ウルトラマン不在のウルトラマン ~シン・ゴジラのひとつの見方~ | 十姉妹日和

十姉妹日和

つれづれに書いた日記のようなものです。

前回は映画を見た感想そのままに、内容について一気に書いてしまったんですが、これはちょっと良くなかったように思います。

そもそも「シン・ゴジラ」とはどういう作品だろうか、という前に「あまりにも内容が重厚過ぎて内容書き出すだけ」で手一杯になってしまいました。

それに、もう様々な人がああいう謎解きはしているのもそうだろうと思います。


そこで今回はもう少し、自分なりの視点からこの「シン・ゴジラ」という作品について書いてみようと思ったんですが、考えてみると非常にこの映画がまず「面白かったかどうか」というのが難しいんです。


確かに特撮はすごいです。そして政治家や官僚の描写も非常によくできていますから、様々な見方ができるのはそうだろうと思うんですが、しかし何かそれ以上に見終わった後で非常に「もやもやしたもの」が残る作品でした。

でも自分なりに考えてみたい気持ちはありましたから、このもやもやの正体がなんだかよくわからないまま、「シン・ゴジラ」と比較するなら、それじゃあどんな作品がいいかなとぼんやり考えていました。


そこでまず、思いついたのが「インディペンデンス・デイ」です。

これは突然襲来してきた宇宙人を相手に、米国が国を挙げて戦うというヒット映画なんですけれども、「シン・ゴジラ」と比べて、アメリカらしいというか、より「フィクション性」と「象徴性」の強い作品になっていました。

この作品は宇宙人と戦うにしても、それはプロの軍人だけじゃなく、大統領自身も戦闘機に乗り込んだり、世間に理解されない変わり者の科学者や、あるいは飲んだくれで少しおかしいと思われている宇宙人にさらわれた経験のあるじいさんまで、みんなで一丸となって戦うというのが大きなテーマなんですね。


しかし、シン・ゴジラにはこういう要素はあんまりありません。

現実的に考えればプロの自衛官や、政府組織の外の人間が怪獣と戦う、なんてことはあり得ない話で、そのあたりを非常に上手くまとめていたからです。これがいちいち民間人や子供たちがストーリーの中に入ってきて、重要な要素を占めていた90年代ゴジラとの差別化にも成功した非常に大きな理由のひとつとも思います。


そのため、この二作品を比較しての考察というのもできるとは思うんですが、しかし私が感じたシン・ゴジラにある非常に嫌なものというか、何かこれがハッピーエンドだとは思えない(そもそもぜんぜんハッピーエンドではないんですけども)要素というのはどこか別にあるような気がしました。


そこでもう一度どんな作品と比べればいいか考えていた時に、思いついたのが2008年に公開された「大決戦!超ウルトラ8兄弟」という映画です。


これはちょうど当時ウルトラマンメビウスがヒットし、往年のウルトラ兄弟とのコラボで成功した前作の映画(「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」)に続いて、「平成ウルトラマンシリーズ」のティガ、ダイナ、ガイアとの競演に成功したもので、なかなかファンからの評判もいいものでした。


このメビウスの映画では、どちらもメビウスが所属している防衛チームがほとんど活躍しないんですね。

話の主役はあくまで「ウルトラマン」なんです。

そして、「大決戦!超ウルトラ8兄弟」では、パラレルワールドが舞台になっていることもあって、ほとんどの人々は「怪獣や宇宙人による侵略」を受けた経験さえも持っていません。

そのため別の世界に迷い込んだメビウスが、当初は作中で唯一のウルトラマンとして襲ってくる怪獣たちと戦うことになるわけです。

しかしこれらはすべて不思議な力に引き寄せられ、地球を侵略しようとしていたヒッポリト星人のワナで、メビウスもヒッポリト星人によって石像に変えられてしまいます。

これで戦えるウルトラマンも、防衛隊もこの世界ではなくなってしまったわけです。

勝利を確信したヒッポリト星人は手持ちの怪獣たちを引き連れて街の破壊をはじめます。


ウルトラマンがいる世界ではそれほど脅威にならない怪獣でも、ウルトラマンも防衛隊もない世界では圧倒的な破壊者となる。

このあたりの描写はゴジラに蹂躙される東京の街と非常に似ているものがありました。

確かに昨日も書きましたが、シン・ゴジラのゴジラはすでに生物ではなくて、こうした「侵略宇宙人」や「破壊を目的としている怪獣」に近いんですね。

もともとゴジラは「街を破壊する巨大怪獣」だったのが、90年代の「VSシリーズ」では、そもそもが「恐竜などの古代生物が変異したもの」だったため、その行動にも「生物的な動機」(食事や同胞を守るため)があったわけですが、シン・ゴジラこの点でははまさに「破壊の化身」、あるいは「人類に審判をくだす神のような存在」と考えた方がいいものでした。


90年代もよくゴジラに「破壊神」というコピーがついていたましたけれど、シン・ゴジラはまさに「破壊神」ゴジラだったろうと思います。

シン・ゴジラでは日本が総力を挙げて、この破壊神を相手に戦闘を繰り広げるわけですが、ウルトラマンの場合にはそうはなりません。

なぜなら地球にはウルトラマンがいるからです。

ウルトラマンは、とくにティガではその傾向が顕著でしたが、地球人にとっては「守護者」のような存在です。

しかもこれはかつてのウルトラ兄弟シリーズにも見られるように、非常にいずれも平和を愛する心を持ち、ときに人類の行動にも心を痛め、人間を守るためにはいつでも身を投げ出す、という非常に優れた種族です。


この彼らウルトラマンが「いつでも地球を守ってくれる」、「人類のために戦ってくれる」というテーマは、例えばウルトラセブンの「ギエロン星獣」や、帰ってきたウルトラマンの「怪獣使いと少年」、あるいはウルトラマンタロウの最終回に見られたように、ときに人類の行動に疑問を持ち、ウルトラマンに頼ることで地球人が自分たちで宇宙人や怪獣から星を守る意識を持たなくなることを危惧するなど、いくつかの葛藤があっても「それでも地球が好きだ。人間が好きだ」というウルトラマンたちの思いそのものは揺るがなかったといっていいと思います。


戦後日本が目指してきた道、というのは実はこのウルトラマンのあり方に近いのではないかと私は思っています。

これは例えばシン・ゴジラでも、総理大臣が自衛隊の武器を国民に向けることはできないと、まだ避難していなかったわずか二人のためにゴジラへの攻撃を中止させる描写がありました。

こうしたヒューマニズムは怪獣を相手にはまったく役に立たないものではありながら、何かそれを捨ててしまうと、非常に大切なものが失われるのではないか、という不安ととても近い関係にあります。


もし、あのときにウルトラマンがいれば、彼らならばまず住民を助けてから、そのままゴジラと戦うこともできたでしょう。

しかし、彼らと違いまったく限られた無力な存在でしかない人類、とくに日本人にとって、こうした高尚なヒューマニズムと、目の前の危機の対処とはときに相反する結果を生むことになります。

そう考えると、なぜあのシン・ゴジラにもやもやしたものが残ったのかという疑問が少しわかったように思いました。


シン・ゴジラというのは「破壊神」VS「人類」という戦いの構図でした。

そしてこの破壊神を乗り越えることができれば、人類にはさらなる未来が開けるかもしれない、という可能性すらそこにはあるものです。

ですが、この破壊神を倒すのに力のない日本は、これまでの考え方を一度捨て、まったくの総力戦に挑むしかなくなります。

これが作中のアメリカなどからすると「日本もようやく覚悟を決めたか」と思われるわけなんですが、これは同時にウルトラマン、つまり自分たちを守護してくれる存在を否定し、人間の未来は自分たちで決めるという考えを日本が選択することに他なりません。


実際、ゴジラから得た膨大なデータは、人類にこれからの発展の可能性は与えたものの、一方でその力はいつでもさらなる脅威となって人類に襲い掛かるだろうということも示されました。

つまり、もしゴジラの世界でこの後人間同士が争いを続ければ、滅亡への道を歩むことも十分考えられるわけです。

そこにウルトラマンがいれば、彼らは人類の守護者として、人間が極端なまでの力を得たときにはおそらくそれを嘆き、ときに忠告してくれるだろうと思います。

しかし、そうでない世界には「歯止め」というものが効かなくなります。

つまり、いつでも「無茶なこと」をしなければ自分たちの国を守ることもできない、という冷たい現実の中へ歩むしか道がなくなった、というのがゴジラを倒した日本に示された道でした。


ゴジラがいてウルトラマンがいない世界。

ゴジラがいてウルトラマンがいる世界。

ゴジラもウルトラマンもいない世界。


シン・ゴジラはこのうちで、おそらく「ウルトラマンがいないけれども、ウルトラマンのようでありたいと思っている世界にゴジラがあらわれた」というのが一番近いものだと思います。


この「ゴジラ」と「ウルトラマン」という作品はそれが単純に「破壊神」と「守護者」という相反する特徴を持っているわけではなく、同時にそれぞれの作品が生まれた時代性もよく反映したものでした。


ゴジラが最初生まれたのはまだ戦後の混乱が残る、非常に暗い時代です。

このため核の恐怖から生まれた怪獣が東京を破壊する、という行動にはかなりのリアリティがあったのは確かでしょう。

今作のシン・ゴジラではこの恐怖が東日本大震災と原発事故の後の日本を意図したものにかなり変化していましたが、その背景にあるのはいずれも「恐怖」と「破壊」であるのには違いがありません。


対してウルトラマンの誕生は終戦から20年が経ち、日本は東京オリンピックを終え、高度経済成長に入ろうとしていた時期です。

ですから、この時代の未来予想というのは非常に希望に満ちたものがありました。

ですから科学特捜隊の装備や衣装を見ても、当時からすればこれは斬新であると同時に「未来の人たちはあんな姿をしているんだろう」という希望があらわれていように思います。

このためゴジラのように、街を破壊する怪獣の存在は恐怖というよりはむしろそうした明るい未来を脅かす「脅威」となったわけです。

そしてその脅威から人類を守る存在としてのウルトラマンも、非常に「強い」だけではなく、高潔な精神を持つものではなくてはいけませんでした。


この「日常を破壊するゴジラ」と「平和な時代を守るウルトラマン」という二面性は、ほとんどそのまま戦後の日本人が求めてきたものと、そこに常に感じていた不安とをよく表しているように思います。

ウルトラマンを拒絶した人類の未来はではどうなるのか。

これはちょうど庵野監督の作品なら、エヴァンゲリオン、とくにエヴァQではっきりと描かれていましたが、そこに待ち受けているのはおそらく強大な力を得た「人類VS人類」という構図です。

ゴジラでいえばメカゴジラを各国が量産して配備しているようなものです。


もしもこうした人類の姿を見れば、ウルトラマンたちは「いずれ人類が宇宙そのものの脅威となる」とみなして攻撃してくるかもしれません。

しかし、ウルトラマンに頼ることのできない人類は、そもそもが自分たちを守護するものを持たないという不安ととなり合わせなわけですから、もはやそうした忠告を聞き入れることもないでしょう。


「大決戦!超ウルトラ8兄弟」の世界には、幸いにもウルトラマンがいました。

かつて別の世界でウルトラマンだったことを思い出したダイゴやハヤタが変身して戦うことを選んだからです。

そしてウルトラマンがあらわれると人々は大喜びします。

「ああ、ボクたちのヒーローが来てくれたんだ」と。

ウルトラマンの力を支えているのは人々の希望や応援です。

それを背負っている限り彼らは負けることができません。

ヒッポリト星人と怪獣たちを倒したウルトラ兄弟たちは、次いですべての黒幕

と思われる巨大な闇の影法師の力をも封じこめることに成功します。

こうして人類のもとから脅威は去りました。

そうすると人々は「ありがとう! ウルトラマン」というんです。


これがゴジラの世界なら、そんな言葉をいう人は誰もいないでしょう。ゴジラと戦ったのは日本という国の総力、そして協力してくれた国々であり、誰かのおかげで勝つことができたわけではないからです。

人類の勝利、というのはそうしたものにどうしてもなってしまいます。


私が感じていたのはどうも、こういう点なんだろうと思います。

ゴジラを倒した人類に明るい道があるとは思えず、何かむしろある時代を置き去りにしてしまったのではないか。この世界の人々にとって、ウルトラマンのいた時代がもう過去のものになってしまったのではないか、という思いです。

そのとき彼らウルトラマンは人類の未来を祝福してくれるでしょうか。

しかし、もはやそれがどうであれ、一度道を選んでしまった人々は進んでいかなくてはなりません。


「大丈夫! この国はまだまだやれる」

「スクラップビルドを繰り返してこの国はやってきたんだ」


そうした言葉でお互いを励まし合いながら、これからの未来が人々にとって明るいものであることを期待しなくてはいけない。

案外、そんなとことにシン・ゴジラのテーマとはあったんじゃないかと思いましたが、さて、いかがでしょうか。


もっとも、私はウルトラマンの方が好きですけれども。



今回も読んでいただきありがとうございました。