神野翼の芸術つばらつばら。 -4ページ目

所作

A-yan!! 神野翼の戯面芸術随筆 border=


動く。

万象は常に動いているものである。
モノの大小に限らず万象事象は振動しエネルギーを産みだし、エネルギーによってまた振動する。


動く。

このエネルギーに人心が加わって働きになる。

漫然と動いていても働きにはならない。


芸術表現というものも、自身から沸き上がる動的エネルギーをどのように意識するかによって大きく形をかえる。

動的エネルギーという動きを意識することで芸術表現という働きに昇華しなければならない。

芸術表現の第一歩は衝動を意識する所から始まるもので、
『表現したい』という衝動だけでは形にならない。

自分が何をしているのかという事を意識し理解して、
一挙手一投足に意味を見出だす事が必要だ。



先達って文楽を観る機会を頂いたのだが、文楽人形の所作が舞踊を見るかの様に流麗で美しかった。

文楽もしくは人形浄瑠璃と呼ばれる表現は実に奇妙な形式を持っていて。

文楽人形を操るひとは通常三人一組で、あろうことか舞台上に見えている。

そして物語りを語るのは大夫さんと三味線の二人一組が基本である。

大夫さんが登場人物を一人で演じ分ける訳だが、男性も女性も子供も一人で演じる。

そこに三味線の音が入り登場人物の心象を表す。

このように各々バラバラの要素が集まり一つの物語りを形作る。


変な話しだ。人形使いの人達は丸見えだし、登場人物は大夫さん一人でやり通す訳なのだから。


しかし観ている間は、人形使いの人達も見えないし、大夫さんの声も三味線の音も聞こえない。

何と言うかアニメーションに近しいような気がする。没入すると、背景が見えなくなる。

伽羅先代萩などを観たのだけれど感動した。



人形は所詮人形なのであるが、所作を意識し一挙手一投足を鋭く研ぎ澄ませば、人形からさらに先を見せる事ができる。


人形を動かしているのではなく、働かしているのである。


芸術家であるならば体の隅々にまで意識を及ぼして身体を働かせ、指先に触れる塵も感じ取らねばならない。とも思う。



うむ、我ながら無茶な事を言っているな。

頑張って人差し指を研ぎ澄まそう。

ヒィヒィ、ヒィー!



写真撮影 馬渕久美子

パルナス論

A-yan!! 神野翼の戯面芸術随筆 border=


パルナスは今はなき製菓メーカーであるが
ケーキやシュークリームだけでなく
ピロシキも作っていた。

ピロシキとはひらたく言えばロシアの肉まんである。


神野翼はパルナスピロシキが好きであったが
今はもうパルナスはない。

しかし兵庫県は尼崎にパルナスのピロシキの製法を受け継ぐモンパルナスなるお店があるのだそうな。

そこに行けばピロシキを食べることが出来るのである。


良いものは決して無くならないものだ
いろいろに形を変えて受け継がれていくものなのである。


神野翼のアートも滅びることなく連綿と受け継がれていくものになって欲しい。


常に進化し、より美しいものに。
そうで有りながらその芯たる魂は変わることなく受け継がれていく

それこそが芸術である。



写真撮影 馬渕久美子

ささやかな望み


A-yan!! 神野翼の戯面芸術随筆-お面 渇望

三十路を過ぎると出来ることと出来ないことの区別ぐらいはつくようになってくる。

叶え難い夢というものが出て来た。

人としての種を捨てて次世代の形に進化するということだ。

より強い意志を持って雄々しく巨大な肉体と雄大で強固な精神を持った
まだ見ぬ何かに進化することが目標だった。
それを成し得るものこそ芸術であるという理念は今も変わらぬが
それには膨大な時間が必要であることに気が付いてしまった。

神野翼が進化するためには後一万年程の時間を要するということに気が付いた。

残念ながら神野翼はあと百年足らずしか生きていないだろう
どう頑張っても五百年生きるのが精一杯だ。


だから一万年後の神野翼に願いをたくす。

今の神野翼は新しい進化の出発点になろう。
自分が始まりだ。
一万年後の進化の原初は神野翼であろう。


だから伝えよう神野翼を。
自分の目指す進化の行く末をまだ見ぬ人たちに伝えよう。
進化を表現しよう。


神野翼を表現しよう。




                      写真撮影 馬淵久美子