標高660m・比高210mの亀尾山城(日南町多里)は、久代宮氏の中務少輔盛忠の居城と伝わる…
この久代宮氏は、備後の庄原市の大富山城を本拠地とし、その大富山城はかなりの大規模城郭
多里の西北約1000m、標高777mの険峻な山上にある。山頂には「長三十間(約54m)横十間(約18m)」の平地があり、山の稜線には多くの平地や堀切が造られており、山麓には居館跡の平地もあり、南を大手としている。
この城は天文年間(1532~1555)尼子の属将の居城であったが、のち宮中務少輔盛忠・盛祐二代の居城となり、盛祐の没後は荒木和泉守長右衛門が城主となっていた。
慶長五年(1600)関ヶ原の役後、米子城の吉川広家が岩国転封とともに廃城となった。
『伯耆誌』は「宮中務少輔盛忠居城なり、天正十八年(1590)七月七日尼子氏の為に攻落さる」と述べ、『町史資料』は「宮氏は天正十八年八月七日多里で没し、常福寺墓地に殿様墓と呼ばれる宝筺印塔が建っている」と記している。
(※日南町誌より)
今回は城郭大系に記載のあった記述と遠望写真を手掛かりに踏査に挑んだ
記述通りで推測すると別の山になるが、遠望写真に一致する山があったので、そこへ…
西麓から山道があるのを見つけ、突入
この林業の作業道と思われる山道は麓で複数枝分かれしながらうねっているが、登って行く気配がないので途中より直登
東九郭と東八郭
その先には二重堀切
まず手前、東の堀切
二重堀切の間にある東七郭
二重堀切(西)
東六郭~東三郭
東三郭の隅には崩れた石垣
南には帯曲輪
主郭への虎口のような東二郭
薮に覆われていて分かり難いが、東二郭の北側には登り土塁
主郭
主郭西下には見事な堀切
この堀切は北でU字状に別れ、二条の竪堀となっていた
堀切を越えると西二郭
その先には再び堀切
堀切を越えた先は、曲輪段が一段ごとに高くなっていく…
西三郭~西七郭
西七郭の北と東には土塁
戻りに気づいたが、主郭の南には犬走り程度の帯曲輪
山麓部には居館跡ではないかと思われる三段の帯曲輪状の削平地
居館跡には、後世の改変なのか、虎口が
亀尾山城遠望
実地踏査を元に作成した概略図
軌跡ログ
日野郡日南町の城