寝台特急「あけぼの」との邂逅~子供の頃から憧れ続けたブルートレイン~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成25年11月の連休中、信州からの帰り道に高崎駅に降り立った。
乗ってきたのは上り最終の長野新幹線で、既に深夜11時になろうとしていた。


両毛線の電車に乗り換えようと、在来線ホームへの階段を降りている時、静まり返った構内に、拡声器からのアナウンスが不意に響いた。

「次の3番線は、22時48分発の寝台特急『あけぼの』青森行きです」

うわ、ラッキー、と小躍りする思いだった。
来春の廃止が噂されている伝統の寝台特急に、思いがけず会うことができる。

「あけぼの」が運行を開始したのは、昭和45年10月。

当初は、福島を経由して東北本線と奥羽本線を経由していた。
平成2年9月に、山形新幹線工事のため奥羽本線の福島-山形間が使えなくなり、東北本線から陸羽東線・奥羽本線経由の「あけぼの」と、高崎線・上越線・信越線・羽越線経由の「鳥海」の2系統に分離、平成9年3月の秋田新幹線開業に伴って陸羽東線経由の「あけぼの」は廃止されるも、「鳥海」が「あけぼの」に改称されて、現在に至っているのである。

僕が「あけぼの」を利用したのは大学生の時だった。
昭和62年の冬だったかと思う。
奥羽本線を全線走破する福島経由の時代だった。

友人との北海道旅行の帰りだったが、当時、何本も走っていた東北本線の寝台特急「はくつる」や「ゆうづる」ではなく、奥羽本線経由の「あけぼの」を選んだ理由は全く覚えていない。

周遊券だったから遠回りしても差額が発生するわけではなく、単に乗ったことがない列車に乗りたい、もしくは少しでも長い時間汽車に揺られていたい、ということだったのではないかと思う。

以来30年、僕が「あけぼの」を利用した記憶はない。

「あけぼの」と言えば福島経由、という時代遅れの思い込みが未だにあったから、ああ、高崎で「あけぼの」に会えるんだ、というのは不意をつかれた気分でもあった。

小学4年生で何かの拍子に鉄道ファンになってから、寝台特急列車は僕の憧れの的だった。
僕の故郷には寝台特急が通らなかったから、見果てぬ夢を追い求めているような思いで寝台特急列車のことを思い焦がれていた。

時刻表のページでまず開くのは、寝台特急が載っている線区だった。
時刻表は深夜の運転停車は記載しないから、始発駅付近と終着駅付近以外は通過を示す「レ」点がずらりと並ぶだけ。
「レ」が縦にずらりと並ぶページが、何ページも続いたりする。
ページを次々とめくって進んでいく線区を追っているうちに、未知の土地へ旅する寝台特急の乗客になった気分に浸れたものだった。

続いて、巻末の寝台特急の編成表。
「A」マークのA寝台、「☆」1つの3段式B寝台、「☆☆」2つの電車3段B寝台、「☆☆☆」3つの2段式B寝台。
個室寝台は「個」だった。

心底、乗ってみたいなあ、と思った。

何かの用事で友達が東京に行って寝台特急列車の写真を撮ってきたりしたら、みんなが群がって羨望の眼差しで見せてもらったものだった。

僕が初めて乗車した寝台列車は、特急ではなく急行「ちくま」だった。
長野と大阪を結ぶ夜行急行列車で、昭和50年の家族の京都旅行の時に片道利用し、B寝台に乗せてもらった。
当時の3段式B寝台は狭くて天井が低くて大変に乗り心地が悪かったと、当時を知る人から聞いたことがあるし、翌朝、京都に着いた時の両親の顔は疲れ切っていたような記憶もある。
それでも、僕は最上段に乗せてもらって御機嫌だった。
母と弟が下段で添い寝、父が中段だったと思う。

使われていたのは、日本で初めて寝台専用の客車として特急「あさかぜ」でデビューし、「ブルートレイン」の愛称で呼ばれた20系客車。
昭和50年には新型の寝台車ができて、古くなった20系は急行などにも使い回されていたのである。

20系B寝台の最上段は、梯子の昇り降りを厭わなければ、実はとっても居住性が良かった。
ベッドの幅は変わらないけれども、荷物置き場がベッドと同じ高さで通路の天井裏に設けられて広々としていたし、天井も比較的高かったのだ。

僕は、生まれて初めての寝台車に有頂天になって、小さな覗き窓から外を眺めたり、客車の外見のまま丸っこく曲線を描く天井を眺めながら、とても幸せな気分だった。

初めて寝台特急列車に乗ったのは、故郷を出て東京で暮らし始めてからだった。
昭和60年、特急「あさかぜ」で東京から広島へ行き、広島市内や宮島を巡ったのだ。
バイトで稼いだお金を奮発して、個室寝台に乗った覚えがある。

部屋は小ぢんまりしていて独房みたいだったけれども、夜汽車の豪華ムードを存分に味わい、朝の車窓いっぱいに広がった瀬戸内海の眺望に、遠くまで来た、という旅情がぞくぞくと湧いてきて身が震えた。

寝台列車は高額であり、そのうち僕は廉価な夜行バスにシフトしてしまった。

それでも、この30年近くの間に、ひと通りの寝台特急列車を経験することができた。

それだけに、平成になってからの寝台特急の凋落ぶりはどうしても寂しさがこみ上げてくる。

子供の頃に憧れた対象が消えていく。
それが、容赦ない時の流れ、時代の変化というものなのだろう。

東京発着の寝台特急だけでも──

上野と青森を常磐線経由で結んでいた「ゆうづる」は平成5年に廃止。

東京と熊本・長崎を結んでいた「みずほ」は平成6年に廃止。

上野と青森を東北本線全線を走破して結んだ「はくつる」は平成14年廃止。

東京と下関・博多を結んだ「あさかぜ」は平成17年廃止。

東京と長崎・佐世保を結んだ「さくら」も同年廃止。

東京と西鹿児島を日豊本線経由で結んだ「富士」(その後宮崎、更に大分止まりに区間短縮)と、鹿児島本線経由で西鹿児島を結んだ「はやぶさ」(その後熊本止まりに区間短縮)は平成21年廃止。

上野と金沢を結んでいた「北陸」は平成22年に廃止。

──と、これだけの寝台特急列車が姿を消している。

上記のうち、「みずほ」以外は乗ることができたけれど、現在残っている寝台特急は札幌行きの「北斗星」と「カシオペア」、青森行きの「あけぼの」、高松・出雲市行きの「サンライズ瀬戸・出雲」と寥々たる有様で、それも「カシオペア」以外は幸いにして乗車を経験することができた。

寝台特急の乗車時間の大半は真っ暗で車窓を眺めることなどできないし、客車の構造などはほとんど変わらないから、乗ったから格別変わったことがあるわけではないけれども、それでも、車内での何気ないエピソードでも、その旅を象徴する思い出として列車がなくなった後でも思い起こすことができるのは、かけがえのない人生の一幕だったからだと思っている。

初めての寝台特急経験だった「はやぶさ」で、夜明けの瀬戸内海の景観に目を奪われているうちに、徳山から乗ってきた弁当売りから買った幕ノ内弁当のこと。

「富士」で行った宮崎で食べた巨人軍御用達のうどん屋さんの美味かったこと。

「サンライズ」になる遥か前の「瀬戸」から乗り継いだ宇高連絡船のデッキの讃岐うどんの味も忘れ難い。

「さくら」に乗った時に対向列車の踏切事故に巻き込まれて2時間近く遅れたこと。

岡山から乗車した「サンライズ瀬戸」が遅れて、静岡から新幹線に飛び乗って出勤時間に間に合わせたこと。

ブルートレインだった時代の「出雲」の個室で流れていた邦画ビデオが思いのほか面白くて、旅から帰った後にDVDを購入したこと。

倉敷から乗った「サンライズ出雲」の個室で、当時付き合っていた女性と携帯で電話している最中に、僕が寝台特急に乗っているとわかるといきなり泣き出されたこと。

北海道旅行の帰りに「ゆうづる」の電車3段寝台の最上段をあてがわれて、客車とは全然違うあまりの狭さに、「寝るしかないじゃん」とばかりに話しかけてくる同行の友人に生返事を返しながら不貞寝したこと。

22時間かけて午後4時頃に西鹿児島へ着いた「はやぶさ」ではさすがに時間を持て余したけれど、逆に、早朝の6時過ぎに上野に着く「北陸」ではとっても物足りない思いがしたこと。

「北斗星」のB寝台で競馬好きのおっちゃんと向い合せになり、彼が編み出したという競馬必勝法について得々と説明を受けたこと、などなど。

これまでに巡り会うことができた列車の愛称を思い浮かべるだけで、様々な出来事とともに、その夜の客車の揺れ具合や台車の軋みまで脳裏に蘇ってくるようである。
それは、関西を発着した宮崎発「彗星」、新潟行き「つるぎ」、函館発「日本海」や、特急に昇格した直後の札幌発稚内行き「利尻」でも何ら変わりはなかった。

ただ、「あけぼの」で友人と過ごした北海道帰りの夜のことは、不思議と記憶が乏しいのである。
旅の疲れで、ひたすら寝込んでしまったのだろうか。
それだけに、深夜の高崎駅での思いがけない邂逅には胸が躍った。



22時45分、秋の深まりを思わせる肌寒い空気に少しばかり震えながら待っていると、緩やかな曲線を描いているホームの向こうに、まばゆい前照灯が現れた。
明かりは目を射るかのようにみるみる近づき、モーターの重々しい唸りとともに目の前を、巨大なEF64型電気機関車の渋く紺色に塗られた車体が通過していく。
続いて、機関車よりは明るいブルーの24系客車が通り過ぎながら速度を落とし、身を震わせながら停止した。






深夜のためか、ここで降りる乗客はいないだろうと予想しているのか、「たかさきー、たかさきー」という駅名のアナウンスはなかったような気がする。
乗りこむ乗客の姿も見当たらず、ホームをウロウロしているのはカメラを持った鉄道マニアらしい数人の男性だけだった。

停車時間は2分だった。

煌々と明かりがまばゆいホームで、直立不動の駅員さんが短くホイッスルを吹きならし、客車の折り扉が一斉に閉まった。

ガタン、と機関車に引き出された客車が動き出す。

カーテンに覆われた大きな窓が、次々と僕の前を過ぎていく。

挙手の礼を交わす駅員さんと、窓から半身を乗り出した車掌さんの姿は、いつ見ても絵になると思う。

鈍重な滑り出しだったが、走り出した客車はすぐに軽やかな足取りに一変し、線路を鳴らしながら青い矢のように僕の視界から過ぎ去っていった。
テールランプが、ホームのはずれの暗がりの中に消えていく。

夢のような数分間だった。
乗って行きたかったと思う。





その前日、11/2に報道されたニュースがあった。

『羽越線や奥羽線などを通り上野-青森駅間を1日1往復走るJR東日本の寝台特急「あけぼの」が、本年度で廃止される見通しとなったことが1日、鉄道関係者への取材で分かった。
乗客の減少や車両の老朽化などが原因。
東北を起点に運行する寝台特急が全て姿を消すことになる。

「あけぼの」は1970年に運行を開始。
酒田駅や秋田駅などを経由し、上野-青森駅間(772.6キロ)を約12時間半かけて結ぶ。
かつては1日2往復し、さらに上野-秋田駅間で1日1往復する列車もあったが、90年秋のダイヤ改正で1往復となった。

山形、秋田両新幹線の開業で東北と首都圏を往復する環境が大きく変わったことや、70~80年に量産された使用客車24系の老朽化が激しいことを理由に、東北新幹線が全線開業した2010年ごろから廃止が本格検討されていた。
一方で、秋田、山形両県などの新幹線の通らない日本海沿岸地域の駅からは、首都圏への唯一の直通列車として根強い利用がある。
東北を起点とする寝台特急は、12年3月に青森-大阪駅間を結ぶ「日本海」が廃止されて以降、「あけぼの」だけになっていた。

これまでに廃止になった寝台特急の中には、大型連休期間や年末年始などの繁忙期に臨時列車として運行されるケースがある』

また1つ、思い出の列車が消えていく。
時代の趨勢というものは、個人の感傷には全くお構いなしに流れていくのだな、と思う。

さよなら乗車というものに縁がない僕が、「あけぼの」と巡り会う機会は、おそらく2度とないだろう。

おそらくは、子供の頃から40年近く憧れ続けたブルートレインにも。


補記;などと「あけぼの」との惜別の思いを謳い上げたのですが、その数週間後、ひょんなきっかけから「あけぼの」に乗ることになりました(笑)
よろしければ、併せてお読み下さい。

『上野発の夜行列車への郷愁 最終章 ~寝台特急「あけぼの」東北最後の夜行列車との不思議な縁~』




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