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熊野神社(福島県相馬市蒲庭)

熊野神社(くまのじんじゃ)。



福島県相馬市蒲庭に鎮座。
御祭神は伊邪那岐尊(イザナギノミコト)、事解男命(コトワケオノミコト)、速玉男命(ハヤタマオノミコト)。

武田信玄に仕え、武勇で名を上げた甲州・小畑山城守又兵衛という人がいた。
信玄の没後、その跡を継いだ武田勝頼は武田領の版図を過去最大のものとするが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れて以降は勢力が衰え、ついに天目山の戦いで自害。
甲斐武田家は滅亡を迎えた。

そのような中で小畑山城守の孫三人はそれぞれ新たな地へと士官する。
長男は常陸國を支配する佐竹氏に、次男は相馬氏に、三男は伊達氏へと仕えた。
その三人のうち、相馬氏へと士官した次男は立切の地の棒山に居り、名を「愛沢新助」と号した。
この熊野神社はその愛沢氏の氏神なのだといわれている。
また、御神体は径四寸ほどの神鏡であると伝えられているのだとか。

幕末の頃は「奥の法師熊野権現祠」と呼ばれていた。
これは奥の法師という人物も熊野三神と合わせて祀られていたためらしい。

では、この「奥の法師」という人物が一体どんな人であったのかというと、こんなエピソードが残されている。
むかし、八沢湊で漁師が鮭をとっているところへ、一人の旅僧が通りかかり、漁師たちにこう言った。

「私は奥州の方に行こうとしているので、この湊を渡してほしい」

ところが漁師たちの返答はひどいもの。

「何言ってやがる!俺達はたくさんの魚をとって生業にしてるんだ!
 船で渡してやる暇なんてねぇや!
 法師さんよ、あんたがこの鮭を背負うことができたら船を出してやろうじゃねえか!」

と言うと、法師に鮭を背負わせてしまった。
これはいけません。

こんな仕打ちを受けた法師は背の上から「菰に包んだもの」を取り出し、水中へと投げ入れた。
すると次の瞬間!

空はまたたく間に暗雲に覆われ、雷鳴轟く暴風雨!
あっという間に夜のような真っ暗闇!
漁師たちは驚き逃げ出したが、洪水によってたくさんの魚網はみな流されてしまった。
さらに村には疫病が大流行!

そこで神託を乞うたところ、「高僧に魚を背負わせた罪によってこの災厄にあうものである」と出た。
村人たちは驚き、弘法大師の神霊によるものと恐れ、それ以降立切で鮭を取ることを禁じ、食することすらしなかった。
するとやがて疫病は無くなり、村に平穏が訪れたのだという。

法師が祀られていると伝えられているものの、現在は神社になっているので明治の神仏分離令のときに分祀されたのでしょうか。


そういえばこちら、南相馬市との境ですけど、住所は相馬市なんですね。
「南相馬市の神社が続きます」と書いておきながらさっそく市外の神社になってしまうという……


【 参道 】
こちらが参道。社号標の隣辺りから撮ってみた図。
ご覧の通り、結構な上りで境内は高台になっています。
この高さのおかげもあって、震災の津波から逃れられたんでしょうね。
この付近は津波の被害がすごくて辺り一面何も残っていない更地が広がっているんですが、やはり神社がある場所は守られているんでしょうか。




【 鳥居 】
白い石造りの神明鳥居。
高さはちょっと控えめサイズです。
新年にお参りしたからか、しめ縄も真新しい感じ。


鳥居の近くの木を見上げてみた図。


さらに参道を進んでいくと拝殿が見えてきます。
参道は完全に山道といった感じ。
こちらの神社へ行かれる際は歩きやすい靴でお参りされた方がよろしいかと思います。


【 拝殿 】
こちらが拝殿。
ちょっといろんな角度から撮るスペースが無かったのか、真正面からの一枚だけ。
鈴につながっている綱の色合いが綺麗ですね。




【 本殿 】
そしてこちらが御本殿。
相馬氏の勢力下の神社に多く見られる九曜紋が御神紋のようです。


さてさてさて。
そんなわけで無事お参りも済みまして、御朱印の紹介です。
こちらも前回までの記事と同様、伊勢大御神下大神宮さんが兼務されておりますので、そちらで御朱印をお願いしました。



そして頂いた御朱印がこちら。

皆さんも、旅の僧侶に声をかけられたら鮭を背負わすことのないようご注意を!



◆神社への地図



◆神社の情報

熊野神社   くまのじんじゃ

御祭神 : 伊邪那岐尊、事解男命、速玉男命
社格等 :
鎮座地 : 福島県相馬市蒲庭字舘前314