大富山城 広島県庄原市 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

大富山城(広島県庄原市西城町西城・大富山)は、戦国時代末期の天文二年(1533)、久代宮氏七代の高盛がここに築城して、久代の比田山城から移り、「大キニ国モ富ムベキトテ其名ヲ大富ト号シ」たと伝えられています。

壺を伏せたような形の山で、山頂は平で広さ約200平方m、標高511.4m、比高約180m、斜面の急な山です。昔、その形から丸山と言われていました。
(※現地説明文より)


宮氏は安芸毛利氏に従い、伯耆に亀尾山城(日野郡日南町)を築いたりしており、鳥取県の歴史と関わりがあるので、番外編的に紹介するひらめき電球

現地の案内看板には載っていないが、本丸のある山頂から南の尾根へ曲輪群が連なり、北には二の丸が出丸のように突き出した場所にある…

「大堀切」
ここまで車が入れるが、堀切の側面はコンクリートで固められているガーン


本丸の「大富山城跡」の石碑ひらめき電球


南端部より山中へ入ると、「物見ヶ平」の直下には三重堀切が合格


荒れ果てた「物見ヶ平」…


本丸方面(北)へ尾根を進むと「古天神」…

大富山の古名は丸山といい、天満宮を勧請してあった。天文二年(1533)、宮高盛がこの山に築城の際、社を取り除いたが、居城後毎月末不思議な異変があるので、神の祟りを恐れ、本丸の西南にあたるこの場所に社を再建した。これを俗に「城山天神」という。しかしこの社地は峻阻で老少の参詣に困る為、寛政十年(1798)山麓の西にあたる入江中山へ移して「丸山天満宮」と称えた。
そして移転後も旧社はそのままにあって、「古天神」と呼ばれ、毎年7月25日に祭りを続けた。その後荒廃して今は敷石の散在する社跡が残るだけである。
このあたりは「天神ヶ平」といい、大富山城搦手から続く尾根が南へのびて「物見ヶ丸」に至る郭群の一部を形成しているところである。
(※現地説明文より)


南尾根の遺構も一通り見たか…
と思い、徒歩にて林道を歩いたのが幸いした…

この尾根の西を通る林道の下には、どの資料にも記載が見られない畝状竪堀群がビックリマーク


こちらは植林されている為、写真でも畝状竪堀群がハッキリ確認出来る合格


下山後、明神ヶ丸とも言われる二の丸へ…
神社があるが、荒れていて草が生い茂っていた汗


大富山城遠望カメラ





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