最北端の禄剛崎を訪ねて厳冬の奥能登紀行 ー1ー 丸一観光グリーンライナー号新宿発七尾行き | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

降りたばかりの路線バスが走り去ると、雪混じりの凄まじい風が僕に襲いかかってきた。
狼煙の集落に人影はなく、どの家も雨戸やシャッターを固く閉ざして、吹き荒れる風をじっと堪え忍んでいる。
 


 

僕はショルダーバックを揺すり上げて、バスの車内で見た地図を反芻しながら歩き出した。


国道から「禄剛崎灯台 近道」と書かれた手書きの看板に従って、古びた木造家屋が並ぶ横道に足を踏み入れると、ひび割れた石畳の長く狭い階段が斜面を巻くように伸びている。
いったい何段あるのだろう、と溜息をつく思いで見上げながらも、僕は、1歩1歩足元を踏みしめながら登り始めた。
 


風に揺れる木々の茂みの合間から、少しずつ展望が開けていき、こぢんまりとした狼煙の町並みや漁港が下方へ遠ざかっていく。
帰りのバスの時間まで、およそ30分しかないから、気だけは逸るのだけれど、息切れがして身体がきつくなってきた。
泊まりがけのつもりで持ってきた荷物が、重く肩に食いこむ。
しかし、狼煙の町に、荷物を預かってくれるような店はどこにも見当たらなかった。

はるばるここまでやってきて、くじけるわけにはいかない。
何としてもたどり着かなくてはならない、と、僕は重くなった足を必死で持ち上げていった。
それでもへこたれそうになった頃、ようやく階段が終わり、泥だらけにぬかるんだ坂道になった。
滑って足をとられそうだけれど、傾斜が緩くなったので、息を整えながらひと息つくことができた。

 


 

不意に左右を覆っていた木立ちが切れて平地が開け、安堵する間もなく、麓よりも遙かに強い雨混じりの風が僕に襲いかかってきた。
顔を上げれば、目の前にそれがそびえ立っていた。

能登半島の最北端に建つ、禄剛崎灯台。

その向こうには、白い波濤を逆立てている冬の日本海が広がっていた。
断崖に打ちつける荒波の轟きが、足元はるか下方に聞こえる。
雨混じりの風切り音が、耳元で唸りを上げて吹きすさぶ。
居並ぶ木々が、大きくしなりながら、ざわざわと身を揺さぶっている。

風に負けまいと懸命に踏みしめている僕の足元で、人間の世界は途絶えていた。

東京を出て十数時間、僕は、ついに地果つる岬にたどり着いたのだった。
烈風に顔を叩かれながら、不意に、脳裏に詩の1節が浮かんだ。

In the sepulchre there by the sea,
In her tomb by the side of the sea!

 

 

その前の夜、定刻22時ちょうどに新宿を出発した丸一観光の金沢経由七尾行き夜行高速バス「グリーンライナー」は、闇に包まれた都内を走り抜けて練馬ICから関越道に入り、エンジン音を轟かせながら北へ向かっていた。

丸一観光は七尾市に本社を置く運送会社で、トラック業も営んでいる。
北陸を走っていると、同社のバスやトラックを見かけることは少なくない。

平成24年のゴールデンウィーク中の関越道での悲惨な事故をきっかけに、平成25年8月から規制が厳しくなった高速乗合バス業界であるが、北陸では丸一観光をはじめ、小矢部市に本社を置くイルカ交通、金沢市に本社を置く中日本エクスプレスなど、地元に根を張った地元事業者が数多く頑張っている。
一時は国土交通省から厳しい指導を受けた業者もあると聞いているが、新制度に合わせて厳格な安全基準を満たす よう努力しながら運行しているものと信じたい。

たいていは、首都圏から富山・高岡近辺の街を経て金沢が終点となる路線を展開しているのだが、丸一観光だけは金沢もしくは富山を経由して能登半島へ向かうバスを走らせている。

東京から夜行で能登へ──

その響きに魅せられて、僕は「グリーンライナー」を選んだ。

 


 

始発地である新宿住友ビルのWILLER高速バスターミナルで、ピンク色のバスに混ざって発車を待つ姿は、どこか微笑ましかった。
横っ腹には大きく「○1」と書かれ、読み方は異なるけれども、首都圏の有名大型店舗のトレードマークを想起させる。

使われている車両は、愛称そのままに緑一色のシンプルな塗装を纏った、韓国製ヒュンダイユニバースのハイデッカーだった。
ヒュンダイのバスに乗るのは、昨年の11月に日本中央バスの秋葉原発新宿・さいたま・高崎・前橋経由富山・金沢行き夜行バス以来2度目だったが、エンジン音が低く控え目な日本製とはひと味違う。
音の大きさはそれほど変わらないだろうが、いかにも一生懸命回っています、と主張しているような陽気な響きがするのである。
 


 

座席は前方3列と最後部が左右2列ずつの横4列シート、残りが左1席、右2席の横3列シートである。
革張りのシートの、傾きが大きい背もたれと独特の形状のヘッドレスト、ごついシートベルトなどは、日本中央バスの車両と変わりはない。
僕は1人旅だけれど、右2席の窓際が指定されており、しかも隣りに相客はなく、ゆったりと夜を過ごすことができそうで嬉しかった。
1月最後の週末だから、もともと乗客が少ない時期なのであろう、車内にはぽつりぽつりと空席が見受けられた。

関越道から上信越道、そして北陸道に到る経路は、何度もバスで通い慣れている。
23時20分頃に到着した高坂SA、日付が変わって深夜1時40分過ぎに到着した松代PA、そして未明の4時を回った頃に到着した有磯海SAと、2~3時間ごとの休憩で下車し、身体を伸ばすのもいつものことだけれど、実は、この夜だけは勝手が違っていた。

座席のゆったり加減も、バスの静かな走りも申し分なく、普段ならば休憩と休憩の合間はぐっすりと眠りこむのだが、この日ばかりは、うとうとしかけると、足元からカッと押し寄せてくる熱気が無性に気になって熟睡できない。
ひと昔前のディーゼルカーのように、窓際の下部に暖房のパイプでも通してあるのだろうか、フットレストに足を乗せていると熱くてしょうがない。
頭寒足熱が身体にはいいんだよな、と自分に言い聞かせながら目をつぶろうと努めるのだが、いったん気になり出すともう眠れない。
仕舞いには、あいている隣席のフットレストを降ろして足を伸ばしたり、寝返りを打って横向きに寝ようと試みたり、靴下を脱いでみたり、とにかくため息ばかりを繰り返す長い長い一夜を過ごす羽目になった。
夜行バスでこれほど眠れないのは初めてだった。
前回ヒュンダイに乗った時は、少しばかり暖房効き過ぎかな、と、額に汗がうっすら滲む程度だったから、車両のせいではないと思う。
他の乗客はぐっすりと眠っている様子で、それがまた、取り残されたような焦燥感を煽る。
休憩時間で触れることができる、外のひんやりした空気が恋しかった。
 

 

高坂SAで身を包んだのは、乾いた冷気だった。
こんな遅い時間に、焼きそばを鉄板で焼いている屋台が営業しており、香ばしい匂いが漂っていた。
うって変わって寝静まっていた松代PAでは、冷たい雨が路面を叩いていた。
夜明け前の有磯海SAも、凍りつくような霧雨の中で静まり返っていた。

「グリーンライナー」とは対照的な、鮮やかな黄色い塗色のイルカ交通「きときとライナー」と、ずっと道連れだったが、有磯海SAでその姿を見ることはなかった。

 

 

明け方になって、ようやく寝苦しさより眠気と疲労感の方が勝ったのだろうか、有磯海SAから先の道のりはほとんど憶えていない。
外気温が下がって、強い暖房が気にならないほど車体が冷え、居心地が良くなったのかもしれない。

車内が少しばかりざわざわとなった金沢駅西口で、雨粒に濡れた窓ごしに、煌々と明かりが照らし出す人影のない停留所を見下ろした記憶は残っている。
この季節の5時半は、真っ暗なんだなあ、とぼんやり思った。

 


 

白々と夜が明け始めてからは、時折カーテンの隅をめくり、枯れ草のような黄土色に覆われた草原と、色褪せた常緑樹の山々が、雨に滲む車窓を過ぎ去っていく様を、寝ぼけまなこで眺めながら、うつらうつらと過ごしていた。
それは、これまで東京から北陸へ向かうバスで見たどんな車窓とも違う、寒々と枯れた光景だった。
能登に来たんだな、と、眠りに引きずり込まれがちな頭の中で、ふと実感した。

 


「グリーンライナー」は、新宿から金沢回りで七尾に向かう系統と、富山駅・小杉駅・高岡駅・氷見を経由して七尾に直行する系統がある。
僕が乗った系統は、金沢駅を出ると、国道8号線で津幡駅前、JR能登線に寄り添う国道159号線で宇野気駅前、羽咋駅前と能登半島の西岸を北上し、国道249号線で半島の根元を横断して東岸の和倉温泉駅を回ってから、南の七尾駅前に下りていく。
バスのスピードが一般国道より速かったような気もしたから、高規格の「のと里山海道」を経由したのかも知れない。

ならば、宇野気と羽咋の間では、砂浜を車で走ることが出来る「千里浜なぎさドライブウェイ」を左手に見ることができた可能性もあるのだが、僕の座席は右側で、ほとんど夢うつつで過ごしていたから、全く気づかなかった。

僕が初めて能登半島に足を踏み入れたのは、確か小学校3年生の秋、父が運転する車で長野からやって来た時だった。
能登のどこを回って、どこまで行ったのか、全く憶えていないし、今となっては確かめる術もないのだけれど、長野を真っ暗な午前3時に出発したこと、途中で車酔いしたこと、そして「千里浜ドライブウェイ」を走ったことと、帰り道で、それまで見たこともないような大きな夕陽が日本海の向こうにゆっくりと沈んでいくのを眺めた記憶だけは、今でもありありと脳裏に蘇る。
あれが、家族みんな揃って車で遠出した、初めての旅行ではなかったかと思う。

大学生だった平成元年に、開業したばかりの横浜から金沢行きの夜行バスで一夜を過ごし、金沢から朝1番の特急バスに乗り換えて輪島駅まで行き、そこから国鉄七尾線に乗って帰って来たことがあるけれども、これは、純粋に乗り物マニアとしての旅であって、朝の日光に照らされてあっけらかんとした輪島の街のたたずまいをぼんやりと憶えている程度である。
横浜からのバスは「ラピュータ(LAPUTA)」という愛称で、当時は横4列シートだったけれども、平成19年に運行事業者が変わって、宮崎駿の映画を思わせる愛称も消えた。
七尾線も、平成3年に第3セクターのと鉄道に移管され、平成13年には廃止されてしまった。

能登を最初に訪れてから、40年近くの月日が流れたことを思うと、どこか虚しい気分に襲われる。

断片的ながらも、強烈な思い出を残した幼い頃の旅路を偲びつつ、もう1度だけ能登半島を訪ねてみたい。
奥深い能登半島の全てを探訪する時間はないけれども、できることならば、最北端まで往復してみたい。
そんな思いに駆られて、僕は「グリーンライナー」に乗りこんだのだ。

金沢を出てから途中で停車した気配はなく、七尾駅前に到着したのは、予定より30分も早い午前7時15分だった。

夜は白々と明けかけ、雨こそやんでいたものの、空は北国らしいどんよりとした雲が垂れこめて、コンビニや駅の照明が濡れた路面に明々と反射していた。(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11864671443.htmlに続く)

 

 

 

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