どう生きるか | 坂本龍~今夜は泡風呂ぐ~

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思えば20代前半の頃は
己の自信の無さから
カスみたいなアイデンティティに
縋りついていたように思う。

なにかこう、22歳くらいまで付随した
無敵感のようなものも削がれ出していき、
24歳辺りでとうとう『何もない若者』と
なり得た途端に、かなり歪んだ
性格を形成した節があった。

今こうして当初の自分を
俯瞰的な目線で文章を書けているので、
あの頃の地獄のような日々から
幾許か脱却できたのだろうなと思う。


カスみたいなアイデンティティ。


それは例えば
流行には飛びつかない、或いは
流行を安全な場所から非難、糾弾する
などと言った
かなり安直で短絡的な、
努力を必要としないものだ。


その頃、SNOWと言う
加工アプリの先駆け的コンテンツが
流行し、若者達はそのフィルターの
新鮮さにこぞって興じた。

当時まだ若者の一員である俺は
死んでもそんなものやるか、と言う
安直な拒絶反応が脳内に蔓延していた。


その思考を分解すると、
大衆生を纏ったものに
飛び込む事がただ怖かっただけである。


マジョリティーに溶け込んで仕舞えば、
途端に自分は『本当にどうしようもなく』
なってしまうという恐れだ。


今流行ってるものを、あえてしない。
それによって、『軸があるポーズ』が
安易に入手出来る。
それに、少しだけ安堵する。
カスのようなアイデンティティ。

しかしそんな付け焼き刃は、
第三者視点からすれば
魅力になどなる筈がない。


30歳になって思う事は、
臆する事なく流行に飛びついた上で、
そこからも尚漏れ出すユーモアが
その人のアイデンティティであって、
そのものを拒絶するのはただ老化の始まりであったりする。


俺は、24歳にして老化が始まっていたのだ。
それは、思い描いた人生との乖離や
ストレスなどが要因したと思う。

その乖離やストレスも、自分のせいに過ぎない。
全て己の努力が不足した事が
紐づいていて、
さらにそこから逃げるように
カスみたいなアイデンティティに
縋りついて、日々をやり過ごす。


そんな騙し騙しの生活も、
いずれは臨界点を迎えた。


それは、27歳の頃。
もう、若者の一員でもなくなった時、
カスのようなアイデンティティにおける
ほんの一握りの評価も全て消え去った時だ。


そこから、
負けを認める事が出来た。
自分は持ってない側の人間という事を
理解した。


認めざるを得なかったと言う表現が
正しいかもしれない。



一度、俺は負けた。

何者かになった仲間に、
怠惰な自分に、
愛していた音楽に。



そこから、不思議と聡明な思考を
持てるようになった。

いわば、物事の辻褄が合い出したのだ。


これをこうすれば、こうなっていく。


物事は基本的に整合性が取れた道筋に
進んでいく。
時折、アンコントーロラブルな事や
奇跡が起きるが、基本的にはそうだ。



努力や、真摯的な姿勢などが
持ってない側の人間には必要なのだ。
そこからは逃れられない。



ただ、自分には才能がある。
その自負だけは守り続けた。


持ってる才能のある人間は、
大袈裟に言うと努力せずとも売れる。
持ってる才能のない人間も、
何故か売れていく。
持ってなくて才能のない人間は、
ちょっと分からない。

1番厄介なのは
もっていないけど才能のある人間だ。


俺はこれに該当すると思った。



なにが厄介って、そう言った部類の人間は
才能の部分にかまけてしまうからだ。

ただ流動的に上手くいったり、
上手くいかなかったりを繰り返す。
あくまで流動的なので、
これといった答えが定まらない。


俺とて、若かりし頃は努力もせず
なんとなく注目を浴びた。
それは才能があるからだ。
ただそこに努力が追随しなかったせいで、
その忌まわしき20代をたらしめたのだ。


そして、28歳の頃、
もう一度チャンスが訪れた。
初めて努力をした、と言ってもいいだろうか。


結果、今までにないほど評価を得ることが出来て

これまで自分が生み出した
自己嫌悪を払拭出来たと思う。


それで30代を迎えた今、
その人生観もあってか、
とても楽しく日々を過ごしている。


カスみたいなアイデンティティに
縋る事もなく、流行にある程度飛びつき、
自分自身はこうだ、という自他共の評価を
リアルタイムで体感出来ている。



なにより、大好きな音楽で
生活が成り立っている。


そこに還る事が出来て、
本当に嬉しいのだ。