韓国と日本の愛国心 ――ナショナリズムのお話し―― | 十姉妹日和

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つれづれに書いた日記のようなものです。

「韓国を訪問したければ独立運動で亡くなった方々を訪ねて心より謝るなら良い」

天皇陛下に対する、韓国の李明博大統領のこの発言は、またたく間にネットに広まり大きな問題になりました。

日本としては、どうしてまた天皇陛下に対して韓国政府がそのようなことをいったのかわかりませんし、大変無礼な行為だという批判が出たのはもっともなことです。


「韓国はなぜ反日か?」


そういう名前のサイトもありますが、この問題に関しては調べていくほどに「だからこうだ」という理由は返って見つけ難くなるかも知れません。

ただ、一ついえることは「すでに韓国の反日は一つのアイデンティティー」になってしまっているという点では否定のできない部分があるということです。

韓国人の中にも日本が好きな人はいる。

これはもちろんそうです。それどころか、日本の文化は韓国ではとても人気がありますし、日本に行きたいという人もとても多いという記事も、これまでに何度となく見たことがあります。


韓国の反日は「日本が好き」という人たちでも、一度騒動が起きると一斉に反日的な言動を取りはじめるために、国の中で異論を許さないという状態ができあがってしまうことに問題の本質があるのではないか。そう、ボクは思っています。

以前に、セーラームーンが韓国の国旗を持って竹島に立っている画を描いた韓国人の子供がいました。


セーラームーンが韓国のアニメ作品だと思っていたからでしょうか?

あるいは、日本のキャラクターを使った皮肉のつもりだったのでしょうか?

おそらくは、そのどちらでもないと思います。


きっと、その子は日本のアニメを日頃から頻繁に見ているんだと思います。

そして、セーラームーンが日本で作られたアニメだと、それを知っている上で画を描いた。そうすると、今の韓国という国がすんなり見えてくるかも知れません。

韓国の書店では、売り上げの上位ランキングのほとんどを日本の漫画、ライトノベル、また村上春樹などの作家の作品が占めているという話もあります。

それにケロロ軍曹などが子供たちの間で大変なブームにもなり、様々な製品化もされているといいます。


日本のネットで「韓国は嫌いだから韓国のものは使いたくない」、「韓国のものは買わない」という声があがるのと、このあたりはかなり対照的ですね。


日本人はあくまでも日本人であり、日本の文化とは違う。

この矛盾したような割り切りの中に、韓国流のナショナリズムの原点があるのかも知れません。

先日、十三歳の男の子が韓国のネットで「竹島は日本の領土」と書き込んだ十三歳の少年が検挙されるという事件が起きました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120907-00000007-jct-soci


日本でいえば、これは「あり得ない」ことだと思います(ただし、検挙の理由は太極旗の損壊に関するもののようですが)。


ですが、現実に韓国でこういったことが起こっている。それは「日本を擁護する」という行為が「反民族的な行為」と解釈されるからに他ならないわけです。


先ほどの話でいえば、「日本の文化を楽しむ」のは誰もがやっていても、だからといって作り手の日本人、あるいは日本の文化を褒めることは、それは反日的な行為ということに繋がると解釈されてしまうのかも知れません。

先日、「愛国心」とは何だろうという話をボクはキュゥべえでつぶやきました。

そのリプライを読んでいても、こういった韓国のようなナショナリズムの形にはやはり問題があると考えている人が多かったように思います。


オリンピックなどで自国の選手が活躍すると嬉しい。

これは自然な感情です。

しかし、それがすぐに「わが国は偉大だ」というものには繋がらない。だから選手に「ありがとう」という感謝の気持ちが生まれてくる。

このあたりの「愛国心が空気のように存在している」ことを、今更日本でも否定する必要はないと思います。

その部分で、日本は韓国の行動を腹立たしく思うのは当たり前かも知れませんし、それにはっきりと意見を示すのも大切なことです。

ですが、あくまで日本は韓国のナショナリズムを「他山の石」としなくてはなりませんし、韓国との二国間の関係だけでなく国際社会との関係を考慮しながら、きちんと近代的な考えに則って対応しなければ返って日本のためにならないと思います。

と……こう書いてしまうと、実はボクの考えにもかなり日本流のナショナリズムが入っているんですけれども。

近代日本のナショナリズム。

言い替えれば、他国に対する日本の優位性とは、近代的な考え方、制度をアジアでほぼ唯一戦前から自力で、しかももっとも早く導入できたということにありました。さらに、戦後には敗戦国にも関わらず奇跡的な復興を成し遂げ、経済大国になったという自負も当然あると思います。


先日ですが、玄葉外務大臣が「よく韓国の場合は、都合の悪いことがあるとなかなか先方が電話に出ないとか、連絡が付かないということは、日韓関係の歴史の中で何度かあったと承知しています」と答弁していました。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120824-00000003-jct-soci



これは、先日の親書の返送にしても「近代国家同士では到底やらないようなことをする」と、相手の反応をどこか嘲笑的に見ているわけです。

こういうと何ですが、日本も韓国とは別に結構国際関係での上下を意識しているんですね。


そのため、江戸時代には朝鮮も儒学者などに持ち上げられていたことが、返って開国したときに実際の朝鮮や清国の実体を目の当たりにした知識人たちから「悪い見本」とみなされてしまった部分もあったのかも知れません。

ただ、それをもって「日本も傲慢で悪い」というのはまた違うとも思うんです。

こういったナショナリズムは、これはどこの国、どこの民族でも少なからずあり、おそらくは今後も消えることはないでしょう。


韓国の場合、そのナショナリズムが日本への「攻撃」に向ってしまい、それをまたメディアなどが後押しをして大々的にアピールするために壮大な空回りをしているのは、先日のオリンピックの一件からもうかがえる通りです。


ですが、ナショナリズムそのものに関していえば、一度きちんとした目標をもって何かの原動力と結びついたときには、非常に力強いものにも成りえます。

ちょうど明治維新から日露戦争の勝利に繋がる一連の流れは、まさにその「欧米に追いつけ」というスローガンのもとに、西洋文化の導入と研究に勤しんだ成果に他ならなかったわけですから。


もちろん、そこには国内の軋轢や、急ごしらえの近代国家ならではの様々な問題もあったものの、このあたりが「明治」という時代の偉大さであったように思うのです。

その時代の表と裏の双方を見て、はじめて歴史というものは次第に評価が決まってきますから、ただ負の面だけを強調しても、正の面だけを賛美しても、それはどちらも一長一短ですが、日本もまた、自分たちのナショナリズムが今後どういった方向にいくべきなのかを、また考える必要があるのかも知れません。


井伊直弼が死んだとき、彦根藩の人々は「井伊大老の功績はおそらく百年もしなければ評価されない」といったそうです。


あれから百五十年が経った今日、井伊直弼も、その安政の大獄の犠牲者であった吉田松陰もどちらも「近代史の偉人」とされているのを見ると、この評価は正しかったように思います。


今年は1912年。明治天皇の崩御、そして大正という時代のはじまりから100年目にあたる年です。


ギリシャの経済危機、中東情勢の不安定化と、世界が混乱の中にあるときに、日本という国が紡いできた歴史にもう一度目を向けるのもまた、大切なことだと思います。


次回はできたら、そのあたりの日本の過去の歴史のある部分を書いて見たいとそんなことを考えています。

今回も読んでいただき、ありがとうございました。