村上春樹は香櫨園で遊んだか? | カノミの部屋

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ブログ・469「村上春樹は香櫨園で遊んだか?」2018・12・14

 

 京都から阪神間に引っ越ししたのは、彼、2歳だから覚えてないに違いないが、まず京都から西宮市の「夙川」の西側に、次に東側に引っ越したらしい。そのあと、芦屋市芦屋川に引っ越した。(「村上朝日堂」p.57)

 西宮市夙川といえば、香櫨園海水浴場の近くである。

 「夏になると僕は毎日この海で泳いでいたんだよ。海水パンツを履いたまま、家の庭先から海岸まで裸足で歩いて通ったんだぜ。太陽に焼かれたアスファルトの道は恐ろしく熱くってね、ぴょんぴょん飛びながら歩いたもんさ。」(「カンガルー日和」p.115)春樹少年5歳ぐらいだとすると、実はその数年まえに、私の家族は、この辺りに引っ越してきて。2年間住んだことがある。

 私の家族は、サラリーマンで転勤族だった父が熊本から関西に転勤になり、1948年8月から1950年8月まで、西宮市に住んだ。阪神電車の香櫨園駅から5分ほどのところで、香櫨園海水浴場は家から7、8分。海水浴場の近くに住むのが嬉しくて、水着の上に洋服を着て、泳ぎに行ったこともあったが、実はすぐ私は働き始めたので、その後、この海水浴場に行ったのは勤め先の同僚とボートに乗りに行ったことが一回あっただけで、2年後には次の転勤先、東京に引っ越してしまった。

 それにしても、村上春樹が繰り返し嘆く「海」の喪失を、私も共有できることに感慨がある。この海水浴場は六甲山の土を掘り崩して、ベルト・コンベア」で土を運び、埋め立てて、マンションをいくつか建ててしまったのである。

 村上家は、まだ香櫨園に海があった頃、芦屋市に引っ越した。多分中学生の頃かと思う。

 阪神間には六甲山を背景に、海に向かって、阪急電車、国鉄、路面を走る国道電車、阪神電車が走っていた。芦屋は阪急沿線で、高級住宅地である。海に近いほど庶民的になる。

 村上春樹が「僕は神戸で育った」というとき、西宮も、芦屋も、高校に通った神戸に含まれているのであり、「芦屋育ち」というときも、香櫨園周辺が含まれている。海を失った悲しみを共有する私にとって、村上春樹は同時代人だと感じていても、不思議はないと思う。

 私の知っている、母の郷里の志布志湾も含め、日本中から子供の遊ぶ海がうめたてられた。そこにマンション、工場、原発が作られていったのだった。