「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」 | カノミの部屋

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ブログ・487「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」2019・3・9

 

 「ピーターキャット」が千駄ヶ谷に移ってから、二人は神宮球場から近いところに住んだ。店は順調に繁盛していた。借金はまだあったが、この先返していける見通しは十分あった。多分この店も日曜は休みではなかったかと思う。

 1978年4月の朝、彼は神宮球場の外野席の芝生の生えた斜面で、ヤクル

ト・スワローズ戦を見ていた。彼はヤクルトのフアンでとても弱いチームだったらしい。その時の相手は広島カープ。空は綺麗に晴れ、ビールはあくまで冷たく、白いボールが緑の芝生に映え・・・その時に、何の脈絡もなく「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と思った。「空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められた」ような感じだった。この時を境に、彼は小説家になった。

 試合が終わって、電車で新宿の紀伊国屋書店まで行き、原稿用紙と万年筆を買って帰った。

 夜遅く店の掃除を済ませ、事務的な仕事も終え、家に帰ってから、台所のテーブルにむかって小説を書いた。彼は、小さい時からたくさん本を読む子どもだったが、日本の現代の小説をほとんど読んでいない。「お手本」がない。そういう中で、万年筆で書いては見たが、面白くないし、書いていて自分が楽しくない。思い余って英語で書いて見た。再びそれを日本語に翻訳して見た。英語をくぐらせたことで、母国語ではない言葉で表現が限られているぶん、そこに彼なりの文章のリズムが生まれた。これが自分の文体だと思えた。

 こうして「風の歌を聴け」ができた。これは最初に書いたものと、小説の筋は同じだが、表現方法は全く違う。彼の文体で書いた第1作「風の歌を聴け」を、雑誌「群像」に送った。

 改めて、「風の歌を聴け」を読んだ。この作品は、彼の大学生の時の夏休み、芦屋に帰省した一夏の物語だ。作中に「この話は1970年8月8日に始まり8月26日に終わる」とある。高校生の時から行きつけのジェイという中国人のやっている、ジェイズバーに行ってみる。鼠というあだ名の友達、ジェイズバーのトイレの床に酔っ払って寝ていた女の子、その娘と付き合うことになる、鼠は自分が金持ちだということに我慢できないという、ここを出て小説が書きたいという。夏休みが終わって帰る時、彼はまたジェイズバーに寄った。