東北新幹線E5系「はやぶさ」グランクラスで新青森へ贅沢旅行 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

朝の東京駅新幹線ホームは、大きな荷物を抱えたよそ行きの服装の人々が行き交い、大変な賑わいだった。
次々と滑り込んできては、わずか10分ほどの短い折り返し時間で、慌ただしく乗客を乗り降りさせ、車内清掃を行い、東北や上信越方面へ向かう数多くの人生とともに、幾多の華やかな高速列車が颯爽と旅立っていく。

頭上で錯綜する案内放送が、耳に痛いくらいだった。



平成25年6月の週末を迎えた午前8時すぎ、初夏のみちのくへの旅立ちにふさわしい、濃緑色を基調にした流麗な列車がしずしずと入線してきた。
平成23年3月にデビューしたばかりの、最高速度時速320kmを誇る最新鋭の東北新幹線E5系車両である。
今の新幹線車両は、走行中の空気抵抗を和らげ、特にトンネル内での風圧の急激な変化による「トンネルどん」を防ぐため、ノーズが鳥の嘴のように長くなる傾向にあるけれども、他の車両と比べても一段と長く伸びた扁平な先頭部分が人目をひく。
待ち構えていた子供たちが、一斉にカメラを構える。
東京駅を8時20分に発車する、「はやぶさ」5号新青森行きの入線だった。

JR東日本は「世界一の鉄道システムの構築」という構想を平成12年に発表、新幹線を時速360kmで営業運転する計画を明らかにした。
「FASTEC 360」という高速試験電車で各種試験を行った結果、環境対策やコスト・パフォーマンスを考慮すれば最高時速320kmが妥当という結論が得られ、E5系が開発されたという。
営業運転開始は、東北新幹線が青森まで延伸した3ヶ月後の平成23年3月5日だった。
宇都宮と盛岡の間で時速300km運転を行い、その他の区間でも時速275kmで運転する速達列車「はやぶさ」での運用だった。

しかし、直後の3月11日の東日本大震災で東北新幹線は不通となり、全線が再開通した4月28日からも暫定ダイヤのため300km運転はお預けとなっていた。
懸命の復旧工事が実って、E5系「はやぶさ」が300km運転を再開したのは、同年9月23日のことである。

今や最高速度は320kmに引き上げられ、「はやぶさ」の最速列車は、東京-新青森間674.9kmを所要2時間59分で走破する見事な俊足ぶりを発揮している。
だが、所要3時間を切る速達列車の本数は決して多くない。
実際には秋田新幹線「こまち」を併結して走る「はやぶさ」が多く、盛岡での分割・併結作業のために所要時間が3時間を越えてしまう列車がほとんどだった。

八戸までは何回か乗ったことがあったけれども、僕は、この日が、新青森まで全通した東北新幹線の初体験だった。
どうせ乗るならば、青森まで3時間以内というスピード感を体感できる最速列車に乗りたくて、「こまち」を併結しない「はやぶさ」5号を選んだのだった。

この年の3月には、「のぞみ」と「みずほ」を乗り継いで、東京から鹿児島へわずか7時間という躍動感溢れる旅を楽しんだばかりである(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11484603850.html)。
九州新幹線が全通したのも、平成23年3月だった。
青森から鹿児島までが新幹線で結ばれた、という華やかな話題が一瞬日本を沸かせたけれども、直後に震災が発生し、数々の悲惨なニュースの陰に隠れてしまった。

震災の後に、東北へ足を踏み入れるのは初めてだった。
暇や用事がなかったと言えばそれまでだが、北へ旅行することが、何となく躊躇われたのも事実である。
どんな車窓が待っているのだろう、と少しばかり不安な思いを抱く僕を乗せて、「はやぶさ」5号は定刻に動き出した。

営業列車として世界最速の列車とはいえ、大宮までは旅の序章である。
試合本番前の足慣らしのように、「はやぶさ」は時速110km以内でゆっくりと走る。
林立するビル街や派手な看板が線路際に迫る秋葉原の手前から、高度を下げて地下へ潜っていく。
東北新幹線東京-上野間の地下トンネル工事中に、御徒町駅前の道路が陥没する事故があったことを思い出す。
人影がまばらな上野駅のホームを通過すれば、今度は飛行機の離陸にように高架へ駆け上り、ぎっしりと建物が隙間なく地表を覆い尽くす街並みが、車窓いっぱいに広がる。


荒川橋梁を渡れば、東京とはしばしの別れである。
その後も、高層マンションやオフィスビルの隙間を縫うように、右に左に身をくねらせながら、速度を抑えた走りが続く。
曲線がきつく、窓から列車の先端が見える箇所もある。
この区間では、どの新幹線に乗っても、早く全開で走り出したくて、列車がうずうずと武者震いしているような感触がある。
逸る列車の手綱を、運転手さんが懸命に絞っているかのように感じる。
それは、乗っている僕の願望でもあるのだろう。


大宮を8時44分に発車すると、「はやぶさ」は獲物を狙って解き放たれた猛禽のように、みるみる速度を上げていく。
1時間10分後に到着する仙台までノンストップのダイヤで、いよいよE5系の本領発揮である。
宇都宮から先では時速320km、僕にとって未体験の最高速度での走りも味わえるはずだった。


車窓には茫漠とした北関東の田園地帯が広がっている。
線路の敷地に目を凝らせば、後方へ跳び去っていく枕木や防音壁、架線を支える支柱などの目まぐるしさに、自分が猛烈なスピードで運ばれていることが分かるのだが、遠方に視線を転じれば、点在する建物や緑の田園の流れはあくまで悠然としている。
天候は快晴だった。
まばゆい陽の光が、光景の全てを黄金色に輝かせながら跳ね回っている。
路盤と車両がしっかりしているのか、揺れはほとんど感じられず、乗り心地はとても滑らかだった。
いつ時速320kmを出したのか、判然としないほどである。
東海道山陽新幹線の「のぞみ」や「みずほ」が最高速度を出すと、ビリビリ細かな振動が伝わってきて、如何にも限界いっぱいで懸命に走っています、といった観があるけれど、「はやぶさ」の走りにはまだまだ余裕が感じられた。


僕が乗っているのは先頭車両の10号車で、E5系で初めて登場したグランクラスの右側最前列だった。
わずか3時間とはいえ、奮発して、グリーン車よりも豪華で高額な、日本の鉄道における最上級車両の客となったわけである。
左側が2列席、僕の乗る右側は1列の独立席で、電動のリクライニングを倒し、フットレストを持ち上げれば、周りを気にすることなく、思う存分に身体を伸ばしてくつろぐことが出来る。
乗り慣れた風の、何気ない顔つきでを装っていたつもりではあるが、この席で青森まで行けるのだから、内心は嬉しくてしょうがない。

女性のアテンダントが、にこやかにおしぼりを配りながら各座席を回り、続いて軽食がテーブルに置かれた。
もちろん無料で、航空機のファーストクラス並みのサービスである。

そのメニューは以下の通りだった。

青森林檎入り焼売
筍の木の芽味噌焼き
蕗の薹天ぷら
分葱 赤紫蘇煮ソース
笹蒲鉾
慈姑(くわい)揚げ煮
帆立うま煮
たらの芽お浸し
三色団子
五目御飯(桜海老素揚・飾り人参・小鳥長芋)

東北各地の名産を巧みに取り入れた食材で、1品ずつ味わいながら、美味しく平らげた。


「お飲み物はいかがですか」

とアテンダントに聞かれ、アイスコーヒーを頼んだが、これもサービスで、しかもお茶菓子付きだった。


舌鼓を撃っているうちに、左手遥か彼方に見えていた山並みがゆっくりと近づいてきて、関東平野もどん詰まりだな、と感じさせる。
東京から150km、那須塩原駅を吹き飛ばすような勢いで通過した「はやぶさ」は、初めてのトンネルをくぐる。
全長7030mの那須トンネルである。
このあたりから、大小の丘陵が左右から押し寄せて来るとトンネルに入る、という変化に富んだ車窓が繰り返される。

以前、東北自動車道から、平行する新幹線の白い高架橋を眺めた時には、進路に立ちはだかる大小の丘陵を次々と貫いていく贅沢な設計に目を見張ったものだった。
新幹線車両の数両分くらいの長さしかないような小ぢんまりとした丘も、容赦なく串刺しにしている景観が印象的だった。
それくらい避けてあげたらどうなのか、と丘陵が可哀想になった。


速度を緩めずに走り抜けた新白河の駅で、僕はついに、久しぶりの東北地方に足を踏み入れた。
古の時代から、白河の関としてみちのくの玄関であり続けた土地であり、平行する東北本線の白河駅付近には「ここよりみちのく」という河北新報の看板が立てられている。

「はやぶさ」5号は、郡山、福島の街並みを轟然と通過していく。
自然と背筋が伸びて、心が粛然とする。
2年前の震災の悲劇を、どうしても思い浮かべてしまうのだ。
あまりに甚大な被害であったからなのか、それとも行政の不手際なのか、2年が経過してもなお、復興は不充分であると聞く。
そして、解決の目途すら立たない原発事故。
被災地の方々の苦しみを思うと、心が痛む。
新幹線の車窓からも災害の爪痕が見えてしまうのかもしれない、と思うと、怖いような気持ちになる。

結論から言えば、そのような痕跡は皆無だった。
主な被災地は津波に襲われた太平洋岸であり、東北新幹線は遥かに内陸部を走っているので当たり前であるけれど、車窓から目にする家々はあくまで穏やかな佇まいを保ち、田畑や山々の緑は何処までも鮮やかで明るい。
高村光太郎の「智恵子抄」で、「安達太良山の上に広がる青い空が、本当の空だと言ふ」と詠んだ、抜けるように澄んだ青空が眩しい。
初夏の東北の自然は、心の奥底まで染み入るように美しかった。


それでも、その裏側に隠れて見えないものにも、思いを馳せる必要があると思う。
右手に見える阿武隈の悠然とした山並みの向こうの浜通りで起きていることは、深刻としか言いようがない。

震災で一時不通にはなったものの、東北新幹線は真っ先に復旧が急がれた。
東北の大動脈であり、復興促進のシンボルでもあった。
一方で、海沿いにあって津波でズタズタに寸断された在来線や私鉄は、常磐線も、三陸鉄道も、未だに復旧していない区間が少なくない。
復旧の順番が逆とは言わない。
けれども、東北新幹線と同程度の熱意で鉄路が復活しないのはなぜなのか。

経済的な理由?
ペイしないから?
利用者数が少ないから?

同じ鉄道でも、この格差は、被災地の復興に対する僕らの国の姿勢を、そのまま象徴しているような気がしてならない。
東北の人々の忍耐は、いつまで続くのだろうか。

新幹線の車窓から被災地の実情を偲ぼうとしても、所詮、別世界でぬくぬくと快適に過ごしながらの他人事でしかないのかもしれない。
まして、グランクラスに乗って、ゆったり車窓に目を遣りながら、幾ら深刻に考えてたとしても、全く説得力がないと思われてもおかしくない。


気分が沈みがちになった僕を乗せて、「はやぶさ」5号は、瞬く間に福島県の中通りを走り抜け、定刻9時51分に仙台駅に滑り込んだ。
駅の手前で減速するあたりから、車窓がざわざわと賑わい始める。
僕が最後にこの地を訪れた7年前と変わらぬ佇まいを残した、杜の都だった。

この日の僕の本当の目的地は、仙台である。
しかし、未乗の八戸-新青森間の延伸区間を、最速列車の豪華な座席で乗り潰したいという欲求を抑えることは難しかった。
東北新幹線の力は偉大で、このまま新青森まで往復してきても、午後1時過ぎには仙台に戻って来られる。
青森の滞在時間はわずか20分ばかりという、マニア以外の人には誠に馬鹿馬鹿しい散財としか思えない行為だろう。

発車後に広がった仙台郊外の水田地帯では、田植えが終わったのか、青々とした稲が育ち始め、あたかも緑色の絨毯を敷き詰めたように見える。
「はやぶさ」5号は、左を奥羽山脈、右を北上山地に挟まれながら、みちのくの懐深くに向けて、ひたすら走り込んでいく。


僕が初めて東北新幹線に乗ったのは、開業2年後の昭和59年で、この旅とちょうど同じ季節だった。
往路は寝台特急で盛岡まで行き、折り返す在来線で平泉や松島に立ち寄りながら南下、仙台から上りの新幹線に乗り込んだのである。
まだ大宮暫定開業の頃で、大宮から上野までは在来線を走る「新幹線リレー」号に乗り継ぐ必要があった。


東海道新幹線0系車両とは似ているようで一線を画し、ずんぐりした顔つきの200系車両の実物を初めて目の当たりにすると、白地に緑色のデザインもなかなか良いではないか、と心が躍った。
当時の200系車両の普通席は、オレンジ色だった。
東海道新幹線の、青の濃淡に塗られて背もたれが倒れない転換クロスシートと異なり、リクライニングが可能となった代償に、3列席側では向きが変えられなくなり、車室中央を境に座席が端の方を向いて固定されていた。
時代が変わったのだな、と思ったけれども、リクライニングと座席回転機能を天秤に掛けて、前者を優先した発想は、僕には驚きだった。
そのため、僕は東北新幹線で指定席を利用しなかった。
車両後方の座席を指定された場合は、目的地までずっと後ろ向きに座っていなければならない状態を忌避したのである。
リクライニング機能を備え、かつ回転可能な座席が開発されるのはまだ先の話で、200系車両の時代は、乗る列車を遅らせてでも自由席に並んだことを思い出せば、隔世の感がある。


その旅が、僕の東北初体験でもあった。
東北新幹線のかなりの区間が高架であることに、何と贅沢な鉄道を建設したものだ、と舌を巻いたが、そのおかげで在来線よりも遥かに見晴らしが利いた。
車窓に映る広大な仙台平野を眺めながら、遠くまで来たものだ、という旅情が湧いてきて、無性に旅心をそそられたことが、今でもありありと脳裏に蘇る。

昭和60年、上野-大宮間開業。
平成3年、東京-上野間開業。
平成14年、盛岡-八戸間開業。

平成23年に鉄路は新青森へ伸び、著しく進化したE5系車両から眺めても、みちのくらしく優しい表情の山河に、何ら変わりはなかった。

変わったのは僕の方である。
東北新幹線に初乗りした時は、大学1年生であった。
東北新幹線の完成と車両の進化はめでたいことだけれども、卒業、就職、結婚など、僕の人生を刻んでいった歳月は容赦なく流れ、30年が経ってしまったのか、と思う。


右手から北上川が寄り添い、緑が多くしっとりとした街並みが現れると、10時31分着の盛岡だった。
八戸に延伸されるまで、長いこと東北新幹線の終点だった駅である。
階段を駆け下りて、在来線ホームの青森行き特急列車に乗り継いだのも、今では懐かしい思い出である。
あの頃は、新幹線でも盛岡まで3時間程度を要し、更に在来線の2時間が加わる青森は、実に遠く、最果ての街だった。


盛岡を出て間もなく、左手の彼方に、雪を残した逞しい山容の岩手山が姿を現した。
その先は、険しい山々が増え、トンネルも増える。
この区間だけは、山あいを縫って曲がりくねった線路をのんびりたどりながら、鄙びた車窓を存分に楽しめた在来線の方が恋しくなる。
トンネルで暗転した窓ガラスに映るのは、物思いに沈む僕の顔だけだった。
木々の緑が心なしか色褪せて、季節が逆戻りしていく。


一昨年までの終着駅だった八戸駅を、「はやぶさ」5号は容赦なく通過してしまう。
ここからが未乗の区間だが、全長2万6455mと我が国で最も長い陸上トンネルである八甲田トンネルを筆頭に、長大トンネルが断続するばかりで、少しばかり味気がない。
いよいよラストスパート、本州の北端に近づいているんだぞ、と懸命に気持ちを盛り上げてみるものの、なかなか実感が伴わない。


はるばる北国までやってきた、という感慨がこみ上げてきたのは、トンネルとトンネルの狭間の一瞬であった。
東京ではとっくに散った桜の花を残した木立ちが、目に入ったのだ。
もちろん盛りは過ぎているが、少しくすんだ色合いでありながら、周囲の木々の緑と鮮やかな対照を成しているその姿は、僕の瞼にはっきりと焼きついた。

旅の終わりは呆気なかった。
トンネルを抜けると津軽平野が広がり、右手の彼方に望む一塊の街並みは、青森市街であろうか。
「はやぶさ」5号は、左へ左へと大きく曲線を描きながら、速度を落としていく。


定刻11時19分、それまで途切れることなく流れ続けていた景色は、ホームの「新青森」の駅名標の前で、ふっと動きを止めた。
アテンダントの一礼に見送られて乗降口を飛び出すと、東京との気温の差に、思わず身震いした。

振り返れば、E5系10号車の長く伸びた鼻先は、真っ直ぐに前方を見据えて、まだまだ先へ進みたいように見える。
だが、現時点では、この先に営業用の線路はない。
青函トンネルをくぐる北海道新幹線開通の日まで、ここが終着駅であり続ける。
この先へ行ってみたい、北海道に渡りたいと思っても、線路がなければ、僕は仙台まで引き返すしかない。
2ヶ月前に訪れた鹿児島中央駅と違って、延伸の夢が残されている未完のターミナルとも言えるのだが、今の厳しい財政状況を考慮すれば、その夢が叶う日が来るのかどうか。


青函連絡船の港と直結していた在来線の青森駅とは異なり、ガラス張りの瀟洒な新青森駅舎は、あっけらかんと広い新開地の真ん中で、最果てに来たことを窺わせる風情は何もなかった。
新幹線ホームと直角に交差する在来線ホームに、函館行きの特急列車が待機しているのが、ここが本州のどん詰まりである唯一の証であった。
「はやぶさ」5号に乗って来た人々はどこへ消えてしまったのか、人影も見えない。

数台のバスが休む駐車場の奥に、雪を抱いて寒々と連なる八甲田連峰が見え、春まだ浅い北国の風土を感じさせた。


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(25.5.20)