒井由実)は答えていたが、

「私、きょうだいの中でも下の方だったから、親からも『どうでもいい』っていうか、ほっとかれて育ったから、自分で色々とやるようになったの」

という話もしていた。

「だから、自己顕示欲も強くなったのかも?」

と、ユーミン(荒井由実)は言っていたが、そんな彼女が、アーティストとして優れた才能を発揮するようになったのは、裏を返せば、両親が何でも好きな事をやらせてくれた…という面は有ったもかもしれない。

ちなみに、この当時、既に矢沢永吉は結婚し、子供も2人居たが、

「永ちゃんは、お子さんはミュージシャンにしたいと思ってる?」

と、ユーミン(荒井由実)に聞かれた矢沢は、

「いや、別に何でもいいんだよ。好きな道に進めばいいと思うよ」

と、率直に答えていた。

そんな矢沢に対し、

「私、凄い教育ママになったりしてね…」

と、ユーミン(荒井由実)が答えているのが、印象的であった。

このユーミン(荒井由実)永ちゃん(矢沢永吉)は、デビューは同じ1972(昭和47)年であり(※矢沢永吉は、「キャロル」というバンドを率いてデビュー)、そして、それから50年以上経った今(※2024年現在)も、未だに現役というのが、本当に凄い。

2人とも、誠に偉大なるミュージシャンである。

 

 

 

1976(昭和51)年11月29日、松任谷正隆ユーミン(荒井由実)は、横浜・山手教会で結婚式を挙げた。

以後、荒井由実は、

「松任谷由実(まつとうや・ゆみ)」

という名前で、音楽活動を継続して行く事となるが、

松任谷正隆という伴侶を得た事により、ユーミン(松任谷由実)の音楽活動の幅は、間違いなく広がった。

「ユーミン(松任谷由実)が作詞・作曲し、松任谷正隆が編曲をする」

というパターンが確立され、妻・ユーミン(松任谷由実)が作った楽曲を、夫・松任谷正隆がアレンジし、最高の楽曲に仕上げる…という、

「最強ミュージシャン夫婦」

が、ここに誕生したのである。

この2人は、まさに「運命の出逢い」だった。

 

<ユーミン(荒井由実⇒松任谷由実)の大親友・かまやつひろし~名曲『中央フリーウエイ』を、ユーミンがかまやつひろしの為に作る>

 

 

 

さて、先程、若き日のユーミン(荒井由実)と、永ちゃん(矢沢永吉)との交流について書いたが、

ユーミン(荒井由実)のデビュー曲、

『返事はいらない』

のプロデュースを行なった、「ムッシュ」ことかまやつひろしユーミン(荒井由実)は、大変仲が良く、2人は「大親友」同士の関係だった。

ユーミン(荒井由実)は、あまりテレビには出ない人だったが、

1976(昭和51)年、ユーミン(荒井由実)はTBSの番組、

「セブンスターショー」

に出演し、かまやつひろしと共演している。

そして、この番組で、ユーミン(荒井由実)かまやつひろしは、

『ルージュの伝言』『中央フリーウエイ』

などを一緒に歌ったりしていたが、

『中央フリーウエイ』

は、元々、ユーミン(荒井由実)が、かまやつひろしの為に作った曲だったという。

そして、ユーミン荒井由実⇒松任谷由実になった後も、この2人の交流は、ずっと続いていた。

「ムッシュ(※かまやつひろし)と、ユーミンさんは、お互いにリスペクトし合っていて、本当に仲が良かった。見ていて、羨ましい関係だったね…」

かつて、ザ・スパイダースで、かまやつひろしと盟友だった堺正章は、後に、そう語っている。

 

<中島みゆきの登場~『アザミ嬢のララバイ』(1975)でデビューし、『時代』(1976)で大ブレイクを果たす>

 

 

さて、ユーミン(荒井由実)が大活躍していた頃、

北海道出身の、ある女性歌手が、歴史の表舞台に登場して来た。

それが、北海道出身の中島みゆきである。

中島みゆき(本名:中島美雪)は、ユーミン(荒井由実)よりも2歳年上の、1952(昭和27)年2月23日生まれであるが、中島みゆきは北海道・札幌市の「中島産婦人科」という産婦人科医の院長の娘として生まれた。

「美雪」

という名前は、いかにも北海道の人らしい名前である。

そして、ユーミン(荒井由実)が、

「呉服屋のお嬢様」

だったのに対し、中島みゆきは、

「お医者さんのお嬢様」

であった。

そして、ユーミン(荒井由実)と同様、中島みゆきも、幼い頃から音楽の才能を発揮し、高校生の頃には既に自らオリジナル曲を作り、歌っていた。

1975(昭和50)年、当時、北海道の藤女子大学に通う学生だった中島みゆきは、ヤマハ主催の、

「第9回・ポプコン(ポピュラーソング・コンテスト)」

に出場し、入賞を果たした。

 

 

そして、「第9回ポプコン」の入賞を機に、中島みゆきはプロの歌手としてスカウトされ、

1975(昭和50)年9月25日、

『アザミ嬢のララバイ』

という曲で、デビューを果たした。

なお、ユーミン(荒井由実)同様、中島みゆきも、

「自分で作詞・作曲して、自分で歌う」

という、所謂、

「シンガー・ソング・ライター」

である。

 

 

 

 

 

 

そして、中島みゆきは、「第9回」に引き続き、

「第10回・ヤマハ ポプコン」

に出場し、それと同時に、

「第6回 世界歌謡祭」

にも出場したが、その時に中島みゆきが歌った楽曲、

『時代』

が、共にグランプリを獲得するという、快挙を達成した。

『時代』

は、1975(昭和50)年12月21日、中島みゆきの2枚目のシングルとしてリリースされ、大ヒットを記録した。

こうして、ユーミン(荒井由実)に遅れる事3年、中島みゆきが音楽界の檜舞台に登場して来たが、以後、

「ユーミンVS中島みゆき」

という、2大アーティストが競い合う時代が到来する事となった。

 

<1976(昭和51)年6月25日…ユーミン(荒井由実)が作詞・作曲した『まちぶせ』が、三木聖子のデビュー曲としてリリース~しかし、オリコン最高「47位」と、「不発」に終わる>

 

 

さて、今まで述べて来た通り、ユーミン(荒井由実)は、既に20歳そこそこにして、

「実力派アーティスト」

として、遺憾なく実力を発揮していたが、実は当時のユーミン(荒井由実)は、

「私、当時はアイドルなんて、嫌いだった」

と、後に語っている。

「だから、アイドル達に負けないように、アーティストとして頑張らなきゃと思っていた」

と、その頃の心境について語っていたが、そんなユーミン(荒井由実)が、「アイドル」の楽曲を手掛ける事となった。

1976(昭和51)年、当時20歳だった、三木聖子という新人アイドルのために、楽曲を書いて欲しい…という依頼が、ユーミン(荒井由実)の元に舞い込んだ。

「アイドルの曲か…。どうしようかな」

と、ユーミン(荒井由実)も迷ったかもしれないが、結局はプロとして、そのオファーを受ける事となった。

 

 

そして、1976(昭和51)年6月25日、ユーミン(荒井由実)が作詞・作曲し、松任谷正隆が編曲を手掛け、

新人アイドル・三木聖子のデビュー曲として提供された、

『まちぶせ』

がリリースされた。

ちなみに、この曲はユーミン(荒井由実)三木聖子の実体験を元にして書いた曲だったという。

しかし、この時は、『まちぶせ』はオリコン最高「47位」という「不発」に終わり、あまり売れなかった。

そして、三木聖子もアイドルとしては大成せず、短期間で芸能界を去って行く事となった。

「アイドルなんて…って、舐めてたけど、アイドルのプロデュースって、結構大変なのね…」

と、この時、ユーミン(荒井由実)は痛感したかもしれないが、

「だったら、徹底的に、アイドルのプロデュースをやってやろうじゃないの!!」

と、ユーミン(荒井由実)の気持ちに火が付いた。

そして、そんなユーミン(荒井由実)の前に、あるアイドル歌手が現れる事となるが、その話については、また次回。

 

(つづく)