赤城神社シリーズ第3弾、三夜沢赤城神社、大洞赤城神社に続き、今回は予告通り「二宮赤城神社」の調査報告をします。
当ブログは過去に行ってきた調査の報告がメインで、先の二つの赤城神社も数年前に行ってきたものだけど、この二宮赤城神社は過去に行ったことがなかったので、昨日(2017年2月26日)初めての参拝となりました。ホヤホヤの調査報告となります。
一の鳥居。先の二つの赤城神社と異なり、赤城山中には無く、赤城山南麓の前橋市二之宮町にある。
鳥居の左奥に駐車場に通じる道がある。
色々な重要文化財がある模様。
<二宮赤城神社>
創建は不詳で、平安時代にさかのぼると見られる。赤城南麓には豊城入彦命を祖とする上毛野氏がいたと伝わっており、当社の創建に関係したともいわれる。当社が「二宮」と称したのは12世紀前後と見られる。
六国史には「赤城神」に対する数度の神階奉授の記録があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載があり、その論社とされている。論社には赤城山麓に鎮座する当社のほか、山腹の三夜沢赤城神社、山頂の大洞赤城神社があり、確定していない。
戦国時代末期には北条氏直により荒廃したが、大胡城に入った牧野氏により社殿が整備されたという。(wikiより)
御祭神
豊城入彦命、大己貴尊ほか数柱
鐘楼。梵鐘は市指定重要文化財。
神代橋の先に神門がある。
神門前に立つ神の名を刻んだこれは何だろう?
神門の左右には武将が護っている。
境内は広々としている。
拝殿。
本殿は覆屋の中にある。ちなみに、本殿裏側にはこれといったものは無かった。
社殿周辺にある境内社と宝物庫(?)。
このような石碑も立ち並ぶ。
これは塔跡の心礎。鎌倉時代の塔跡と推定される。
市指定重要文化財の宝塔。これらは全て神仏習合の名残り。
このような摂社も立ち並ぶ。
その中でも鳥居のある祠は秋葉神社のようだ。
こちらは天満宮。
神楽殿と神楽の由来書き。県指定の重要文化財「納曽利面(なそりめん)」が用いられる。
茅葺の社殿(?)と併設する社務所。風情がある建物である。
山中にある神社ではないが、社殿背後には社叢が広がっており、落ち着く。
ちなみに、境内西側にも鳥居がある。
由緒書きは文字が消えかけていて見ずらい。
日曜日に参拝したにも関わらず、著者の他に参拝客は無く、手水舎に柄杓も無く、あまり流行っていない印象を受けた。無論、人の賑わいの無い神社の方が著者好みである。
ちなみに著者は、赤城信仰での位置づけは三夜沢赤城神社・大洞赤城神社の二社で本家争いがされていると認識していた。それは、この二宮赤城神社は三夜沢赤城神社の里宮に過ぎないと思っていたからである。
事実、特殊祭事の「御神幸」では二宮赤城神社から三夜沢赤城神社まで神体が遷幸する。
しかし、当社の東北方には4基の前方後円墳からなる「大室古墳群」が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測される。また、数多い赤城神社のなかでも唯一「二宮」を称するのが特徴である。そのため、一宮・二宮が制定された頃は当社が中心となっていたと見られ、遅くとも鎌倉時代には当社は里宮として赤城信仰の中心をなしていたと推測される。
なので、この二宮赤城神社も立派な本家候補だった。
そして、二宮であることについては、以下の伝承がある。
「あるとき、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したので思案の末、貫前の神は外国から来て機織が上手であるから、持っているであろうと頼み、借りて織りあげた。
そこでこのような技術をもった神が他国へ移ってはこまるので、赤城神社は一宮であったが、その地位を貫前神社に譲って二宮になったという話です。
つまり貫前の神は帰化人の神であったと見ることができます。
それにひきかえ赤城の神は上野国の土地に以前から住んでいた人々が祭っていた神です。
そして、この頃は少なくとも赤城神社の方が貫前神社よりも広く一般から信仰され、崇敬が厚かったことを物語っています。」
上州(群馬県)一宮は富岡市にある「貫前神社」である。こちらは帰化人の神であり、機織の技術に長けていたため、本来の一宮である赤城神社が地位を譲って二宮になったということであり、この伝承は三夜沢赤城神社の案内板にも書かれてあった。
「はた」織の技術に長けた帰化人ということで、その正体は自ずと推測できる。
ここにも、秦氏系の神が古来からの土着の神(物部系?)を吸収していった図式が見てとれる。
そして、上記の社務所で御朱印を頂きました。まごうこと無き昨日の日付(笑)。
さて、次回ですが、この記事で名前が挙がった「貫前神社」と「大室古墳群」のどちらも過去に訪れているので、いずれかにしようと思います。お楽しみに。