桜井誠という男 その2 ――在特会の生まれる前のこと―― | 十姉妹日和

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つれづれに書いた日記のようなものです。

 そもそも桜井、そして在特会の活動とはどのようにはじまり、そして拡大していったのだろうか。

 2016年時点で在特会が公表している「会員」の数はおよそ1万6000人ほどとされている。

 すでに桜井本人は在特会の会長の座を降りてはいるが、その影響力は現在も変わっていないと見ていいだろう。

 この1万6000人という数を、わずか十年足らずの間に集めた桜井のやり方にはやはり相当な駆け引きの巧さがあった。

 在特会の活動にはじまりについて桜井は2007年から起きた「在日無年金訴訟問題」をきっかけにしたものだとしているが、これは正確には間違いである。

 この無年金訴訟とは、1986年の法改正以前、年金の支給対象はほぼ日本人にだけ限定されており、年金を収めていなかった在日韓国、朝鮮人が支給対象から外されたことは不当な扱いだとして、2006年前後からいくつかの訴訟が起きたものだった。

 これには当時ネットでも「そもそもいずれ国に将来帰るのだから年金なんていらないといっていたのは当時の在日社会だろう」という批判が相次ぎ、裁判でも国の対応は不適切ではなかったと判断され棄却されている。

 そして事実、このときに熱心の街宣活動を行っていた団体のひとつは在特会だった。

 しかし、この運動が在特会の活動のきっかけというのは違っている。

 在特会の結成はこうした無年金訴訟などが盛んになる2007年ではなく、それよりもさらに前の2005年にまで遡る。

 これは桜井自身のブログにも残っているが、2005年の7月に彼が代表となって行われた「日韓歴史問題研究会」というシンポジウムがそのはじまりにあるのである。

 

 当時このシンポジウムに大きく関わっていたのが韓国の最大手ポータルサイトNAVERの運営する日韓翻訳掲示板「エンジョイ・コリア」であった。

 

 現在の在特会などの活動からするとやや不思議に思われるが、当時のネットでのネット右派の活動は、必ずしも韓国人を排斥したり、在日韓国、朝鮮人を追い出せといったものではなくて、韓国の歴史や政治問題に関する意見をネット上で交換するのが主流となっていた。

 そうした中で日韓双方のネットユーザーが集まるエンジョイ・コリアは日韓のネット討論では最も人気がある場所でもあり、とくに当時のネット右派層から非常に支持を集めていたのが掲示板に書き込んでいた「論客」たちだった。

 当時のネットの議論はまだネット上に今ほどネットに情報がなかったこともあり、自分たちでデータベースや書籍などから情報を調べてきて、これをもとに意見を主張しなくてはならないという、かなり敷居の高いものであったため、討論が上手く、資料の扱い方に慣れたユーザーたちが次第に目立つようになり、議論の中心役になることが多かったのである。

 

 その中でも名の知られた「論客」たちはエンジョイコリアだけでなく、2ちゃんねるをはじめ、日韓関係に関心にある層には少なからず注目されており、当時NEVARのユーザーだった桜井もまたそうした論客のうちに数えられていた一人であった。

 しかし、当時の桜井氏はすでに執筆やテレビ出演などをして、注目度が高かったとはいえ、NAVERの論客人の代表と見られていたわけではなく、また主張が特別に過激だということもなかった。

 これはNAVER、エンジョイコリアの性質にもよるが、基本的に韓国人に向けて過激な主張を繰り返すようなユーザーは日本側からも歓迎されなかったのも大きい。

 

 当時のネットはあくまでも政治活動の場ではなく、ユーザー同士が交流をするための場所であって、議論にしても討論にしても、それなりに一定のルールや真面目な態度が求められていた。

 そのため日本人側の意見に賛同する中にも、日本人だけでなく在日韓国人や、韓国人のユーザーもかなり含まれていた。

 彼らが韓国のすべてを嫌悪していたわけではなくて、韓国の主張の何がおかしいのか、というのを真面目に議論していたのも、そうした性格のためであった。

 

 このNAVERの論客陣の中で、とくに名物的なユーザーが集まり、日本だけではなく韓国側にも一目置かれていた集団があった。これを「NAVER総督府」という。

 彼らは2005年の1月から数か月間に渡って韓国の大学教授に公開質問状を送り、教授が発見したと主張する資料に関する報道に明確な間違いがあることを指摘し、その回答を引き出すことに成功するなど、大きな活躍を見せていた。

 このときの彼らの活動は当時のネット保守層の運動の集大成というべきものだろう。

 彼らはまず教授が発見したと報道される資料が日本側ではすでに公開されているものであることを確認し、外交資料館から複写を入手するとともに、アジア歴史資料センターなどから関係ある資料を探し出してきて、それらをつき合わせながら質問状を日本語版と英語版の両方を作成して送付するなど、到底素人のそれとは思えないほどの行動力があった。

 この運動はNAVERだけでなく、2ちゃんねるからも多くの参加者や観戦者が訪れることになり、どんな結果になるかを見守っていたが、結果はNAVER総督府のメンバーたちの目論見通り、教授は自分ではなく、報道した新聞社が誤解をしたものだと釈明しただけだった。

 これにより、韓国の大学教授をネットの有志メンバーが追い込むという大成果を挙げることになり、ネットでは韓国を相手にした議論の中でも最大の功績と見られるようになる。

 こうした中、桜井はここでその嗅覚を発揮する。

 彼はこのバファリン作戦には参加してはいなかったが、当時彼が配信していたネットラヂオにNAVERの論客陣をしばしば招くなどして彼らと交流があったため、総督府のメンバーにも声をかけ、日韓の歴史問題を議論するシンポジウムを開こうと呼び掛けをはじめたのである。

 これが「日韓歴史問題研究会」の構想であった。

 おそらく桜井はこのとき、NAVERユーザーを中心とした、新しい論壇のようなものをネット上に作ろうとしていたと思われる。

 しかし、ここで彼にとって誤算が生じた。

 

 当初、企画に前向きだった総督府系のメンバーの中から、シンポジウムの趣旨に対する批判が次第に強まり、直前になって多数のメンバーが離脱することになったからである。

 そもそもこのシンポジウムは講師役としてネットユーザー数名が講演し、その後に思想に関わらず誰でも自由に参加するディスカッションを行おうというものだったが、最終的には会としての意見をとりまとめ発表する、という運営の方針があったため、これが自由な議論とは相容れないのではないか、という意見が出たのだ。

 

 もともとNAVER総督府メンバーの多くは、政治活動や社会運動への参加には否定的であったため、これがすでにチャンネル桜にも頻繁に出演するなどしていた、政治色の強すぎる桜井の方向性とは相容れなかったことがより大きかったように思われる。

 結果、準備段階で意見が分裂したまままとまらず、桜井とその周辺のメンバーだけで日韓歴史問題研究会が開かれることになった。

 

 日韓歴史問題研究会はその後「東亜細亜問題研究会」と名称が改められ、チャンネル桜の後援もあり、多数の保守派文化人が講演に参加するなど、ネットだけでなく保守界隈でもそれなりの注目を集めたようだが、会の活動そのものは数冊の書籍に関与しただけであまり長続きはしなかった。

 理由として考えられるのは、やはり扱う話題に限界があったことだろう。

 NAVER総督府の場合、どちらかといえば主要メンバーの中には在野、または大学などに所属していると思われる研究者なども多く、知識もあり、資料探しにも慣れた論客が多かったため、彼らの手による研究サイトなども複数の資料を網羅したかなり専門性の高いものを作っていた。

 しかし桜井らの場合には韓国や中国を問題として扱うにしても、こうした学術的な研究の手法や、現地ルポで情報を拾うといったジャーナリストとしての活動を行う能力があまり高くはなかった。そのため中国や韓国の社会問題などを網羅的に扱うものはできても、それらの情報源の多くはネットに頼ることが多く、それ以上のものにはなり得なかったようだ。

 このため東亜細亜問題研究会は一年ほどで活動を休止し、以後桜井は新たに設立した「在日特権を許さない会」。在特会へと活動の軸足を移していくようになる。

 

 ――続く