『変わったね』なんて簡単に言うものではない | 坂本龍~今夜は泡風呂ぐ~

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人に対してマイナスな意味での
『変わった』或いは
『変わってしまった』などと言う所感を
持ってしまう時がある。


それは、身近な人から
テレビの向こう側の人間にまで、
対象になるものは多い。


今回は自戒も込めて、
人間がその第3者に対してくだす
変わった という安直な評価に対して
メスを入れていきたい。


『変わる』と言うものはいつだって
相対的な評価だ。
何か比較対象が存在して成立するものである。
つまり、必ずしもその人が変わった訳ではなく、
知らず知らずのうちに、
自分自身が変わってしまっている場合がある。


僕が苦手なのはその短絡的発想だ。
あたかも『アイツは変わってしまった』
『あんな振る舞いをする奴では無かった』
などと言う一方的な感情は、
自分はさもしっかりとした軸の持ち主で、
自分自身が変わっている筈がない、
と言う疑念の無さ、それは
もはや驕りがあるように思える。


つまり要約すると、
まずは己を疑え、と言う事。


先程にも供述した、
『変わった』という観点は
あくまでも相対的なものだ。


その人は、とりたてて何も変わっていない。
自分自身が、違う方向に行っている。

であったり、

向こうは確かに変わった。
自分自身が、ただ取り残されているだけ。

であったり。


また、後者がより厄介なのは
『この人はいつまでもこうあって欲しい』
という極めて主観性の高い理想が
追随しているように思う。


そんな変化のない、
よくない意味での安定性のあるものに、
人は固執してしまうのだ。

極端に人は変化を嫌うし、
変化を怖がってしまう。

自分の変化も、そして周りの変化も、
好きだったものが変化しまう事に対しても。



例に挙げるなら、
僕は中高生の頃
アジアンカンフージェネレーションと言う
バンドに没頭していた。

今でももちろん好きだ。


初期〜中期あたりの、
エモーショナルで文学性のある歌詞が
好きだった。

しかしながら、徐々に作品性は進化し、
サウンド面も歌詞においても、
少しずつ、エモーショナルな
要素が減ったぶん、包容力が増し
歌詞のアプローチの角度が変わっていった。


その時僕はマイナスな意味で
『変わってしまった...』と捉え、
初期アジカンに思いを馳せ
ついには新譜を追う事をやめた。
そんな時期もあった。

(今は新譜が出ると必ず聴く)

アジカンは元々そういう一面も
持ち合わせていた、
その方向性を視野に入れていたのに関わらず
自分がその変化に怯え、拒絶した。
自分自身がただ置いていかれていた。
それだけだ。


では何故置いていかれてしまうのか。



アップデートという言葉がある。
価値観や発信の手段のアップデートが
好きな人は、どんどんアップデートする。

今で言う多様性というものを、
どんどん取り入れる。


アップデートが面倒くさい人は
いつまでもアップデートしない。


その軋轢は、ただの片方の怠慢なのに、
いともたやすく第三者から
『変わった』というレッテルを貼られる訳だ。
これは甚だお門違いである。


あなたは誰かに『変わった』
と言われた事が無いだろうか?
誰かに『変わった』と言った事が
ないだろうか?

そしてそれは、あなた自身が
本当に変わったのか、向こうが
取り残されてしまっているのか、
あなた自身が向こうの変化を
拒絶しているのか、
さてどうだろう。


以上のことから、
僕は安易に人に変わったという
評価をしないようにしている。

自分自身のアップデート力や
洞察力に余念なく生きてから
ようやくくだせる評価だからだ。


ただ、明らかに素行が不良になっていたり
100対0のような相対的な範疇を超えた
世間的な変化の場合は、
それは言ってあげよう。

今回取り上げた変化というのは
機微なものなので、
どうしても抽象的になってしまう。
申し訳ない。
文章力を高めたい。。


とかく、今回の記事は
変化とそれに付随する感覚について。
でした。