赤城神社(その二) | 異界行

異界行

オカルト歴ン10年の著者が、過去に行ってきたミステリースポットの調査内容を報告します。

前回の三夜沢赤城神社に続き、もう一つの赤城神社「大洞赤城神社」参拝の様子を報告します。
前回報告した「櫃石」のあるキャンプ場方面へ向かう山道を登って行くと、赤城山山頂に出られるようなので、三夜沢赤城神社から直接向かいました。
 
著者は当時、ホンダのインサイトというハイブリッド車に乗っていて、元々排気量にものを言わせてガンガン登る車ではないので、ゆったりと走行していたところ、バックミラーに後続車が映る。しかも、同じインサイト。しかし、異様に飛ばして来てピッタリ後をつけられている。
気持ち悪いし、同じ車種に乗っている手前、こちらもやむなくスピードアップして登るも、依然としてピッタリついてくる。道はつづら折りの狭い山道で、譲って先に行かせるようなスペースも無い。
なので、意図せず赤城山クライムヒルバトルが始まった。若い頃ならともかく、今となればめんどくさいだけなので、ひたすら迷惑。そしてやっと山道を抜け、小沼ほとりの広めの道に出た。
小沼にも寄ってみたかったので、そのまま駐車場へ。後続のインサイトはそのまま走り去っていった。
赤城山頂には、大沼、小沼と呼ばれる湖がある。
 
<赤城小沼(この)>
長七郎山の火山活動でできた火口湖で、大沼の南東、標高1470mの位置にある。周囲は1キロほどで、一周30~40分程度の小路がある。
その時撮影した動画。御覧の通り、人ひとりおらず、怖いくらいの静謐に包まれている。霊感ゼロの著者でも、何かゾッとしたものを感じた。
小沼には、以下の伝説がある。
 
赤城山麓赤堀の豪族、赤堀道元の16歳になる娘が、お供を連れて赤城山に参拝出かけた。月田村で一休みしたが、ここで馬が倒れて死んでしまい、かごに乗り換えて月田村を出発したそうです。そして、娘は赤城山の小沼(コノ)のほとりで突然水中に引き込まれて沼の主の龍になってしまった。悲嘆にくれた赤堀道元は、娘の命日に供養として赤飯を重箱に入れて供えたそうです。すると翌日には空になった重箱が戻ってくる。その後、16歳の娘が小沼のそばを通るときは、引き込まれないよう身代わりに鏡を投げ入れるようになったそうです。
他にも小沼のほとりで沢山のムカデが現れ、沼に引き込まれ、龍蛇の姿になって現れた。赤堀氏の祖先藤原秀郷(俵藤太)のムカデ退治の因縁とする言い伝えがあります。
 
本当に、龍神が出そうな湖面である。「異界」への入口があるのかもしれないが、著者が呼ばれることはなかった。
 
そして車に戻り、今度は大沼を目指す。
その前に、山頂ドライブインで一休み。
天気も良く、展望が素晴らしい。
湿地帯の向こうに見えるのが大沼。
 
そして大沼到着。
橋を渡った先の「小鳥ヶ島」に神社境内がある。魚も見える。
石鳥居。
<大洞赤城神社>
創建は不詳。社伝では、豊城入彦命が上毛野を支配することになった際に山と沼の霊を奉斎したという。その後、允恭天皇・用明天皇の時代に社殿を創設したと伝える。
創祀当初は神庫山(ほくらやま:後の地蔵岳)中腹に祀られていたというが、806年(大同元年)、大沼(おの)の南の畔(現在の大洞旧社地)に遷座し、小沼の畔には小沼宮(このぐう:後の豊受神社)が建てられた。その際の年号に因んで神社周辺は「大洞(だいどう)」と呼ばれるようになったといい、通称として「大洞赤城神社」とも記される。ただし「大洞」は「大堂」とも書かれたといい、山頂に堂があったとも伝える。
山の赤城大明神、沼神の赤沼大神として古代から祀られたといい、湖からは古くに祭祀に使われた鏡も発見されている。(wikiより)
御祭神
赤城大明神、豊城入彦命、磐筒男命、磐筒女命、經津主命
 
大沼ほとりの参道を歩いて境内に至る。
手水舎。
赤い社殿の拝殿。
本殿も赤い。1970年(昭和45年)、現在の小鳥ヶ島(厳島神社跡地)に遷座し、そこで再建された社殿なので比較的新しい。
社務所も現代風の建築物で、観光地化している。
 
しかし、元は山神の赤城大明神、沼神の赤沼大神を祀る自然信仰の神社だったのだろう。
小鳥が島には、「小鳥が島遺跡」として南北朝時代の経塚遺跡がある。
写真の多宝塔跡からは、銅経筒の残欠と鏡10面が出土した。これら出土した鏡は、神仏習合における信仰を表すものとして、宝塔・経筒残欠とともに群馬県の文化財に指定されている。
 
なお、前回の三夜沢赤城神社との本家争いは以下の通りである。(wikiより)
江戸、寛政年間には三夜沢赤城神社と「本社」「本宮」の文言を巡って争った。まず1798年(寛政10年)、三夜沢赤城神社へ正一位を与えていた吉田家に、大洞赤城神社が「正一位」と記載された献額を求めた。この要求に対し吉田家は三夜沢側に問い合わせ、三夜沢側はこれを不可と返答した。しかし翌年、吉田家と対立していた神祇伯白川伯王家が、「上野国総社大洞赤城神社」の額面・「本社」「本宮」と記載された添状を大洞赤城神社へ奉納した。そしてこの額面は、例年前橋で行われていた千住観音御開帳の時に開帳されることになった。三夜沢側は強く反発し、1800年(寛政12年)、大洞赤城神社別当・寿延寺および白川伯王家を相手に開帳差し止めを含んだ訴訟を起こした。領主の川越藩主松平氏が仲裁に入り、当該額面は封印の上で、大洞の例年の御開帳自体は予定通り行われた。しかし論争は終わらず、1802年(享和2年)には三夜沢側が幕府の寺社奉行へ訴え、国許で解決すべしと下げ渡されている。結局、額は内陣へ納め、文言使用を合議で決めるという和議が両者間で成ったのは1816年(文化13年)であった(『宮城村誌』)。
 
和議がなったとあるが、どちらが「本社」なのか未だに決着はついていないようだ。
著者としては、自然信仰の大洞の方が本家に思えるが、三夜沢にも古代岩石祭祀の「櫃石」がある。なので、赤城山の山神からすれば、どちらが本家かなどというのは些末な問題なのであろう。
 
写真は、群馬県民にはよく知られている「赤城の大鳥居」。
高さ21.3m、幅28m。天明4年(1784年)に登山口に設置された。
 
さて、前回の三夜沢赤城神社、今回の大洞赤城神社を二つの赤城神社を紹介したが、先述の通り、赤城神社はもう一つある。
それが「二宮赤城神社」である。しかし、著者はここへは行ったことが無い。付近を車で通ったことはあるので、大体の場所は分かるけれど。
なので、記事を書くためには実際に行ってみるしかない。
次回の記事は当ブログ初のリアルタイム報告(?)になるかもしれない。お楽しみに。(その三へ続く)