閉経の真意(東醫寶鑑~体・宇宙・生のビジョン8) | 東洋哲学・真髄探求ブログ

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自分が実体験してみて本当だったと確認出来た数々の出来事の記録と、物事の本当の真髄は何なのか?探求しています。
(2008年から書いてますが2019年にほとんど消して残すものだけ再掲載しましたので、年代があわないものが多いです、ご了承ください)

『・・・ここで重要なのが閉経を受け入れる姿勢だ。女性たちは特に七情傷が多く閉経という事件にどう対するかによって病症が千差万別だ。


一旦人によって閉経の時期が多少違う。初経が早ければ閉経も多少早く、その反対もまた同じだ。重要なのはリズム。初経が春を知らせる信号弾なら本格的に産み育てるのが夏、すなわち中年だ。夏から秋に移っていく瞬間がまさに閉経だ。


夏は短い。夏が長すぎれば地球は暑い熱で爆発するだろう。女性の体も同じ。夏の熱気がずっと続けば体内の血が一片に燃焼してしまうだろう。もうひとつ、月経があるということは可妊期という意味だが、それが無限に長引くのは本当に祝福だろうか。


・・・そういう点において閉経とは実に祝福だ。祝福以前に自然だ。夏が秋に変わることを宇宙の“金火交易”という。一番熱い時、立秋(陽暦8.7)が始まり太陽は位置を移動する。そして熱気が冷えながら果実が熟し出す。同じように閉経期もやはり、女性の人生にあって“金火交易”に該当する。


“顔が突然熱くなったり、うつ、不安、健忘症などの神経症状と、心血管疾患は火気が強いからだ。一方、皮膚の弾力喪失や骨ソショウ症、泌尿生殖器疾患は金気が衰えているからだ。だから強すぎる火を抑え、不足な金を補完すればホルモンに依存せずとも更年期症状に勝つことができる。


交易の時期をよく通過することができれば、秋の結実と冬の大省察が可能になる。


ところで臨床医学ではどうか。閉経期は女性の人生の終着駅というイメージが強い。今となっては女の役割が出来ないという認識が先に立つ。この女の役割とは性的対象としての女性性だ。子供を産みたいと言ってるわけじゃない、これも実に不思議な話だ。


女性解放されている世の中でなぜ女性たちは老いてまで性的欲求の対象となろうとするのか。また、女性性とはなぜただひとえに、男性たちの求愛の対象となろうとするのか。(愛したいのではなく、“愛されたい!”という熱望、捨てられるかもしれないという恐怖)男性たちの閉経期は64歳、49歳と64歳、この格差からも来る剥奪間もなかなかのもの。


・・・しかしもっと根本的なことは女性が男性の視点ではない、自らの力で生の周期を超えていくことではないか。女性たちは決して性欲と求愛の対象だけで認められる存在ではない。女性性の解放とはむしろそういう欲望の配置からの脱出でもある。


閉経期以後の女性性は消えるものではなく、まったく違う方式でもっと深く広く高揚される。普通生理が終われば卵巣機能も萎縮すると思うが、卵巣はその後も続けてステロイドホルモンを生成する。


ひとつの機能が萎縮すれば、他の機能が始まるのが私たちの体だ。


言い換えれば閉経期になるということは、女性性を失い体が質的に低下するという意味ではなく、新しい方式でセッティングされるという意味だ。この過程は必ず必要だ。それでこそ老年の人生を幸福に営むことができるからだ。』


・・・・・・・


昔どこかで初経から閉経まで33年3ヶ月とか聞いたような記憶がある。まずまず合ってるような気もする。卵の数は400個って感じだろうか?(くだらない計算をしてしまった)


まあ、それはいいとして。


自分のものはなにもない、すべて相手のためにあるものだと教える教理もある。初めてそう聞くと、本当にそうだと思ったこともあるが、実際に生きてみると、自分の存在価値がなくなってしまうという弊害もあった。相手がいない場合にも生きてる意味がないという結論に至る。・・・最近よく言う、自分を大切にするということができなくなるし、相手のために犠牲になり全てを尽くしたとしても、その力の→がひとつの方向にばかり傾いた場合、悲惨な結果になることを実感した。


→は一方通行では終結に至る、発展しない。→は両方で運営されてこそ、発展する。筆者が日本の図書館では読者が自分で本を元の位置に戻す、すばらしいことだと書いていた。(韓国ではやりっぱなしが多い、散らかす人ばかりで原型復旧しようとしない。だからそれを片付ける役割の人を雇わないといけないが日本式に自分がサービスを受ければなにか自分もして帰ろうとする。こういう流れが終わらない循環に至るというような意味)


話を戻して


私自身本文の如く考え、年を取ることに対しての憂鬱さや悲しさっていうのを比較的早めに味わって来た。まあ、年代的にはこれからが本番であまり偉そうには言えないが、経過してみると、この時期に至りとても体も軽く、精神と肉体が比較的一致したと思う。もっと早い時期からこうだったら、どんなに人生充実していただろうと思う。


若い頃のストレスと神経質にならざるを得ない生体周期、だからやはり私もあの(若い)頃に戻りたいとは思わない一人だ。


なにより、韓国では日本以上に結婚女性は子供を産むための道具で、子を産まない(産めない)女性は罪人で大衆の面前でも責められる。その十字架は背負った者にしかわからないだろう。だから自分がこの世で生き残るためにどんなことをしても子を産もうとする。山にこもる人、祈祷院に住み込む人、病院に毎月通いある財産や借金もすべてつぎ込む人・・・それはもう『蜘蛛の糸』の一場面、糸にしがみつく子のない女性たちという感じだ。


体外受精に毎月挑む女性たちと待合室などで交流しながら、まるで自分は牛のようだと思ったことがあった。雌牛は子が産めないと肉になってしまう、そういう生き残りを賭けた闘いだ。・・・で、やってるうちになにかあほらしくなった。一体どこに向かって何のために歩いているんだろうかと。(いや、皆さんがそれぞれの目標に向かって生きるのがどうこうと言ってるわけじゃなく、私はそうだったって話)


・・・こういう個人次元を超えてもっとスケールアップした“地球の母性”となっていけるのがこの晩年を迎えた女性だということ、まあ、やり方次第だが、うまくいけばやっと“すべてを自分の腕に抱き愛することができる”・・・そんな次元にアップグレードできる可能性を見る。(つづく)