赤碕台場 旧東伯郡赤碕町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
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赤碕台場(琴浦町赤碕)

徳川幕府が鎖国政策をとり外国船の着岸の厳禁をしたため、四十里にわたる海岸をもつ鳥取藩ではなかなか容易ならぬ仕事であった。(中略)
大阪天保山を守備していた本藩のものが、イギリス船を砲撃した事件もあり、その報いに来るであろうというので緊張は高まった。
このような経緯をたどってきたのであるが、海岸警備上特に必要なものは砲台であるので、以前からいろいろな計画も立てられたが、藩の財政などで容易に実現を見なかった。
文久三年、藩では藩の砲術家武宮丹治、軍監岩越治郎兵衛、郡代佐野増蔵などによって海岸要地の視察を行ったが、このころ主として六尾(現大栄町)反射炉のことを担当し、経営中であった瀬戸(現大栄町)の武信潤太郎氏の宅に立ち寄った際、彼より「外人の乱暴にあえば、そのみじめな被害はたちまち百姓に及ぶことを説き聞かせれば、彼らはすすんで台場の建設に協力するであろう。」との進言をうけ、丹治は非常に喜んで潤太郎にその計画などを依頼して帰った。そこでまず由良において試みたところ、極めて好結果であったので、同三年に伯耆では橋津・赤碕・淀江・境の台場がそれぞれ出来上がる事になった。
赤碕の台場は八橋郡および汗入郡の一部の農民を使役して築造された。その人夫賃はほとんどいうに足らないくらいで、一日米一升くらいであった。しかし当時においては、これを目当てにする者はなく、ただ御上のため、ひいては国土防衛のために夜を日についで働いたので、案外早く、そして堅固に出来たのだという。もちろん車などない時代であって、全ては肩で担ったとのである。一かんは十六貫ないし二十貫とされ、十六才より五十才までの男子が担いでいたのである。因伯八ヶ所の台場を築造するために使役として百姓の手伝った数は実に述べ十七万五千七百余人であったという。
(※赤碕町誌より)

赤碕台場の跡地…



今は何も残ってはいない…


東伯郡琴浦町の城