神野翼の芸術つばらつばら。 -3ページ目

いつもと少し違う事をしてみる。

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無意識に日々活動さしている身体を少し驚かせる事にしよう。


身体の動かし方というものは日々の生活の中で類型化していくものである。

歩くという行為もそう。
きっと何時も同じ足から踏み出している事と思う。


靴を脱ぐ時も、ご飯を食べる時も、頬杖をつくときも何時も同じ方の手や足や歯を使っているのではないか?


類型化する事により無意識に行動出来るようにはなるけれども、小さな行動の中に潜んでいる発見や感動を見逃してしまう事になりかねない。


いつもと違う足で最初の一歩を踏み出してみよう。

いつもと意識が違うはずだ。
身体の動かし方が違うし、地面を踏む感覚も違う。

些細な事だけども、自分の身体を感じる事が出来るだろう。

自分の身体であっても知らない事はあるものだし、新しい発見があるものだ。

左右で手の大きさは違うこともあるだろうし、右足で一回転するのと左足でするのとでは難しさが違うことだろう。
食べ物も右と左の歯で噛むのでは味が違うんじゃないだろうか?


小さな行為で身体を感じる事が出来る。


これも身体表現の一つであると思う。



試行錯誤 (お面の作り方)

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2001年のこと

新世紀を迎えたことでもあるし、以前から自分の画題にもなっている『お面』を絵に描くだけでなく、実際的にかぶれる立体造形物として制作してみようとふと思った。


しかしいざ作ろうとしても、よく考えたら作り方を知らない。

周りにお面を作っている人もいないし、頼る術も知らなかった。

なんだか寄る辺なき身の上だったので、全部自分で考えて作ることにした。


先ずは材料の吟味である。

何が良いのだろう?
なんせ加工しやすい物がよい。
木彫りのお面も考えたが
木を加工するのは容易ではないので早々に却下。

そこで思い付いたのが紙のお面。

紙なら画用紙、ケント紙、藁半紙と沢山持っていた。
当時は画家だったのだ(今もそうだケド。)


紙を細かくちぎってお湯でふやかして、弟の顔に貼付けてお面を形作っていった。

新聞紙でやったり、藁半紙でやったり、ケント紙でやったりしたがしっくりこない。

藁半紙は弱く加工が手間だし、ケント紙は固くてこれまた加工が手間だ。
新聞紙はお話にならなかった。

自分の理想の形に中々成らないでアレコレ試していたら、弟がもうお面の土台になるのは嫌だと逃げ出してしまった。

しょうがないので、土台になるような物をアレコレ探したがみつからなかった。

お鍋のフタや、丸めた新聞紙の塊や父親の顔など試したがどれも理想から遠かった。


はたして理想の形とは?

自分の顔だ。なんせ自分がかぶるお面なのだから。

自分を土台にしてお面を作ってみたが、やりにくいったらない。すぐ挫折した。

もうひとつ自分の顔があればいいのだ。

という訳で型取り材で自分の顔の型をとることにした。

何で早く気付かなかったんだろう。


歯医者さんで歯の型を採る何やらドロッとしたもので顔の型を採り(父親と弟が)、そこに石膏を流し込んで、神野翼のライフマスクをつくった。


石膏の顔は文句を言わないので非常に作業がはかどった。


素材の紙はお面に最適なのは和紙だった。

しなやかで強くなにより美しい。

和紙にも色々あるが分厚く頑丈な鳥の子和紙が良い事がわかった。


和紙を細かくちぎってお面の形にするのだが、和紙だけではもろいので和紙どうしを接着しなくてはならない。

和紙用の樹脂などがあったが保管が難しく、樹脂に硬化材を混入しなくてはならないのが面倒であるし、なにより説明書をなくして樹脂と硬化材の混合比がわからなくなってしまった。
それより繊細な作業が性にあっていない。

膠で固めたりもしたが、これも面倒な上に、ただごとでない臭いを放つので辟易してやめた。
加えて膠の主原料は動物の脂なので家で飼っている犬がお面を食べてしまった。


結果的に木工ボンドを水で薄めたものが経済的かつ扱い易いので、これに落ち着いた。



こうやって和紙のお面を作れるようになった訳だが、この和紙お面を作れるようになるまで一年を費やしていた。


傍からみたら、絵も描かず家に篭ってゴソゴソしていた訳だから、
いったい何をしているんだろう?
と思われていたようだが、
2001年は別にぼんやりしていた訳でなくお面の研究をしていたのだった。


ちゃんちゃん。



写真撮影 馬渕久美子

何ぞや?

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芸術とは何であり、何ものであるのか?


答えは『知らん』



世の中知らない事の方が多い。

例えば本屋に行ったとして、その本屋の棚に列んだ本の中で自分の読んだ本の数は如何程になろうか?

まぁ一割にも満たないと思う。


この世の中には自分の知らない知識や知ったこっちゃない事物がごまんとある。

この事実にうんざりして思考を止めてしまうか、まだ見ぬモノに対し探究心を持つかでモノの見え方が変わってくる。


何事にも初めがあり、最初は知らないものなのである。

それを恥ずべきではない。
知らない知識は新しい玩具みたいなもので、手に入って何だかラッキー程度に思っていたら良いのである。


芸術という鉱脈もそう。
掘れば掘っただけ何かが出てくる。
底の知れないものだ。

少し掘った位で功が成ったと思うのは痴れた事である。


掘れば掘るほど、探究すればするほど何かを得られる。

芸術探究の旅は楽しい。

知らない事は楽しい。


芸術とは何であるのか?

そんなこと知らないのである。




写真撮影 馬渕久美子