最北端の禄剛崎を訪ねて厳冬の奥能登紀行 ー2ー 津々浦々を結ぶローカルバスと特急バス | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

1月末の夜に夜行バス「グリーンライナー」で新宿を発ち、早朝7時過ぎに、まだ薄暗い七尾駅前に降りたった(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11860098310.html)。
街角に雪は見当たらないけれど、どんよりと垂れ込めている重々しい曇天が、真冬の北陸にいることを実感させる。

JR七尾線と第3セクターの「のと鉄道」の改札が仲良く並んでいる駅舎から、僕は7時49分発の各駅停車に乗り込んだ。
 


 

2両編成の軽快なレールバスは、わずか数人の客を乗せ、まだ眠りから覚めていない七尾の街並みを後にして、和倉温泉駅に停車した。
様々な看板や幟が立ち並び、大阪や名古屋から直通している特急が横付けされれば活気づくであろう改札口やホームも、観光客らしい姿は皆無で、列車は素っ気なく駅を発った。

ここからは非電化区間で、黄土色の寒々とした枯れ野が広がっているが、刈り入れが終わった田畑なのか、手が入れられていない草原なのか区別がつかない。
「グリーンライナー」から眺めた光景と同じく、素寒貧とした平原が続く。
同じ冬の田園でも、北陸本線や北陸道の沿線では黒々としているのに、なぜ、能登ではこのような色調になるのだろうと思う。
 


 

やがて、その向こうに七尾湾が姿を現した。
対岸には、湾内の面積の大半を占めて、能登島の島影が浮かんでいる。

能登に来たのは3度目になるが、初めての訪問だった家族旅行から30年、2度目の一人旅から20年の歳月が流れているから、とても曾遊の地とは言えず、見るもの全てが新鮮だった。
2度目の旅では、輪島からの帰りに国鉄時代のこの鉄路に乗っているはずなのだが、記憶から全く抜けてしまっている。

レールバスは、時が止まっているかのような小駅に丹念に停車していくが、乗り降りする人はほとんど見かけなかった。
急勾配を避けているのか、線路は一貫して山の中腹あたりに敷かれているから、眺望は素晴らしいけれども、駅の位置は集落から見れば常に高台にあるわけで、決して便利な位置ではなさそうである。
平成の中頃までに能登半島から次々と鉄道が消えていった最大の原因は、モータリゼーションだという。
集落の中心までドア・ツー・ドアで入っていける車の機動力に、鉄道はとても勝てないだろうと思う。

車窓から見下ろす集落が切り通しの陰に消え、鬱蒼と茂る木々の合間をエンジンを轟かせながら右に左に縫って進むうちに、再び、滔々と水をたたえた海原が開ける。
海が見えたり隠れたり、あたかも紙芝居がめくられていくようで、目が離せない。
 

 

七尾から4つ目の駅で「能登中島」の駅名標が目に入り、ふと微笑が湧いてきた。
レイルウェイライターの種村直樹氏が平仮名の駅名標を見て、桜並木で知られる「能登鹿島」と早とちりして危うく下車しそうになったというエピソードを思い出したのだ(「駅を旅する」より)。
2駅先の能登鹿島駅は、確かにそれらしい木々が枝を伸ばしている、優しいたたずまいの駅だったが、さすがに1月末では、桜の名所としての面影はなかった。
 


 

終点の穴水駅には8時29分、定刻の到着だった。
一見、何の変哲もない終着駅に見えるけれど、ホームは長く、かつて展望型の急行列車として活躍した「のと恋路」号が静態保存されている。

 

以前は、北陸本線の津幡駅から七尾・穴水を経て東岸の輪島まで至る七尾線と、穴水から半島の北端に近い蛸島に至る能登線がY字型に伸び、ともに国鉄の路線であった。
昭和63年に能登線が廃線指定を受け、第3セクターとして設立された「のと鉄道」に引き継がれて、一時は黒字も計上したという。
その頃に「のと恋路」号も活躍したのだろう。
海側を向いたソファーを備えるなど、伊豆急行の「リゾート21」やJR五能線の「リゾートしらかみ」を彷彿とさせる車両だったというから、観光鉄道として脱皮できる可能性は大いにあったと思う。

 

 

だが、平成3年に不採算を理由に和倉温泉ー輪島間がJRから「のと鉄道」に移管され、その赤字が全線を圧迫する形となって、平成13年に穴水-輪島間が、平成17年に穴水-蛸島間がそれぞれ廃止されてしまったのである。
西岸の輪島へ行くために、半島の西側の根元に位置する津幡から東岸の七尾を経由する遠回りの線形では、客足が離れるのもやむを得なかったのかもしれない。
特に、穴水から輪島にかけては急勾配が続き、列車は平行する道路の車に次々と抜かれる有り様だったと聞く。
金沢から輪島まで、当時の急行「能登路」で約2時間30分前後、西岸沿いに直行する特急バスは2時間ちょうど、決して大差と言うわけではなかったのだが。

ここまでの僕の行程は、金沢からJR七尾線沿いに「グリーンライナー」でやって来たわけだから、図らずも往年の鉄路を忠実にたどって来たことになる。
だいぶ北まで来たつもりになっていたけれど、七尾から穴水までの鉄道の旅は、距離にして33.1km、地図で見れば能登半島の中央部を大きくえぐっている七尾湾の南から北まで渡っただけである。


握り拳を突き上げているような能登半島の最北端までの旅は、これからが本番で、東海岸に沿って延々80km近いローカルバスの乗り継ぎが待っている。
 


 

僕が乗り込んだのは、穴水駅前を9時15分発の宇出津行きで、廃止された能登線の代替バスである。
 

駅前で待っていると、新型の低床バスが現れたので少し驚いたけれども、乗車したのは僕と、観光客らしくリュックを背負った男性だけだった。
こんもりとした丘陵を越えて、鄙びた集落と集落を結んでいくバスの乗り心地は、鉄道より速度は劣るものの、経路は遥かにきめ細やかである。
大都市のノンステップバスと同様の車体で、起伏の激しい山道を登り始めたりするものだから、床下をこすらないか心配になる。
 


 

今回の旅で、能登はつくづく山国だと思った。
険しい地形ではないけれども、車窓のほとんどは海ぎわまで迫り出しながら折り重なる山が占めている。


そのような山々が覆い被さるように切れ込んだ入り江の懐に、小さな家々が寄り添うように集まっている。
軒先をこすらんばかりにバスがたどっていく集落に、人影は全く見えなかった。
途中、このバスを乗り降りしたのは合計しても数人ほどではなかったか。
道端に並ぶ民家も、ことごとく扉を閉ざしている。
家々の間を縫うように曲がりくねっている狭い道路で、対向車と出会うこともほとんどなかった。
岬に抱かれた漁港に出れば、冷たそうな水の上に固まって停泊している漁船の上や桟橋に人影を見かけることがあり、視界が開けたことと相まってホッとしたものだった。
美しいけれども、決して寛容とばかりではないはずの大いなる自然と折り合いながら、逞しく生活を営む人々の姿には、胸がつまる思いがした。

中居、比良、鹿波、沖波、鵜川、七見、矢波、波並とたどっていく停留所は、かつての能登線の駅と共通して、いかにも海沿いらしい地名が続く。
しかし、「駅前」と名のつく停留所は比良駅前、鵜川駅前、波並駅前の3ヶ所だけで、特に能登線の遺構は見当たらず、かろうじて駅の雰囲気を残していたのは終点の宇出津駅前だけだった。
海は穏やかにたゆたっているけれども、低く垂れ込めた厚い雲と暗い水平線の境界は霞んで定かではなく、空を映す海面も黒っぽく陰鬱としていた。


比較的大きな平地が開け、行き交う車が増えて、宇出津駅前到着は10時38分だった。
 

 

簡素な待合室と数台のバスが並ぶ広場で、次に乗り継ぐ珠洲鉢ヶ崎行きのバスを探したが、どこにも見当たらない。
隣りに待機している曽々木口行きのバスは、半島を横断して西岸に行く路線で、曽々木海岸と言えば能登でも有数の景勝地と言われているから、つい、そそられるのだけれど、ここで初志を曲げるわけにはいかない。

すると、それまで乗ってきたバスが、何食わぬ顔をして「珠洲鉢ヶ崎」と行き先表示を変えているではないか。

 


 

「なんだ、そのまま乗っていて良かったんかい」

穴水駅からずっと一緒だった男性が、運転手さんに笑いながらツッコミを入れている。

「いや、いったんここで料金を払っていただかなきゃならんので」

と、運転手さんが頭をかいた。
僕は一服してから、再び同じ席に腰を下ろした。

宇出津駅前を10時50分に発車したバスは、道端に併走する能登線の痕跡をたどりながら、一方は海、一方は山に挟まれた僅かな隙間にうねうねと延びる道を走り続けた。
小浦、真脇、九十九湾小木、松波、恋路浜──
水平線を遮る島々はいつしか消え失せて、吸い込まれそうなほど広々と開けた海原が車窓いっぱいに広がった。
飯田湾である。
 


 

その一角にある、砂浜が緩やかに弧を描く恋路海岸には、700年前の若き男女の悲恋と死、その恋を引き裂いたことを悔いて僧侶となった男の物語が伝わる。
ガイドブックなどは恋路浜のロマンチックさを謳い上げているが、この日の空は黒々とした雲で隙間なく閉ざされ、押し寄せる波は穏やかでありながら、哭いているかのように哀しげだった。

豊かな車窓に釘付けの1時間が過ぎ、11時49分、バスは古びた町並みの路地を曲がり、鵜飼駅前に到着した。
このバスが向かう珠洲鉢ヶ崎は僕の目的地の途中だが、次に乗り継ぐ木の浦行きのバスの始発が鵜飼駅前であるため、ここで下車したのである。

バスが走り去った駅前にぽつんと1人取り残されると、急に心細さがこみ上げてきた。
次のバスは、こんな寂れたところに本当に来てくれるのだろうか、と、何度も停留所のポールの時刻表を確かめたものだった。

ちなみに、この旅の4ヶ月後に、木の浦線の鵜飼駅前乗り入れは廃止されている。

ここで初めて能登線の廃線跡を目の当たりにした。
廃止後10年が経とうとしているが、駅舎もホームも在りし日を偲ぶかのように保存され、レールが撤去されて草ぼうぼうの路床が痛々しい。
 


 

やって来た木の浦行きのバスは、ミニ四駆のように短躯な車体だった。
車庫から出てきたばかりで暖房が充分に効いておらず、待ち時間で身体がすっかり冷え切っていた僕は、座席に落ち着いてからも、しばらくがたがた震えが止まらなかった。

それまでの寂しげな車窓と異なり、バスは、飯田、正院、蛸島と、珠洲市の古い町並みを走り抜ける。
道の駅「すずなり館」、珠洲市総合病院、県立飯田高校など、立派な公共施設もあり、久しぶりに大都会へ来た気分になった。
先程のバスの終点、鉢ヶ崎は、公園やホテル、日帰り温泉などが立ち並ぶ観光地だったが、真冬のオフ・シーズンで、ひっそりと氷雨が煙っているだけだった。
 


 

このあたりが能登半島の最東端にあたり、バスは、いよいよ握り拳の頂点へ向かっていく。
穏やかだった内海とは様相が大きく変わり、灰青色の海は白い波頭を立ててうねっている。
高まる潮騒と、その上を渡っていく風の音が、バスに乗っている僕の耳にも届いてくるようだった。
凄みを増していく海山の変化を見つめながら、ついに奥能登まで来たのだなあ、と思う。
暗鬱で荒涼とした空と海が描く、いかにも北陸らしいこの光景こそ、僕の憧憬を煽り立てて、今回の旅の原動力となったのだ。

思い出すのは、松本清張の推理小説「ゼロの焦点」である。
実家の本棚で埃をかぶっていた単行本を手に取ったのは、中学生の頃だった。
父が買ったのか、母が買ったのか、今でも定かではない。
僕が初めて読んだ松本清張だった。
能登を舞台にした悲愴な連続殺人事件と哀しい人間模様は、生き生きとした筆致で描かれた能登の情景とともに、強く僕の心を揺さぶった。
主人公が断崖に立ちながら思い浮かべる、エドガー・アラン・ポーの詩が印象的だった。

『しかし、ごらん、空の乱れ
波が騒めいている

さながら塔がわずかに沈んで
どんよりとした潮を押しやったかのよう

あたかも塔の頂きが幕のような空に
かすかに裂け目をつくったかのよう

いまや波は赤く光る
時間は微かにひくく息づいている
この世のものとも思われぬ呻吟のなかに

海沿いの墓のなか
海ぎわの墓のなか──』

この部分は2つの詩を合わせたもので、前半は「海の中の都市」、最後の2行は「アナベル・リー」からの引用である。

小泊港、能登伏見、能登宇治、粟津、葭ヶ浦──
 

バスは、ひっそりとたたずむ集落をたどりながら高台を登る坂道に差しかかり、これ以上は北へ行けませんよ、と言うように左へカーブを切れば、そこが狼煙の町だった。

時刻は13時01分。
東京を出て15時間、金沢から7時間半、七尾から5時間あまりをかけて、僕は、ついに能登半島の最北端までやって来たのだった。
 

 

前回の冒頭に記したように、禄剛崎灯台への道のりは平坦ではなかったけれど、それだけの価値がある場所だった。
風が鳴り、足元で海が轟く断崖に立ちすくみながら、僕は「ゼロの焦点」の最後の場面を思い浮かべていた。

『また、波が来た。その間、また室田氏は、言葉を休んだ。そして、言葉を続けたときは、こう言った。
 

「私は、あの海の下に、家内の墓があると思っています。そして、毎年、今ごろ、私は、ここを訪れて来ようと思います」
 

禎子は、いつぞや、現在立っている場所と、百メートルと離れていない岩角に立って、心にうたった詩が、この時、不意に、胸によみがえった。

In her tomb by the sounding sea!


とどろく海辺の妻の墓!

禎子の目を烈風が叩いた』

舞台は禄剛崎ではなく、西岸の能登金剛の南に位置する赤住海岸とされているが、それはどうでも良い。
こうして、念願の能登を心ゆくまで旅することが出来たのだから。

僅かな滞在時間で去るのはとても忍びなかったけれど、振り切るように狼煙の町に下りてきた僕の前に、30分で終点の木の浦まで往復してきた、13時31分発鵜飼駅行きのバスが現れた。

「灯台に登ってきたんですか?」

来る時には一言も発しなかった運転手さんが、バックミラー越しに笑っていた。

 


 

目的は達したけれども、能登半島の果てまで来たのだから、帰りも大仕事である。
このバスは鵜飼駅前に14時35分に到着するが、そこからの接続が滅茶滅茶で、宇出津駅前行きが14時24分に出たばかり、次の宇出津行きは16時08分までない。
宇出津に17時08分に着き、17時31分発の穴水駅行きに乗り換えれば、穴水到着が18時27分。
穴水発18時52分の「のと鉄道」で七尾着19時34分、19時39分発のJR七尾線に乗り継げば、金沢到着は、なんと21時12分になる。

北陸鉄道バスのHPと時刻表を何度も睨みながら、僕は溜め息をついたものだった。
能登は何と広く遠いのか、と。
僕の旅の主目的は金沢にあったから、あまり遅い時間に着くことは憚られた。
金沢に行くついでに、ちょっと最北端まで往復して来ようと言うほど、能登は甘くなかったのである。
 


 

僕は、珠洲の中心街を抜けた道の駅「すずなり館」前で、バスを乗り捨てた。
時刻は14時19分。
どうせ長い待ち時間ならば、何もない鵜飼駅前ではなく、道の駅でのんびりしよう、と開き直ったわけではない。
ここに救世主がいたのである。

能登半島には金沢発着の北陸鉄道の特急バス網が何系統も張り巡らされている。
最も本数が多いのが、1日11往復の「輪島特急」であるが、その他にも、和倉温泉・七尾と金沢を結ぶ「七尾特急」や「中能登特急」、珠洲鉢ヶ崎発着の「珠洲特急」、西岸の大谷、曽々木を結ぶ「大谷特急」、門前、富来、高浜、羽咋を結ぶ「門前特急」などが運行されている。
能登側を午前に出発、金沢を午後に出発する路線が多く、「珠洲特急」などは珠洲鉢ヶ崎13時38分発が上り最終便であり、鉢ヶ崎を14時01分に通過する僕などは、思わず歯噛みしたくなる。

それだけに、1日2往復と目立たない「宇出津真脇特急」に「すずなり館」を14時51分に発車する上り便を見つけ、金沢駅到着が所用に何とか間に合う18時14分であることを発見した時には、まるで禄剛崎を日帰り往復する僕のためにあるようなバスではないかと、小躍りしたものだった。
道の駅と敷地が続いているバスの車庫で発車の準備をしている金沢行き特急バスの姿を見ながら、僕は旅の達成感と安堵感に浸っていた。
 


 

珠洲市役所前、南鵜飼、本鵜島、恋路浜、内浦庁舎前、九十九湾、小木港、縄文真脇温泉前、本小浦、羽根漁港、能登町役場前、宇出津駅前──
 

特急バスは、時に僕が来た道に忠実に、時にバイパスで集落のはずれをショートカットしながら南下し、宇出津を出ると東海岸から離れて県道57号線に右折して奥能登丘陵の懐深くに分け入っていく。

長坂、上町、柳田天坂と進むにつれて、いつしか周囲の山や田畑は薄く雪をまとい、能登空港では除雪された雪の塊がうず高く積み上げられていた。
能登空港ICから能越自動車道に乗り、穴水此の木バスストップを経て、のと里山海道へ、坦々としたハイウェイクルージングが続く。
快適な乗り心地だったが、行きのローカルバスに比べて退屈な気がしたのは、なぜだろうか。
 

 

 

羽咋で西海岸に出たあたりで、とっぷりと日が暮れた。
雨に濡れた路面に、行き交う車のヘッドライトが照り輝いている。


松林越しに垣間見える千里浜は、黒々と闇に包まれた海面に、幾重にも逆巻く白い波濤が浮かび上がって、大変な荒れ模様だった。
 

 

内灘で一般道に降りると、道路の中央に埋め込まれた消雪パイプから溢れ出す水が洪水のようだった。
金沢市内に雪はなかったけれども、3時間あまりの特急バスの旅を終えて金沢駅西口に降り立った僕の頬を、雨混じりの烈風が激しく叩いた。

能登で触れた自然の厳しさに思いを馳せながらも、順調だった旅に満足しきっていた僕が、翌日の東京までの帰路で、北陸の自然の猛威を思い知らされる羽目になろうとは、その時は夢にも思っていなかった。
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