東京下町大空襲 | カノミの部屋

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ブログ・486「東京下町大空襲」2919・3、9

 

 今日は東京下町大空襲の74年目の記念日である。この大空襲は3月9日の深夜から3月10日の未明にかけて行われたから、普通「3月10日」となっていて、それも間違いではない。

 私の家族は長い間浅草の松葉町という、浅草の繁華街と西郷さんの銅像のある上野との真ん中あたりに、祖父の代から住んでいた。ところが昭和17年5月、父が突然勤務先の銀行の命令で九州に転勤になった。家族は長く住んだ浅草から九州に引っ越し、家は近所の方に売り、小学校を卒業して跡見女学校に入ったばかりの私は、東京の学校の寄宿舎に入る事になった。

 太平洋戦争は昭和16年12月8日に始まり、初めは勝った、勝ったと知らされ、やがてアメリカの物量の豊かさに、すぐ押し返されたが、国民には知らされず、アメリカの日本への空襲は昭和19年11月から毎日続く事になった。特に東京は、文字どおり昭和19年11月1月から昭和20年8月15日正午まで、毎日(大抵夜だったが)、空襲があった。東京は広い、人口は多い、文字どおり、毎日、大抵夜だったが、空襲があった。B29が、2、3機で、5、6機で、15機で、30機でなどいろいろだったが、警戒警報、空襲警報の鳴らない夜はなく、ちょっと見て、家から遠いと思うとすぐ寝てしまう。

 そういう中で、下町大空襲は、最大のものだった。カールス・ルメイという将軍の戦略で、低空飛行、焼夷弾の集中投下、周辺から内側にという方針で、下町一帯は、焼夷弾が束になって落ち、燃え広がるなかを逃げる道は塞がれ、一夜で10万人の死者が出た。

 このとき、私は小石川の跡見女学校の寄宿舎にいた。下町とはそれほど遠くはないが、被害が及ぶほど近くはなかった。

 私が家族と住んでいた家は焼けた。祖父の代から持っていた35軒の貸家も全部焼けた。私の家は財産を失った。命を失った10万の人々を思うと、軽微な損失ではあるが、下町は、私にとって「ふるさと」という思いがあるから、故郷を失った寂しさは消えない。

 日本の、満蒙地区にはじまり、中国を南下し、日中戦争を引き起こし、太平洋戦争に至る長い戦争の時代が、どんなに間違っていたか、どんなに不幸を巻き起こしたか、その戦略で日本そのものの中にも犠牲を被ったことを思わずにはいられない。「戦争はいけない、本当にいけない」。

 

 

 

 

 東京