佐村河内守さんの記者会見とそれを評論する番組を観て | なぜぼくらはおいていかれたの 

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佐村河内守さんの曲は全部自分が作曲をした、という影武者の記者会見があった時、「うーむ、双方の方ともおぞましいなぁ」とつぶやき、『どの芸術の分野にも盗作やゴーストが表立つことがあるが、こうした真実は人知れず営々と芸術の土台に埋まっているのだろう』と思い、でもすぐに忘れてしまっていた。

昨日、母が観ていた番組に、見慣れぬ男性の記者会見らしきものがあって、それが現代のベートーベンと言われた佐村河内守さんなのだと知って、母の横に座り込んで観てしまった。
そして先ほど爆笑問題のワイド番組で、何人かの人の評論というか意見を聴き、ちょっと考え込んでしまった。

考え込んだのは、こうした当事者にとっては大変重要な事態の中で取りざたされる”嘘”というのは、嘘と単純に決めつけられない広義な要素があるのではないか、ということだ。

というのは、私は難聴で、これまで検診の折に、「障害者手帳をとりますか?」と言われたことが複数回あるからだ。そのくらい悪かった時期があったし、小学生の頃は一番前でないと先生の言葉が聞き取れなかった。

父が田畑や山を処分して治療にあてるなど、回りの大人がそれなりに私の耳に集中して正常にしようと奮闘したのだが顕著な回復はなかった。
私の場合は身体がひ弱でしょっちゅう高熱を出すことにある中耳炎で鼓膜が決定的なダメージを受けた結果らしいのだが、自分の聞こえが悪いので必死に意味を聞き取ろうとしていつの間にか身に着いた「それまでの話の流れから意味を読みとる能力のようなもの」と「口の動きで相手の言葉を知る能力のようなもの」が私を助け、私の難聴に他者が気付くということもないくらいの状態にでこれまできた。

こうした自分の実感から、佐村河内守さんの耳に関する矛盾で、「聞こえているだろう」と決めつけたり、全てを嘘としてしまうのはどうかな、と思った。

それから、人と人の関係の中で、言葉は通常に聞こえ通っても、その言葉に対する価値観や理解の違いによって、真実が通いあってる、とは言えない場合があるということだ。
このことの具体的なことも何度も体験した。場が読めないと言われがちな独特の価値基準や感性をもつものはしばしば思わぬ現実に立ち塞がれたりするものだ。

・・・・・・とこう書いたからと言って、佐村河内守さんや影武者を擁護するつもりはなく、だいたい他者が擁護したり追い詰めたりすることでなく彼らの冒涜のような罪は、自らが受けていかれるものだろう。

それにしても思う。番組で観た時、どこかの記者が、最初から嘲笑をもって、「聞こえてるんでしょ」というようなことを言っていたが、結局、佐村河内守さんたちが侵した行為は、他者の必死の言い訳に心を閉ざし頑なに見下したまま向かい合う人たちがおそらく多いのだろうこの社会では、”普通にはびこってる”事象なのではないか、と。

こうしたことを知るにつけ、自分のことをせいぜい振り返り、わずかな時間になった今後の人生を誠実に生きるにはどうしたらいいのか、飾るのでなく反発でなくシンプルにシンプルに考えたいと痛切に思う。