「はくたか」から「妙高」へ時を超えたリレー~ そして急行ビュッフェ車のおまけ話~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

金沢と長野、僕の2つの故郷を結んで列車で旅するのは何年ぶりだろうか?

子供の頃は、家族で何度も行き来したことがある。
当時は上野と金沢を長野経由で結ぶ特急列車「白山」があった。
しかし、東京に住むようになってからは、長野をすっ飛ばして、航空機や高速バスで行き来することが多くなった。
学生時代には、「白山」や、直通の寝台特急「北陸」、夜行急行「能登」を金沢と東京の間で乗り通したこともある。

11月上旬の連休中に、東京から夜行高速バスで金沢へ行った僕は、帰りに長野に立ち寄る用事を抱えていた(https://ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11703780646.html)。
10月には長野と富山、富山と金沢を結ぶ高速バスを乗り継いだが、その方法では長野への到着が遅くなりすぎるので、久々に鉄道を利用することにしたのだ
http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11692042608.html)。
僕は、特急「白山」から眺めた北陸本線の車窓が大好きだったから、今でも、印象深い幾つかの光景をありありと瞼に思い浮かべることができる。
平成9年の長野新幹線開業と引き換えに「白山」が消えてから、直通する列車はなくなってしまったから、直江津で乗り換える必要がある。

金沢からの第1走者は、12時07分発の特急「はくたか」13号越後湯沢行きだった。


金沢駅の高架ホームは積雪対策ですっぽり線路ごと大屋根に覆われ、重厚すぎて昼間でも薄暗く感じてしまうが、ひっきりなしに出入りする電車は華やかだった。
名古屋と富山・和倉温泉を結ぶ特急「しらさぎ」、大阪と富山を結ぶ特急「サンダーバード」といった上りや下りの列車が短い間隔で次々とホームに滑り込んでくる時間帯で、そのたびに乗降客がホームで入り乱れている。
北陸本線が最後の在来線特急街道と呼ばれているのを、納得させられる光景だった。
富山・福井方面や能登へ向かう普通列車も、特急の合間を縫って行き来する。

そのうちに、681系特急電車の「はくたか」が、のっぺりとした顔を現した。
久方ぶりの北陸本線の旅の始まりに、僕は心を躍らせながら乗り込んだ。


「はくたか」の愛称は、奇しくも僕と同い年である。

その起源は、大阪-金沢-直江津-長野-上野と大阪-金沢-直江津-青森の2区間を走るディーゼル特急「白鳥」が、大阪-直江津間で併結して運転されていた時代にさかのぼる。
当時は需要に比して車両が不足していたことから、全国でこのように大胆な分割・併合運転が行われていたと聞く。
昭和40年10月、金沢-直江津-長野-上野系統が独立した時に、「はくたか」と命名されたのである。
列車名の由来は、立山の開山にまつわる白鷹伝説である。


昭和44年に「はくたか」は電車特急となったが、碓氷峠を越えられない車両であったため、金沢から長岡を経由して上野に向かう上越線回りに変更された。
一方、金沢-長野-上野を結ぶ信越本線経由の列車は、昭和29年から運転されていた急行「白山」が、昭和47年に特急に格上げされている。
僕が3歳の時に、金沢から長野への引っ越しで利用したのが急行時代の「白山」だったらしく、4人向かい合わせのボックス席で撮影した家族の白黒写真が、今でも実家に残っている。

「はくたか」は、上越新幹線が開業した昭和57年にいったん廃止されたものの、第3セクター北越急行線が開業した平成9年3月に、越後湯沢と金沢を結ぶ新幹線接続特急として復活した。
平成27年に開業予定の北陸新幹線の愛称として採用されることも、決定している。

このように栄えある伝統の「はくたか」ではあるけれど、乗ったのは1度だけだった。
子供の頃に家族で金沢へ出かけた時、「白山」の座席が取れなかったのか、時間が合わなかったのか、長野から急行「妙高」で直江津に出て、下り「はくたか」に乗り換えたのだ。

当時の僕は、どっぷり鉄道ファンになっていて、遠回りをする「はくたか」の方が、地元を通る「白山」よりも上野と金沢の間の所要時間が短いことを、子供心に悔しく思っていたものだった。
それでも、現金なもので、「白山」以外の特急に乗れることに心が踊った記憶もある。
急行「妙高」に昂ぶったのかは、覚えていない。
いざ乗ってしまえば、同じ路線を走る特急の乗り心地が大きく異なるわけもなく、「はくたか」車内のことは殆んど印象に残っていない。
対照的に、初めて降りた直江津駅の、如何にも交通の要所といった雰囲気の、古めかしい構内風景の方が、今でも記憶に鮮明である。

座席に落ち着いてから、今回の旅は逆方向だけれども、その乗り継ぎの再現になるのだと気づいて、何となく胸が熱くなった。
あれから40年近い歳月が流れている。
僕の人生も、僕らの国のあり方も、大きく変わった。

確かなのは、定刻に金沢駅を出発した「はくたか」の走りっぷりが堅実であることと、40年前の485系特急車両に比べれば、681系列車の座席の座り心地も車内設備も、遥かに進化しているということである。

先日、高速バスで走った昼下がりの北陸路を逆に走るだけなのだが、鉄道と高速道路では乗り心地も沿線風景も、随分と異なる味わいだった。


その筆頭が、金沢を発車した直後、能登半島の付け根を横切るあたりで越えていく倶利伽羅峠である。
南側を迂回している高速道路は、北陸本線の線路に比べて敷地を大きく切り開いているためなのか、大して険しい地形に感じられないのだが、鉄道は線路際まで山肌が迫り、カーブもきつく、煉瓦積みの古びたトンネルも含めて峠越えの雰囲気が満載である。

紀行作家の宮脇俊三は、処女作「時刻表2万キロ」の第1章で、富山発米原行きの特急「加越」を利用して倶利伽羅峠に差し掛かる。

『トンネルを出て2キロほどの地点に倶利伽羅駅がある。
北陸本線屈指の小駅で、急行券なしで乗れる列車にさえ通過される気の毒な駅である。
が、駅名の魅力においては北陸本線随一だと私は思っている。
だから、いつもながら駅名標をしかと見ておきたい。
右側の窓に頬を近づけて待機していると、下り線との間隔が少し広くなったなと思うまもなく、特急電車は一気に通過する。
飛び去る駅名に合わせてすばやく首を振るようにすると、「くりから 倶利伽羅」という文字がはっきり見えた。
1つ、2つ、もう1つ見たいと思ったら、もう駅はなかった』

鉄道ファンには有名な一節であるが、北陸本線を旅する者にとって、源平の古戦場としての歴史や、独特の漢字を当てた地名であることなど、強く印象に残る区間であるのは間違いない。

峠を抜ければ、広大な砺波平野に散在する集落を次々と通過していくだけの単調な眺めが、眠気を誘う。
残念ながら、立山連峰は分厚い雲に覆われて、わずかに山裾が見えるだけだった。
周囲をこんもりと屋敷林に覆われた、この地方独特の散居村が、田園の中に点在している。


山ぎわを走る高速道路と鉄道の車窓が大きく異なるのは、鉄道が街の中を貫くことだろう。
窓外の線路際を、建物が櫛の歯を引くように過ぎ去っていく目まぐるしい感触は、スピード感を殊更に煽る。
間近に街の佇まいを見ることができる楽しさは、高速バスなど及びもつかない特急列車の魅力と言えるだろう。

いつしか、緑の山並みが右側からぐいぐいと近づき、北陸本線は海辺へ追いやられていく。
幾つかの短いトンネルをくぐれば、富山と新潟県境の名勝、親不知子不知である。

「白山」で往来した子供の頃から、ここの車窓が最も強烈な印象を残している。
金沢と長野の間の車窓のハイライトだと僕は思う。
個々のトンネルの長さが増していき、逆に間隔が短くなる。
トンネルの合間に見える海面が、少しずつ眼下に遠ざかり、断崖の上を走っていることがありありと想像できる。
無数の白い波頭の上を海鳥が舞う、晩秋の日本海の眺望に、心まで冷え切るような気がした。

親不知の中心では、無粋なことに、北陸自動車道の巨大な高架橋が、視界を遮って海上にそびえ立っている。
高速バスでこの区間を通ったことが何度もあるのだが、北陸道の開通後に鉄道で通るのは初めてだった。
歌にも詠み込まれた難所の興趣は殺がれてしまうけれども、途轍もない道路を造ったものだ、という驚嘆の方が遥かに大きかった。


無骨な工場ばかりが目立つ姫川の河口に開けている糸魚川を過ぎれば、再び長いトンネルが続く。
糸魚川と直江津の間はフォッサマグナと糸魚川静岡構造線が交わる複雑な地形であり、親不知と同様に山塊が海ぎわに張り出しているため、幾度も土砂災害に悩まされたという。
そのため、この区間を一気にトンネルで貫く新線が昭和44年に完成した。
浦本トンネル・木浦トンネル、頸城トンネル、名立トンネルと4つのトンネルをくぐり抜け、その合間に、能生、谷浜といった「信州の海」と呼ばれる懐かしい海水浴場を眺めて、頚城平野に飛び出すと、北陸本線の終点である直江津はすぐだった。

直江津駅のホームは団体客で賑わっていたが、「はくたか」が越後湯沢に向けて発車していった後には、旅の余韻を交えた静けさだけが、僕の身体を包みこんだ。

直江津駅に立つのは何年ぶりだろうか。
40年前には、だだっ広い構内に圧倒された記憶があるけれども、改めて見回してみれば、古びたホームや、何本も敷き詰められた線路に大きな変わりはない筈なのに、直江津駅ってこんなものだったっけ?──と拍子抜けした。
子供の頃は、何でも大きく見えたのだろうか。

外に出てみれば、駅舎も小ぢんまりと瀟洒な建物に建て替えられているが、駅前の閑散とした街並みには昔ながらの面影が残されているように思えた。


僕が次に乗るのは、直江津発長野行き「妙高」である。

この列車を、何と分類すればいいのだろうか。
時刻表で見る限りは、全ての駅に停まる各駅停車であるが、使用車両は往年の特急「あさま」で使われていた189系であり、塗装もそのまま、指定席もある優等列車である。


「妙高」という愛称も、昭和33年に上野-長野-直江津を結ぶ夜行準急列車以来の伝統がある。
昭和37年に同じ区間を走る急行に昇格し、昭和40年代には、昼夜6往復が信越本線を行き交っていた。

僕の子供の頃は、上野と長野の間で「妙高」を利用したことはなかったのだけれど、初めて家族で東京見物に出かけた時に、同じ編成の急行「信州」に乗ったことがある。
特急「あさま」が3時間あまりで走る区間を4時間以上もかける所要時間には閉口したけれども、「あさま」にはない半車のビュッフェが連結されていたから、親にねだって、嬉々として連れて行ってもらった。

何を食べたのかは忘却の彼方である。
当時のビュッフェのメニューを古い時刻表で振り返ってみれば、

朝定食(和) 300円
朝定食(洋) 300円
ランチ 300円
おにぎり定食(味噌汁つき) 300円
うなぎ御飯(吸い物つき) 450円
幕の内 250円
カレーライス 180円
チキンライス 180円
カツ丼 180円
天丼 180円
ハンバーグステーキ 290円
ハムサラダ 240円
コンビネーションサラダ 230円
ハムサンドウィッチ 180円
ミックスサンドウィッチ 220円
ポークカツレツ 280円
チーズ(クラッカーつき) 70円
御飯 50円
パン・トースト(バターつき) 50円
チップポテト 50円
天ぷらそば 150円
月見そば 100円
ざるそば 80円
もり・かけ 50円
たぬきそば 80円
ビール(大) 220円
ビール(小) 180円
清酒(特級180ml) 220円
清酒(1級180ml) 180円
ウィスキー(特級30ml) 150円
ギネススタウト 250円
コーヒー・紅茶 100円
オレンジジュース 90円
トマトジュース 90円
コーラ 90円
プリン 100円

こうして改めてメニューを見ると、値段などが時代を感じさせるが、立食式のビュッフェでも、食堂車に匹敵する食事を出していたことに驚かされる。
立ち食い蕎麦屋にあるようなメニューならばまだ理解できるのだが、ポークカツレツを立って食べるという発想は、かなりの違和感がある。

僕は、既に特急「白山」で食堂車を経験していたので、窓に平行したカウンターでの立食方式にがっかりして、早々に引き上げたような記憶がある。


「妙高」に話を戻せば、特急「あさま」の本数が増えるに従って徐々に本数を減らし、昭和57年に夜行1往復だけになった。
夜行「妙高」には、2度ほどお世話になった。
上野駅を23時58分という、まさに日付が変わる寸前に発車して、故郷の長野駅に着くのは、早朝の4時台である。
寝台車を連結していた客車列車の時代に、狭い3段式B寝台で短くも贅沢な一夜を満喫したことも、また189系特急用電車を使った座席夜行の時代に、なかなか寝つけない一夜を過ごしたこともある。
貧乏学生であったから、特急より安いという理由だけで「妙高」を選んでいたあの頃、まだ夜が明け切らない長野駅に降り立った時は、何となく惨めな気分だったことも、今となればこよなく懐かしい。


平成9年の長野新幹線開業と同時に、夜行急行「妙高」は廃止されたが、同時に長野-直江津間に快速「信越リレー妙高」として、不要となった特急「あさま」用の189系車両を使い、8往復が新幹線接続列車として走り始めた。
ところが利用者数が低迷し、現在は1日3往復のみが「妙高」の名を冠して運転され、朝1番の上りは停車駅を絞った快速運転をしているが、残りは各駅停車という体たらくなのである。

直江津での乗り換え時間は1時間近くあいていた。
14時50分発の「妙高」は、金沢方面よりも新潟方面からの接続を重視しているようで、14時46分に向かいのホームに到着した新潟発金沢行き特急「北越」を受けてから出発する。


客室に足を踏み入れれば、さすがに懐かしさがこみ上げてきて、胸がいっぱいになった。

在来線特急「あさま」が廃止されて以来、16年ぶりに乗る189系だった。
緑の塗装も、客室の色調や設備も、「あさま」時代のままである。
温水と冷水のコックがある洗面台や、ペダルを踏んで水を流す和式のトイレまで、国鉄時代が、昭和が、そのままの形で残されている。
各座席の背もたれには、特急時代ならば白いシーツが掛けられているはずだが、普通列車には不要とされているのだろう、シーツを固定するマジックテープだけが点々と残り、それだけがこの車両の凋落を物語っている。

それでも、直江津駅のホームで189系の編成を改めて眺めれば、特急「あさま」として上野に向けて発車してもおかしくない堂々たる風格がある。

この車両で、何度、長野と東京の間を行き来したことだろうか。
時には家族と、時には友人と。
残念ながら恋人と乗ったことはない。
孤独な1人旅での往復も少なくなかった。
窓に移ろう景色を見つめながら、様々な思いを抱いて過ごした3時間だった。

小学校高学年の時に僕らのクラスに転校して来て、中学も高校も同窓、進学した東京の大学の学部も、目指す職業も同じという女性がいた。
日本人離れした西洋人形のような容姿で、幼心にも眩しく、何処か近づき難い雰囲気を感じたのだが、誰とでも分け隔てせずに付き合える明るく陽気な性格は、小学校から大学まで変わらなかった。

大学の夏休みで帰省し、長野で会った時に、

「ね、東京まで同じ『あさま』で帰らない?」

と切り出されたことがある。
異性と「あさま」に乗ったことなど皆無だった僕は、不意の申し出に、咄嗟に返事が出来なかったのだが、

「切符が2枚あるの。一緒に帰ろうよ」

と熱心に誘われたから、承諾した。

車内でどのような話をすれば良いのか、などと多少は胸をときめかせながらその日を待っていたのだが、いざ「あさま」に乗り込んでみれば、並んで座るどころか、指定された車両すら異なっていた。
終点の上野駅に着いても、ホームの人混みに紛れてしまったのか、彼女の姿は見えなかった。

「はくたか」と「妙高」を乗り継いで帰省した夏に、30年ぶりとなる高校の同窓会が開かれることになっていた。
久しぶりに同窓生との交流が復活する中で、彼女の思わぬ訃報を聞いた。
まさか、と耳を疑った。
30年前に下り特急「あさま」に乗り込む時に上野駅で彼女と会ったのが、最後だったのである。


直江津を定刻に発車すれば、床下からギシギシと台車の軋み音が聞こえて、189系も僕と同様に歳をとったな、と思う。

春日山、高田、南高田、脇野田、北新井、新井……と、頸城野の町に置かれた駅が、のんびり窓外を過ぎていく。
スイッチバックがある二本木駅では、引き込み線に分岐していったん停止し、バックで構内に進入する。
普通列車と一緒にホームにおさまっている189系の姿を目にしながら、かつて特急列車として君臨し、二本木など見向きもせずに通過していた時代を思い起こすと、栄枯盛衰が心に滲みる。

それでも、189系「妙高」が残っていることを、良しとせねばならないのだろうと思う。
北陸新幹線が開通すれば、直江津と長野の間の鉄路は第3セクターとなることが決まっている。
「はくたか」と違い、もしかすると「妙高」はそれまでの命運なのかもしれない。


木々の合間から妙高山と黒姫山の雄大な山容が見え隠れするようになると、線路は登り勾配になり、少しずつ高度を詰めていく。
視界が広々として、高原の趣が増していく一方で、刈り取りが終わった田圃と線路際に生い繁る白いすすきが、深まりゆく秋を感じさせる。
昭和53年の白田切川の決壊をきっかけに建設された新線区間を走るため、地形は険しくても乗り心地はかえって滑らかになり、連続する高架橋とトンネルにより、「妙高」は呆気なく信越国境を越えてしまう。


黒姫駅を過ぎれば、再び速度が落ち、北信濃の奥深い山あいを縫って、右に左にきついカーブが連続する。
線路際にぎっしりと繁る木々と、急傾斜の山肌に視界を遮られて、暗い車窓ばかりである。
このあたりは線形が悪く、特急「白山」や急行「妙高」でもなかなか速度が上がらず、もどかしく感じたことを思い出した。

牟礼駅を過ぎると程なく、折り重なる山裾の向こうに、明かりが散りばめられた善光寺平が広がった。
終点の長野まで、残すところ30分である。

いつしか、黄昏が駆け足で車窓を覆い尽くそうとしていた。
下り坂に差しかかった「妙高」の足取りは、次第に軽やかになっている。
信越国境から連なる山岳地帯を抜けて、枝を密に伸ばすリンゴ畑の中を走る頃には、189系が特急として走っていた時代を彷彿とさせる見事な走りっぷりになっていた。
車輪がレールの継ぎ目を噛む走行音も、踊っているかのように心地良く耳を打つ。
古びた台車の軋みは、相変わらずだったけれども。

「はくたか」から「妙高」へ、2つの故郷を結び、30年の時を超えた懐かしのリレーも、どうやら終わりが近づいたようである。



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