猪木さんへの絶賛と失望のゆらぎ〜『猪木戦記 第3巻 不滅の闘魂編』おすすめポイント10コ〜 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が65回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。






【書籍内容】
かゆい所に手が届く猪木ヒストリーの決定版!
日本プロレス時代から新日本プロレス時代まで、不世出のプロレスラー・アントニオ猪木の戦い、一挙一動を超マニアックな視点で詳しく追う。プロレス史研究の第一人者である筆者が猪木について書き下ろす渾身の書。
第3巻には、ザ・モンスターマンと異種格闘技戦史上に残る死闘を繰り広げた1977年(昭和52年)から、80年代の新日本プロレス・ブーム、愛弟子たちとの世代対決を経て、政界進出を果たした1989年(平成元年)までを掲載。

【目次】
1977年(昭和52年)
猪木が即答で選んだ「我が心の名勝負・モンスターマン戦」
1978年(昭和53年)
バックランドと世代闘争、地獄のヨーロッパ初遠征
1979年(昭和54年)
プロレスラーとして絶頂を極めた「栄光の1970年代」に幕
1980年(昭和55年)
波乱万丈の猪木にとっては珍しい「凪(なぎ)」の1年
1981年(昭和56年)
輝けるNWF王者時代の終焉~猪木の転換点
1982年(昭和57年)
病気・ケガとの戦い…ささやかれ始めた「猪木限界説」
1983年(昭和58年)
失神、タイガー引退、クーデター…
ブームの頂点から一転、スキャンダルまみれに
1984年(昭和59年)
名勝負、暴動事件、選手大量離脱事件…さまざまな猪木らしさを発揮!?
1985年(昭和60年)
ブロディの出現で、衰えかけた闘魂が蘇生!
1986年(昭和61年)
UWFと丁々発止の駆け引きを繰り広げる
1987年(昭和62年)
暴動に始まり暴動に終わる。スキャンダルに明け暮れた1年
1988年(昭和63年)
藤波と生涯最後の60分フルタイム戦!
ソ連をプロレスに引き込むことに成功
1989年(昭和64年・平成元年)
ソ連、東京ドーム、国会議員…誰も足を踏み入れたことがない新天地を目指す


著者
流智美(ながれ・ともみ)
1957年11月16日、茨城県水戸市出身。80年、一橋大学経済学部卒。大学在学中にプロレス評論家の草分け、田鶴浜弘に弟子入りし、洋書翻訳の手伝いをしながら世界プロレス史の基本を習得。81年4月からベースボール・マガジン社のプロレス雑誌(『月刊プロレス』、『デラックス・プロレス』、『プロレス・アルバム』)にフリーライターとしてデビュー。以降、定期連載を持ちながらレトロ・プロレス関係のビデオ、DVDボックス監修&ナビゲーター、テレビ解説者、各種トークショー司会などで幅広く活躍。


今回は2023年にベースボールマガジン社さんから発売されました流智美さんの猪木戦記 第3巻 不滅の闘魂編』を紹介させていただきます。

流さんによるアントニオ猪木ヒストリー三部作、今回が最終章。過去の2作品もレビューさせていただきました。





流さんによるかゆい所に手が届く猪木ヒストリー最終章はザ・モンスターマンと異種格闘技戦史上に残る死闘を繰り広げた1977年(昭和52年)から、80年代の新日本プロレス・ブーム、愛弟子たちとの世代対決を経て、政界進出を果たした1989年(平成元年)までを掲載しています。今回も面白いです!そしてなぜ猪木さんが引退試合を行った1998年まで掲載していないのか?そこには流さんなりのこだわりがありました。

今回は『猪木戦記 第3巻 不滅の闘魂編』の魅力をプレゼンしていきたいと思います!


よろしくお願い致します!



★1.伝説の異種格闘技戦 アントニオ猪木VSザ・モンスターマン戦
【1977年(昭和52年)猪木が即答で選んだ「我が心の名勝負・モンスターマン戦」&1978年(昭和53年)バックランドと世代闘争、地獄のヨーロッパ初遠征】


猪木さんにとって異種格闘技戦の名勝負となると、モハメド・アリ戦以外だとアメリカプロ空手の猛者モンスターマンとの一戦が真っ先に浮かぶようです。
 
猪木VSモンスターマン実現の経緯、詳細な試合レポートについて流さんが細かくまとめています。これは必見です!!

ちなみに流さんはこの一線について記した一文「極端な史観かもしれないが、『グラップラー(組み技系格闘技選手)』と『ストライカー(打撃系格闘技選手)』のミックストマッチが成立(成功)し、『十分ビジネスとなる可能性を証明した』という点では1993年にアメリカで始まったUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)の原型、あるいは現在のMMA(総合格闘技)の雛形と言っても過言ではなく、まさに歴史的一戦だったと思う」は同感です!





★2.ジャック・ブリスコ戦後の札束バラマキ事件
【1979年(昭和54年)プロレスラーとして絶頂を極めた「栄光の1970年代」に幕】


1979年の猪木さんヒストリーを読んで興味深かったのは、1979年5月10日福岡スポーツセンターで行われたジャック・ブリスコとのNWFヘビー級選手権試合。

この試合はブリスコの提案で1万ドル(当時の約200万円)が賭けられていたが、試合後猪木さんがリング上で手渡された札束をリング上に放り投げるパフォーマンスを展開。60万円分の1000円札がリングサイドのファンに手に渡ってしまったという。

猪木札束バラマキ事件に、怒っていたのが対戦相手のブリスコだけじゃなくて、スタン・ハンセンも怒っていたという。ハンセン曰く「団体のリーダーである彼が、なぜ、あのような馬鹿げた行動に出られたのだろうか?ニュージャパンにいた時代に、イノキに対する信頼が一気に崩れたとすれば、あのときだった」とのこと。

流さんは「何でもかんでも猪木さんがやったことを肯定する気にはなれない。あれはハンセン、ブリスコのみならず、自分の抱えていたレスラー、関係者、スタッフ一同に莫大なる不信感を与えた『経営者として最悪の衝動的ミステーク』だったと思う」と批判しています。

なぜあの時、猪木さんは札束をリング上でバラまいたのか?謎です。


★3.ハルク・ホーガンとポール・オーンドーフ
【1980年(昭和55年)波乱万丈の猪木にとっては珍しい「凪(なぎ)」の1年&1981年(昭和56年)輝けるNWF王者時代の終焉~猪木の転換点】

1980年の秋シリーズ。外国人レスラーの中に後に世界プロレス界のスーパースターとなるハルク・ホーガンと、WWFでホーガンのライバルとなるも日本での評価は芳しいポール・オーンドーフが猪木さんとシングルマッチで対戦している。

10月30日熊本大会で猪木VSオーンドーフが実現。11月3日蔵前国技館大会では猪木VSホーガンが実現。ふたりとも猪木さんに敗れるも扱い方は全然違ったそうです。

オーンドーフはアマレスの実力もあり、ルックスも筋骨隆々の肉体も素晴らしいプロレスラーだったが、どうも新日本では実力を発揮することはなく、「早い段階で将来のエースとなれる外国人レスラーの芽を摘む」犠牲者となったのかもしれません。対する巨体が売りで発展途上のホーガンに猪木さんは「うまく育てれば、大変な大物になるかもしれない」という確信があったとも流さんは綴っています。

その独特の感性もまた猪木さんらしさかもしれません。



 
★4.右膝半月板手術、糖尿病…コンディション不良に悩む闘魂に流さんは「猪木さんの裸を見るのが怖い」
【1982年(昭和57年)病気・ケガとの戦い…ささやかれ始めた「猪木限界説」&1983年(昭和58年)失神、タイガー引退、クーデター…ブームの頂点から一転、スキャンダルまみれに】

1982年。39歳になった猪木さんには両膝の負傷、糖尿病とコンディション不良に悩まされ、リングに上がっても精彩を欠く試合も続出します。試合を欠場して背広姿で放送席に座って解説する猪木さんの姿はやや上半身が萎んだ印象を受けた流さんは「裸を見るのが怖い」と感じていたそうです。

猪木さんの全盛期を少年時代に見届けた流さん。この頃になると大学を卒業して社会人となっていました。大人になるとそこには全盛期を過ぎた猪木さんがいたわけです。尊敬するカリスマ・猪木さんの衰え、限界を流さんは複雑な胸中で見届けていたのかもしれません。

さらに1983年には猪木舌出し事件、タイガーマスク引退、クーデターなど負の連鎖が相次ぐことにより、猪木さんの奇跡のような神通力や実力も限界に近づいていたのでしょうか。





★5.新日本正規軍VS維新軍 5対5勝ち抜き戦
1984年(昭和59年)名勝負、暴動事件、選手大量離脱事件…さまざまな猪木らしさを発揮!?】

暴動事件、選手大量離脱など事件が相次いだ1984年において大ヒットとなったのが1984年4月19日蔵前国技館で行われた新日本正規軍VS維新軍の5対5の勝ち抜き戦。これは名勝負でした!

流さんの筆も心地よくて、猪木VS長州の大将戦での猪木さん勝利に「久々に快心の勝利」と評したのは納得です!

ただし第2回IWGP優勝は、暴動事件に発展するほど茶番となり、猪木さんの優勝は誰にも祝福されませんでした。

ちなみに木村光一さんが以前おすすめしていたアントニオ猪木&藤波辰巳VSディック・マードック&アドリアン・アドレスについて流さんは「猪木、藤波組で戦ったタッグマッチの歴代ベストバウト」 絶賛していました。

そして激動の1984年を締めくくる写真として掲載されていたのが社員の慰安旅行で上半身裸ではしゃぐ猪木さん。団体がピンチでも限界説が流れても笑顔をキープしていたのがまた猪木さんらしいです。






★6. ディック・マードック戦のジャーマン・スープレックス・ホールド
【1985年(昭和60年)ブロディの出現で、衰えかけた闘魂が蘇生!&1986年(昭和61年)
UWFと丁々発止の駆け引きを繰り広げる】


「超獣」ブルーザー・ブロディの移籍、猪木VS藤波の名勝負、UWF来襲など団体のピンチでも神風が吹く新日本と猪木さんですが、1986年6月19日・両国国技館でのディック・マードック戦(IWGP決勝戦)は「猪木史上、最悪の春の本場所決勝戦だった」と酷評。フィニッシュ直前に放ったジャーマン・スープレックス・ホールドのブリッジが「グニャリ」と崩れた場面には流さんは「強靭なブリッジワークに裏打ちされた必殺技は、これ以上望むべくもない感じだった」と綴っています。

大の猪木ファンである流さんだが、きちんと忖度無しで猪木さんを是々非々で評している姿勢は素晴らしく、また当時の猪木さんに流さんが一喜一憂しながら、時には絶賛して、時には失望するという感情のゆらぎがあったのだなと感じました。




★7.流さんの猪木さんへのゆらぎ、さらに激しく…。
【1987年(昭和62年)暴動に始まり暴動に終わる。スキャンダルに明け暮れた1年】

暴動に始まり、暴動に終わるとんでもない悪夢の一年となった1987年。流さんの筆も舌鋒鋭くなり、猪木さんへの失望が表面化しています。

「(アントニオ猪木VSマサ斎藤)両国でリング・ロープを外し、自らの手首と斎藤の手首を手錠で繋いで狂乱ファイトを繰り広げた『デスマッチまがい』の試合には、ただただ焦燥感しか漂っていなかった」
「(アントニオ猪木VSマサ斎藤の巌流島決戦)16年間連れ添った美津子夫人との破局を忘れるための自暴自棄な戦いではあったが、これに『付き合った』マサ斎藤の男気も筆舌に尽くしがたい。(中略)正直、個人的には嫌いな試合であるが、『どんな方法を用いても、世間の注目を集めてやる。まだまだ藤波や長州に主役を取られてなるものか』という猪木の『ギラギラ部分』が健在だったことについてのみ、チョッピリ嬉しかった」

そして1987年12月27日両国国技館の暴動事件に関しては呆れ果てた流さんが妙に淡々と綴っていたのが、静かなる怒りを感じてしまいました…。

猪木さんに愛するが故に、愛で猪木さんに殺す!ということなのでしょうか…。

★8.  写真で語れ!映像で感じろ!藤波VS猪木!!
【1988年(昭和63年)藤波と生涯最後の60分フルタイム戦!ソ連をプロレスに引き込むことに成功】


昭和新日本最後の名勝負といえば藤波辰巳VSアントニオ猪木のIWGPヘビー級選手権試合。ここで流さんが詳細に書くのかと思いきや、案外あっさり書いています。実は流さんの文章よりも4ページに渡り藤波VS猪木の攻防が写真として掲載されています。これは流さんによる「藤波VS猪木は、俺の文章より、写真と感じて、映像を見てほしい!!」というメッセージなのかなと勝手に感じました。



★9.チョチョシビリ戦後、政界進出!!
【1989年(昭和64年・平成元年)ソ連、東京ドーム、国会議員…誰も足を踏み入れたことがない新天地を目指す】


猪木さんは1989年5月31日大阪城ホール大会で、プロレス界初の東京ドーム大会で敗れたショータ・チョチョシビリとのリターンマッチに勝利。新日本社長を辞任、参議院選挙に出馬して当選を果たして日本プロレス史上初の「プロレスラー国会議員」となりました。 

流さんはこの事実を受け止めて「日本のプロレス史上初の『プロレスラー国会議員』が誕生し、猪木は29年の長きに亘るプロレスラー人生に(ひとまず)区切りをつけた」と綴っています。

全盛の1970年代を経て、黄昏の1980年代の猪木さんに対する流さんの心象描写が自身の手で冷徹に文章表現されていて、この第三巻、めちゃくちゃ面白いんです!あと毒の使い方が流さん、抜群にうまく、後味がいい。SNSで散見する多くのディスや毒には読む価値があるのか。自己満足に過ぎないものも多い。


それに比べて流さんの皮肉、毒はレベルが違うのです。ちゃんと品もあって、読み心地がいい。これは長年、多くの書籍に携わってきて、流さんの人間力と経験値がなせる業かもしれません。

★10.そもそも◯も☓もなかった
【あとがき】



あとがきには、流さんはこの『猪木戦記』が1989年7月の「参議院当選」で終わったのかについて説明しています。流さんからすると1989年5月のショータ・チョチョシビリ戦が現役バリバリのプロレスラー・アントニオ猪木のラストマッチで、国会議員になった猪木さんはレスラー・アントニオ猪木ではないという想いがあったようです。

だから1990年代の猪木さんの試合はあくまでも本戦ではなく、延長戦なのだという考えがあるのかもしれません。

それでも流さんは1990年代の猪木さんについて簡潔に年表でまとめています。

ここからあとがきは流さんと猪木さんが接近したエピソードがかなり披露されています。これは面白いです!!

猪木さんを尊敬し、愛したひとりのプロレス少年がやがて大人になり、衰えていく猪木さんの姿、スキャンダルな仕掛けと事件に失望していきます。直接この本では「猪木さんに失望した」とは書いていないものの、1980年代中盤から後半に関しては論調は明らかに怒りと悲しみが目立ちました。しかし、正直に吐露した流さんの姿勢は素晴らしく、さらにリスペクトしました。

それでも流さんは猪木さんが好きで、色々あっても嫌いにはなれなかったのだと思います。だからこそ数多くの猪木さんのイベントや仕事に関わってきて、猪木さんの語り部であり続けたのではないでしょうか。

猪木さんが亡くなった2023年の年末にBS朝日で送された『ワールドプロレスリングリターンズ アントニオ猪木追悼3時間スペシャル』を監修したのは流さんでした。猪木さんへの郷愁、猪木さんへのリスペクト、猪木さんの歴史を3時間という制限時間内で伝えたいという想いが詰まった素晴らしい番組でした。

流さんはあとがきの中でこのように綴っています。

「半世紀近くプロレスの文章を書いてお金をいただいてきた私としては、『アントニオ猪木を後世に語り継ぐための手引き』くらいは残さないと、やっぱり悔いが残る。この『猪木戦記』シリーズはその『手引き』であり、私個人にとっては『猪木さんを見続けたあの日、あの時の答え合わせ』というテーマを念頭に置いて粛々と書き進めた。『答え合わせ』の結果が◯だったのか、☓だったのか。今となってはどうでもいいことかもしれない。アントニオ猪木という難解な、ぶ厚い問題集の解答欄には、『そもそも◯も☓もなかった』というのが、書き終わった今の結論である」 


もしこの深い愛に満ちた流さんの一文を天国の猪木さんがご覧になったら、おそらくいつも100万ドルの笑顔で、「ウフフ」と微笑んでいるのかもしれません。



 

 

素晴らしい本です!!!是非ご覧ください!



そして、なんとこの『猪木戦記』シリーズ、第0巻が製作中とのこと。プロレスラーとしてデビューした1960年から23歳の若さで東京プロレスを旗揚げして苦戦した1967年までの歴史をまとめた『猪木戦記 第0巻 立志編』、とても気になります!!