村かも春樹はどのように育ったか | カノミの部屋

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ブログ・472「村上春樹はどのように育ったか」2018・12・22

 

 村上春樹の行った、生徒をやたら殴る中学校の名前がわかった。芦屋市立精道中学校である。このことは、安西水丸さんの絵とともに「日刊アルバイトニュース」に連載した文を集めた村上春樹の初めての「雑文集」に書いてあった。こういう本に、時々ちらっと「自伝」のかけらが載っていて、こういうのが私の村上春樹を知るニュースソースになっている。(ところで、精道中学校がまだあるとして、今は先生が殴るということはないと思います、念のため)

 高校は神戸にある受験校で、1学年600人もいる大きな学校だった。彼は「団塊の世代」なのだ。競争の激しい「団塊の世代」で、受験校に入れたのだから、学校の勉強は嫌いで、ろくに勉強はしなかったが、上位10%のあたりを前後していたらしい。よく大人から、「学校にいる間にとにかくしっかり」と勉強しておきなさい、若いうちにもっと身を入れて学んでおけばよかったと、大人になってから必ず後悔するから」と言われたが、そう思ったことは一度もなかった。細かすぎて息苦しい「校則」、受験だけを目指す無意味な、本質的でない授業、こんな授業が面白いわけない。

 いうまでもなく、村上春樹は「音楽」と「読書」で育った。

 音楽について、小学5年の時、ソニーの小さなトランジスターラジオを買ってもらって、まずポップミュジックにはまったそうだ(2005年「ステレオサウンド」という雑誌のインタビュー)。リッキー・ネルソン、エルヴィス・プレスリーなどにはまった(と言われても、私には全然わからない世界だ)。中学生の時、ビクターのステレオを家で買ったので、レコードを買うようになった。初めて買ったのはビング・クロスビーのクリスマス・アルバム。あとはリッキー・ネルソンなどで、英語の歌詞を某暗記して今でも覚えているそうだ。

 1964年にアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの来日コンサートを聴きに行って「ジャズ」にぶっ飛んだ。そして高校生になって、クラシックにも目覚めた。なんという豊かな音楽歴かと、羨ましい限りだ。体の中にアメリカ音楽のリズム、精髄が染み込んだ。このことは、高校生の時から、神戸の古本屋でアメリカ船員が売っていったのだろう安いアメリカの小説を買って読みふけったことに繋がる。辞書を引かなくても、耳から入った英語の下地があるからなんとなくわかる。のちアメリカ文学を翻訳することを楽しんだ基礎になっている。語学を身につける最善の方法だったと思う。