荒木城(豊岡市出石町荒木)
荒木城主は機屋(旗屋)氏と思われる。「川崎文書」は、荒木の須木神社(菅荘八幡宮)の旧神主家に伝わる文書である。この中の旗屋氏に関する史料を追ってみよう。
応安四年(1371)四月、末次六郎入道沙弥道了は重代相伝の地「貞行名」の名主職を養子機屋十郎左衛門政教に譲渡している。(末次道了田畠譲状)
(中略)
以上のように、史料からは機屋(畑谷)氏は南北朝期から戦国期まで存続していたことが確認でき、一応荒木城主は機屋(旗屋)氏を考えておきたい。
(※豊岡市の城郭集成より)
南西麓の須義神社から登る
踏み跡を辿り登って行くと、帯曲輪状の南西四郭~南西三郭
その西には南西竪堀
南西竪堀を登ると南西二郭(右奥に見えるのが主郭)
南西二郭の西を北へ行くと、北西二郭
東二郭
主郭は南西二郭~北西二郭~東二郭~南西二郭と繋がる帯曲輪で全周を囲んでいる
上下二段の主郭
北へ下ると、かなりの広さの北三郭
北三郭から西下を覗くと…縄張図には記載されていない曲輪が…
さらに西下にも曲輪
このような広めの曲輪が、さらに何段も連なっていた
西斜面を南下すると西竪堀
西竪堀の両側には複数の帯曲輪が配置されている
反対の東斜面には畝状竪堀群
かなり埋もれて分かり難いものが多い
東斜面の畝状竪堀群の南東へ下ると、南東曲輪群西二郭(北へ帯曲輪状に通路が伸びる為、北二郭でもある)
南東曲輪群主郭
南東曲輪群北三郭~北四郭
さらに南(やや東寄り)にも、八郭までの曲輪が確認出来る
そして東には、階段状に連なる曲輪群が、東十二郭まで連なっていた
荒木城遠望
軌跡ログ
旧出石郡出石町の城